第九章 その二
まさかとは思う。雪子が娘たちに手を出すとは考えられない。しかし、村人たちは分からない。特に最近は殺気立ってきており、先週も村の顔役会議で青年団長とひと悶着があったばかりだ。
「愛、舞・・・どこだ・・・」
私は走りながら自分の気持ちを奮い立たせるように呟いた。社は村のはずれの崖の近くだ。走れば十分くらいの距離だ。そう遠くはない。遠くはないが若くはない私には少しだけ苦しい距離ではある。
私は齢四十になる。二人はやっと授かった大切な娘たちだ。妻は産後に流行病にかかりすでに他界している。その妻の遺言が『二人に幸せを・・・』だった。こんなところで終わらせるわけにはいかない。二人の人生を終わらせるわけにはいかないっ。
私は走った。今までこんなに走ったことがあっただろうかというほどに走った。途中、見慣れぬ夫婦がいたがそんなことはどうでもいい。今は娘たちの安否を確認することが第一だった。
やっとの思いで社までたどり着く。そこで私が見たものは、雪子と二人の娘だった。雪子は社の陰に座り込み、娘たちもまるで母に縋りつく娘のように抱き着いている。だが・・・いつもと違うのは雪子の服装だ。我が家の家政婦は二人ともエプロンを身に着けている。セツも雪子も白のエプロンだ。そのエプロンが赤く染まっている。
「愛、舞っ、どうしたんだ?雪子は?」
私は息を激しく乱しながら二人の愛娘に声をかける。
「ゆきこ、ねてるの。」
愛が答える。
「わかんない。」
舞も答える。
「そうか・・・二人ともこちらにおいで。」
そう言って両腕を広げて二人を自分のもとにいざなう。二人の娘たちはすぐに私のもとに飛びついて来た。
「よしよし。いい子たちだ。お父さんは雪子の様子を見てくるからね。待ってるんだよ?」
二人の娘は無言で頷く。それを見て私は恐る恐る雪子に近づいていく。恐らくは生きてはいまい。もし生きているなら私の声に何らかの反応をするはずなのだ。
「雪子・・・どうしたんだい?大丈夫かい?」
そう声をかけながらゆっくりと近付いていく。雪子まであと三歩ほどの距離まで近づいた時、雪子に何が起こったのかはっきりと理解した。彼女の腹部に深々と包丁のようなものが刺さっているのだ。雪子のエプロンを赤く染めているのは彼女の血なのだろう。
そうなると問題は誰が雪子を刺したのかということになる。この場にいたのは娘たちだけ。恐らくあの子たちは刺された現場を見てはいまい。犯人は分からない。セツの話だと雪子と村長が何かを話していたとは言うが・・・ならば犯人は村長なのだろうか。いや、村長がこのような短絡的な行動を起こすとはにわかに信じがたい。では一体誰が・・・
「雪子・・・」
そう言いながら彼女の首筋に手を当てる。わずかに息がある。まだ脈を打っているっ。刺された際の出血で気を失ったのだろうか。瀕死の状態だろうが雪子は生きているっ。
「雪子っ、大丈夫か?私の声が聞こえるか?」
雪子の頬を軽く叩きながら声をかける。
「・・・う・・・」
雪子は小さく苦悶の声を出す。
「よし、そのまま意識を保っているんだぞ?今すぐに医者を呼んでくるっ。」
そう言って雪子の元を離れようと振り向いた。
「舞・・・?」
舞がこちらを鋭い眼差しで睨んで立っていた。一方で、愛は気絶でもしているのかぐったりと地面に倒れている。
「この女・・・まだ生きていたのか。」
とても三歳の少女が発したとは思えない低い声と言葉。
「舞・・・どうした?何を言っている?愛は?どうしたんだ?」
私は動揺した。そして、少しずつ今起こっていることを理解しようとした。しかし・・・無理だ。わかるわけがないっ。
「舞?あぁ、この娘の名前だったかな。僕は巴って言うんだ。って知らないか。君と話をするのは初めてだもんね。」
「巴?誰だ、それは。お前は舞じゃないのか?」
自分でも何を言っているのかわからない。そこに立っているのは確かに舞だ。しかし、舞は自分のことを巴だという。しかも、あんなに流暢にはなすなんて・・・
「だーかーらー、さっきも言っただろう?僕は巴だって。あぁ、そうか。この姿だからわからないんだね?わかったよ、君にも僕のことを知る権利があるもんね。」
「知る権利?なんのことだ。それよりも舞を返せっ。」
私は大声で巴と名乗る舞の姿をした少女に向かい合う。少女の右手にはしっかりと包丁が握られている。
「まぁ、待ちなよ、丈夫。君は高無丈夫だろう?君は僕の話を聞いたほうがいいと思うよ。」
巴・・・認めたくはないが今話しているのは舞ではないのかもしれない。
「その前に・・・医者を呼ばせてくれないか。このままでは雪子が死んでしまうっ。」
そう言って一歩前に踏み出した時、何者かが腕をつかむ。
「ダメです・・・」
振り向くと瀕死だったはずの雪子が私の腕を掴んでいる。
「雪子、動いちゃダメだ。すぐに医者を呼ぶからここで待っているんだ、いいね?」
「やれやれ。丈夫。君はまだわかっていないんだね?この女が何をしようとしたのか。」
そう言って素早い動きで雪子のもとに駆け寄り、腹部に刺さった刃物を引き抜き、一気に首を切り裂いた。
「!」
雪子の体はビクンビクンと二、三度痙攣し、そのまま動かなくなった。
「雪子?舞?」
状況を全く理解できない私は二人の名前を声に出すのが精いっぱいだった。
「やれやれ。これでやっと落ち着いて話をすることができるよ。」
そう舞・・いや、巴が冷徹に言い放つ。
「どういうことだ・・・」
「だから。言ったとおりだよ。この女は僕か愛を殺すつもりだったのさ。村長の命令でね。まぁ、この女は私を殺そうとしていたみたいだけどね。」
冷たい目で雪子を見つめる巴。
「村長の命令?雪子が?まさかっ。」
「いい加減に認めなよ、丈夫。この村のしきたりは知っているだろう?『双子は忌み子。どちらかを処分せよ。』っていう。」
巴が血にまみれた舞の顔で私を見る。
「それは・・・そうだが・・・まさか・・・冗談だろう?」
雪子が娘たちを殺そうとしていたとは信じられない。雪子は妻である綾の遠縁と聞いている。簡単には信じることなどできない。この期に至っても巴の言葉を信じることができない私に対して、さらに追い打ちをかける言葉が放たれる。
「おい丈夫。いい加減に認めたらどうだ。雪子は僕か姉さんを殺すために来たって言ってるだろう?実際、この包丁は彼女が持っていたものさ。まぁ、僕のことをだませるはずがないんだけどね。」
そう言って笑いだす舞の姿をした巴。
「何が起こっているのかわからない。さっぱりわからないっ。」
「そうやって声を出していれば解決するのかい?丈夫。」
「お前は誰だ?本当に舞じゃないのか?」
私はそう問いかけた。
「僕は巴であって舞でもある。詳しい話を聞きたいかい?」
巴が冷たい声で薄ら笑いを浮かべながら言う。
「お前が舞ではないのなら・・・巴というのは誰なんだ。舞をどこに隠したっ。」
私はすっかり混乱していた。目の前にいる舞は舞ではなく巴だという。では舞はどこへ行ったのだ。そればかりが頭の中を駆け巡っていた。
「やれやれ。本当に困ったものだ。人間というのはすぐに見た目に左右される。僕は今、舞の体を借りているだけであって、舞ではないのさ。言っただろう?僕の名前は巴だって。」
「舞は・・・もう、いないのか?」
「はぁ・・わかりやすく説明してやるよ、丈夫。僕はね、双子の神とも呼ばれている存在だよ。他にも呼び名はあったけどね。この呼ばれ方が一番気に入っているんだ。」
そう言ってやっと笑顔を見せる。
「神・・・?お前が神だと?」
「そうだよ。僕は神さ。良く考えてごらんよ。君の娘の舞がこんなに話ができると思
うのかい?まだ三歳の子供なんだよ?」
「そ、そうかもしれないが・・・しかし・・・」
「しかし・・なんだい?」
巴は首を大きく傾げて問いかけてくる。
「仮にも神と名乗るものが・・・人を・・・殺めるのか・・・」
そう言って巴を睨み付ける。
「そうだね。うん、これは僕にとっても誤算だった。まさか、愛を狙うとは思わなかったんだよ。この女は僕のことより、愛のことを可愛がっていたからね。てっきり僕を殺すつもりなんだと思っていたんだ。狙われているのが僕だったのならば、対処のしようもあったんだけどね。突然だったから仕方なかったんだよ。」
笑いながら私の問いに答え、さらに続ける。
「君もそうだろう?人間っていうのはいつの時代にでも、他者の命を奪って生きている生き物なのだからね。そう、もちろん直接的にではないにしても、誰かの命を奪って生きているんだ。何のため?そんなことは知らない。それはその人間次第だろう。人間は誰よりも自分が可愛い生き物なんだ。自分の大切な者の命が狙われたら相手を殺してでも守ろうとする。それは一見美しい行為のように見える。でも、それがどういうことかわかるかい?守るために殺す。結局命が失われたということには違いがないんだよ。結局はね、大切なものを守るといっても自分のためなんだよ。自分が失わないために他人の何かを奪う。違うのかい?」
私は何も言い返せなかった。雪子が娘たちを殺そうとしていて、その現場に出くわしてしまったなら。躊躇することなく私は雪子を殺すだろう。
「そうだよ、丈夫。それで間違っていないんだ。君の考えは正しいよ。」
そう言って巴が私のもとに歩み寄ってくる。巴の考えが正しいのだろうか。私も巴と同じ行動をとってしまうだろうか。
「自分たちが助かるためならば、自分と縁遠い人間の生死など関係ない。かつて、この村が行ってきた行動そのものだよ。」
そう言って巴が大地に唾を吐く。
「まったく・・・何百年経っても変わらない・・・屑共が。」
「お前は・・・自分を神と言ったか。」
「あぁ、言ったよ。だが、僕自身が神だと名乗ったことはないけどね。君たちが勝手に僕たちをそう祀り上げているのさ。」
巴は立ち尽くしている私の顔を覗き込みそう言った。
「お前は・・・神なんかじゃない。舞を返せ。」
精一杯の言葉を巴にぶつける。
「返せ、か。別に奪ったつもりもない。だが、返せと言われても困る。この体は僕のものでもあるんだ。やっと生まれてきた僕の依代なんだ。」
そう嬉々として答える巴の姿を見て、私は恐ろしくなった。
「一つ聞く。舞は・・・どうなったんだ?」
「舞か。すでに舞の意識は私にのみ込まれているよ。ここ一年の間、あの子が表に出てきた覚えはないな。」
何事もないかのように巴が答える。
「どういうことだ?」
「はぁ、まったく。人間というのは厄介だな。全てを話さなければわからないのかい?君が見てきた舞という少女は僕だよ。僕が演じていたんだよ、三歳の少女をね。大変だったよ。正直言うと、ここまで覚醒が早いとは思っていなかったんだ。これは舞という子の依代としての器の大きさのせいかな。おかげで僕はかなりの力を持ったまま生まれ変わり、いや、黄泉がえりをすることができたんだからね。感謝してるよ。」
「舞は・・・いないのか?もう。」
「そうだね、いないというわけではないよ。僕の中に生きている。ちゃんと舞という子は僕の一部として生きているよ。まぁ、このまま目覚めることはないかもしれないけどね。でも、君が望むなら、僕が舞として生きてあげてもかまわないけど?」
無邪気に笑う巴に対し、様々な思いが込み上げてくる。
「どうやったら・・・舞を取り戻すことができるんだ?」
「さっきも言ったように、舞の意識というか存在は、僕と一つになっている。今さら無理だよ。」
悪びれた様子を見せることもなく笑いながら答える。
「・・・・」
「僕の望みは一つなんだ。もっと生きたい。それだけなんだよ。だから、邪魔しないでもらえるかな?」
そう言って大きく目を見開き、懇願というよりは脅迫と言ってもよいであろう圧力をかけてくる。さすがは神を自称するだけのことはある。巴が私に睨みを聞かせた瞬間に周りの木々が一斉に騒めきだし、鳥が飛び去っていった。いわゆる殺意というものを私は初めて感じた。圧倒的な恐怖。姿は愛娘の舞そのものだが、この威圧感・・・今までに感じたことがないほどのものだ。
「愛は・・・どうなっているんだ・・・」
やっと絞り出した問。ぐったりしている愛がどうなっているのか。
「愛・・・僕が守りたいものの依代となると思っていたのだが・・・どうやら思い違いだったようだよ。この子は普通の子さ。ただの三歳の少女さ。」
その時、巴の目に少しだけ悲しさが宿ったような気がした。
「お前は・・・」
「うん?」
「お前は神なんかじゃない。私はお前が恐ろしい。」
「ふん、君がどう思おうと勝手だよ。でもね、そこまで言うのなら、僕の力を見せてあげようか?」
ふんと巴は鼻で笑い、右手をこちらに向けた時だった。
「みーつけた。」
呆気にとられた。一人の少女が突然木陰から現れたのだ。
「な・・・」
巴の驚きは相当のものだったに違いない。当然だ。私だって驚いた。なにしろ、驚くことに目の前に現れた少女は私の愛娘たちに瓜二つだったのだから。その服装までも。
「あれ?ちがう?」
少女は少し驚いたような表情をしながら私たちの方を見る。
「誰だ、お前は。」
巴が少女に問いかける。その瞬間、巴が無防備になった。私は何を考えていたのだろう。おそらくはただ、巴が恐ろしかったのだ。
「うおおおおおぉぉぉぉぉ・・・」
そう奇声を上げて巴に飛びかかる。巴の後ろは崖だ。いくら何でも大人の力で突き飛ばせば崖に突き落とすことくらいできるはずだ。
ドンッ
確かな感触と同時に巴が吹き飛んだ。
「な・・・」
それが巴の最後の声だった。
「なんてことを・・・してしまったんだ・・・私は。」
私は恐ろしさのあまり、自分の娘を崖に突き飛ばしてしまったのだ。私は巴が言ったとおりに、自分自身の可愛さのあまり他者を殺してしまったのだ。しかも、最愛の娘を・・・
「舞っ」
そう叫びながら崖の下を眺める。崖の下には少女・・・舞の死体が見える・・・やはり、夢ではないのだ。私は娘を殺したのだ・・・
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