第二章 その二

「すみません。遅くなりまして。今日、こちらに泊めていただく高梨と申します。」


 民宿と呼ぶにはあまりにもただの古民家といったのような佇まい。その玄関先で彼は声を出していた。


「あらあら、ようやく来たんだね。遅いからどうしたのかと思ってたよ。」


 そう言って現れたのはおそらくこの民宿の女将さん。既に孫がいてもおかしくなさそうな年齢に見える。優しそうな笑顔がとても印象的だった。


「すみません。海をあまり見たことがなかったので興味本位で海辺を歩いていたらこんな時間になってしまって・・・」


「そうかい。海が珍しいなんて、今時珍しいね。」


 確かにこの町で育てば海が珍しいことなんてないだろうけど、海までは高速道路を使っても一時間以上かかる山の町で育った俺にとっては、海を見るだけでテンションが上がってしまう。


「あはは・・・僕は山育ちだったもので。」


「へぇ~、そうなのかい。あぁ、まぁ、こんなところで話していてもあれだ。上がってくださいな。ご飯の準備もしてますのでね。部屋に荷物を置いたら降りてきてくださいな。」


 そう言って部屋の場所を教えてくれる。

 どうやら二階には二部屋しかないようで、今日は他に宿泊者もいないから好きな方を使っていいとのことだった。

 俺は、『海が見えるほうの部屋がいいですね』と言いながら階段を上がっていく。『あぁ、それなら左の部屋がいいんでないかね』という女将さんの声が聞こえた。その声に従って左の部屋に入りさっそく窓から海を眺める。


「うーん、夜だとあまりよく見えないなぁ。」


 波の音は聞こえるが見えるのは闇。仕方がない。街灯なんかもなかったし、月明かりだけでは暗くてよく見えないのは当然かもしれない。そんなことを考えながら服を着替えて下に降りる。いい匂いが空気に乗って流れてくる。きっと美味しい晩御飯が準備されているんだろう。


「いやぁ、いい匂いがしてたんで嬉しいですよ。かなりお腹が減ってたもので。」


 笑いながら女将さんとその旦那さんに話しかける。


「お、兄ちゃん。そう言ってくれるとかあちゃんも作ったかいがあるってもんだな。」


 そう言って、『まぁ、ここに座りなよ。』と旦那さんが続ける。俺は素直にその言葉に従って席に着く。


「お兄さんの名前は、高梨和樹さんでよかったんだっけね?」


 女将さんが名前の確認をしてくる。


「ええ、そうです。高梨和樹です。なんていうか、普通の名前でしょう?」


 そう言って笑いかける。


「まぁ、人の名前なんてそんなもんさ。あんまり珍しいのも大変だって。」


 旦那さんがいい感じにビールを飲みながら笑っている。


「そうだよぉ、和樹くん。うちも民宿・岡本だろ?わかりやすいし覚えやすくていいだろさ。」


 女将さんも笑っている。確かに、変わった苗字だといろいろと大変なこともあるだろうな。病院とかで注目されたりするだろうし。


「でも、かぁ。この村にもタカナシさんっているんだよ。字は違うんだけどね。こっちのタカナシさんはって書くんだよ。」


「へぇ~、そうなんですね。結構珍しい苗字に感じますね、音は普通かもしれないですけど。」


「まぁね。あ、そう言えば、こんな田舎まで何しに来たんだい?」


「えっとですね、就職試験です。」


 そう言って軽く頭を掻く。


「へぇ~、こんな田舎町に若者が来てくれるとは、イヤぁ感動だね。で、どこなんだい?」


「えっと、家具屋です。岩田家具店っていう。そこで家具を作ったりデザインしたり。そういう仕事ができるって。しかも、寮があって三食付きなんですよ。」


 そう、好条件とは寮があるということ。それだけで給料が高いのと同じだ。


「あぁ、あそこねぇ。確かにあそこはいいとこだよねぇ。」


 女将さんもなるほどと頷いている。


「そっかそっか。それじゃ来年からはこの村の一員になるってことかなっ。」


 そう言って旦那さんがワハハと豪快に笑う。


「そうなれれば良いんですけどね。」


 俺も一緒になって笑う。こんなに楽しい食事は久しぶりだ。俺は施設で育った。だから両親のことは知らない。それを幼いころは苦痛に思ったこともあったし、さみしいと思うこともあった。彼女とかも欲しかったが、いまいち縁がなかったのか付き合うというところまで進んだ記憶がない。


「で、もう一個聞いてもいいかい?」


 女将さんが尋ねてくるが断る理由も特にない。


「いいですよ。」


 そう笑顔で答える。


「この宿帳に書いてくれた年齢だけど、本当かい?二十一歳って。」


「えぇ、そうですけど・・・それが何かありましたか?」


「いやいや、本当に若いなぁって思ったんだよ。二十一歳ってことは大学の・・・」


「ええ、四年生です。本当は進学も考えていたんですけどね。なんて言うか、早く社会に出ないといけないかなって。」


「えらいっ。最近の若者にはみない考えだな。若者みんなが和樹くんみたいだったらいい世の中になるんだろうけどなぁ。」


 旦那さんはそう言ってまた笑う。


「そうだ、それじゃ食事の肴になるかはわからないけど、この村に伝わる話なんかも聞かせようかね。」


 女将さんが言うと旦那さんも『そうだなぁ。どうせ来年からくるんだから知っといた方がいいな。』と言って上機嫌に笑っている。


「そうですね。来年から来れるかどうかは・・・明日次第ですけど。聞いてみたいですねぇ。教えて頂けますか?」


「ああ、いいさ。ちょっとだけ長くなるかもしれないよ?」


 そう言って女将さんは『ついでにビールでも飲むかい?』と魅力的な提案をしてくれる。


「是非。」


 それだけ答えてお願いする。


「はいよ。ちょっと待っててね。」


 そう言って女将さんは部屋から出て行った。


「なぁ和樹くんよ。これから聞く話は長いぞぉ?なんと言ってもこの村には歴史があるからなぁ、こう見えたってさ。それに、最近の話もあるし。まぁ、どっちから聞きたい?」


「そうですね・・・どちらからでもいいです。夜も長いですしね。」


 そう言って笑顔で旦那さんを見る。


「ん、良い返事だ。じゃ、まずは最近の話から行こうか。これはちょっとした噂話っていうのもあるんだけどな。」


 そう言って少しアルコールが入った旦那さんは気持ちよく話し始めた。

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