九十九の黎明

豊穣の祈り

　柔らかな旋律（メロディ）が、慈雨のように大地に降り注ぐ。

　その歌声は、たっぷりと日の光を浴びた干し藁を思い起こさせた。山と積まれたふかふかの寝藁に身を投げだして、そっと目を閉じてしまいたくなる、穏やかな秋の日差しそのものだった。

　節奏（リズム）に合わせるかのごとく、緑なす葉々が風にそよいだ。豆は鈴なりの鞘を一斉に揺らし、南瓜の葉は丸々と肥え太った実を撫でた。芋の蔓は畝で身じろぎ、そして青菜の露が虹を作る。

　やがて歌は穏やかに終演を迎えた。名残惜しそうに身を震わせる蔬菜達の上を、風の音だけがそっと吹き渡ってゆく。静まりかえった畑の中央で、豊穣の魔術師アルトゥルの孤影が、胸の前に差し伸べていた両手をそっと下ろした。

「何故、皆に嘘をついているんですか？」

　モウルの声に、アルトゥルがゆっくりと振り返った。

「私が、嘘を？」

「ええ、あなたが。豊穣の魔術師――いいや、音の魔術師、殿」

　施術の邪魔にならないようにだろう、周囲の農地にはアルトゥルの他に誰もいなかった。動くものと言えば、風に揺れる一面の緑と坂向こうの風車ばかり。うら寂しい風景の中、ウネン達三人は、二メートルほどの距離を置いてアルトゥルと対峙した。

「もしかしたら、あなたには『音』を使っている自覚は無いのかもしれませんが、あなたの神が『豊穣』のみを司っているわけではないのは、あなた自身よく知っているでしょう？」

　モウルの言葉を聞いても、アルトゥルは眉一つ動かさなかった。ただ黙って、モウルをじっと見つめている。

「植物に音楽を浴びせて成長を促進させるの、って、明確な有意差は確認されていないんじゃ……」

　ウネンは、つい独りごちた。ここにきて初めてモウルに手の内を明かされ、驚きと疑問とを口にせずにはいられなかったのだ。

　溜め息とともに、モウルがウネンを見やる。

「ったく、何をどこまで教えたんだよ、ヘレーさんは」

「暇だったんだろう」

　オーリの寸鉄に小さく肩をすくめてから、モウルはウネンに苦笑を投げた。

「試行錯誤で最適値を探す、というのが、魔術における基本だからね」

　そう言ってあらためて正面を向いたモウルに、アルトゥルが涼しげな表情で首をひねってみせる。

「何を仰っているのかよく分かりませんが、我が神のわざが作物を良く育てるのは事実であって、それをして豊穣の神と名乗ることに、何か問題があるとは思えませんね」

「あなたが影響を与えているのは、植物だけではないでしょう？」

　モウルの声が、鋭さを増した。

「今朝の礼拝で、あなたは歌いませんでしたね。いつもは歌っているそうなのに」

　アルトゥルの表情が、微かにこわばったように見えた。

「それは、僕がいたから――自分が礼拝にて魔術を使用していることを、僕に感知されたくなかったから――ではありませんか？」

　アルトゥルは、何も答えない。

「あなたも魔術師ならば、僕から魔術の気配を感じるでしょう？　まあ、こうやって顔を合わせているうちに、だんだん慣れて認識しにくくなりますけれど。僕も、初めて会った時、あなたから魔術の気配を感じました。そして、ほんの微かにですが、あなたの周囲にいる人々からもね」

　目を伏せ、溜め息一つ。それからモウルはゆるゆると頭を振った。

「最初は、気のせいかと思った、いや、思いたかった。でも、色んな人から聞いた話が、次第にひとところに収束していく……」

　再び顔をあげたモウルは、真っ直ぐにアルトゥルを見つめると、一言ずつ力を込めるようにして口を開いた。

「あなた、そのちからで、人々の感情を誘導していますね」

　ウネンとオーリが、同時に勢いよくモウルを振り返る。

　糾弾する者とされる者は、ともに僅かたりとも動かない。

「鍛冶屋を休業させたのは、あなたが『礼拝』で使う『音』の邪魔になるからだ。『礼拝』に集まった人々に『音』で地ならしを施したら、あとは彼らに道筋を示せばいい。そうすれば、あなたの術に煽られた人々が、勝手に自分の意思で動いてくれる、ってわけだ」

　小さく鼻を鳴らし、モウルはなおも言い募る。

「精霊使いの娘を町から遠ざけるよう仕向けたのは、彼女に魔術の気配を読まれないようにするため。違いますか？」

　そこで一息おいて、モウルは、冷ややかな眼差しをアルトゥルに突き刺した。

「そもそも人の心をどうこうしようなどと考えなければ、そんな小細工をせずとも済んだのに。どうして名乗りのとおりに豊穣のわざだけで満足しなかったのですか」

　モウルが口をつぐむと同時に、一陣の風が甲高い声を上げて二人の魔術師の間を吹き抜けていった。

　緑が波打ち、砂塵が舞う。

　モウルの視線を振り払って、アルトゥルが大きく息を吐いた。

「豊穣の祈りは、万能ではないのです」

　アルトゥルは、ゆっくりと周囲の畑を見まわした。

「どんなに祝福を授けようと、作物が病気になることはあります。同じ作物でも、苗や株によって効果が変わってもきます。そして、人々は分かり易い答えを求めるんですよ」

　弱々しい笑みを口元に浮かべ、アルトゥルはモウルを正面から見つめた。

「私がペテン師呼ばわりされるだけなら、まだいいんです。効果が無かった、もしくは有った、その理由を、彼らは勝手に探し出してくるのですよ……。あいつの家はあんなだから豊作になった、あいつの家はこんなだから神に見放された。そこからどんなに醜い騒動が起こるか、あなたにも簡単に想像できるでしょう？」

　静かに息を継ぎ、そうしてアルトゥルは自分の右手に目を落とした。ゆっくりとこぶしを握りしめた。

「得られた者も、得られなかった者も、互いに支え合い、助け合う。この町で私が望んだのは、ただそれだけのことなのに……」

「あなたの目的がどんなに崇高なものなのだとしても、その手段を他人に――僕や精霊使いの娘に――知られたくない、と考えている時点で、それが誤りであると自ら認めているも同然だと解りませんか？」

　容赦ない追撃に、アルトゥルが小さく息を呑む。ややあって、これまでの穏やかな笑みから一転して、露骨な嘲りの色が彼の口元に浮かび上がってきた。

「理想論を振りかざして、裁きの神の使いでも気取っているのですか。さぞかし気分が良いことでしょうね」

「まさか！　それなら、こうやってあなたに直接文句を言いに来ずに、あなたを失脚させるべくさっさと町中にあることないこと吹聴してまわってますよ。人の心を操る術を使って、町を我が物にしようとしている悪の魔術師がいる、ってね。不信の種を蒔かれた人々が、各々の胸の中でいかに大切に苗を育てるか、一度試してみましょうか？」

　ぎり、とアルトゥルが歯噛みする。

「あなたは……あなたという人は……」

「ああ、僕もね、目的のためには手段を選ばない人間なので」

　モウルが、悪びれもせずに肩をすくめた。

「ただ、まあ、自分が他人の足を引っかける以上、他人から足を引っかけられても文句を言わない覚悟はしてますよ。常にね」

　モウルの視線は、まるで細身の剣のようだった。白銀の刃（やいば）を、彼は一直線にアルトゥルの眉間に突き立てる。

「あの精霊使いの娘に対する、不当な扱いをやめていただけませんかね。自分が他人に足を引っかけられたくないからって、他人の足を切り落とすようなやり方は、甚だ気に喰わない」

　二人の足元で、風が小さく渦を巻いた。

　長い沈黙のあと、アルトゥルの口から深い深い溜め息が漏れた。

「……分かりました」

「あなたの神に誓って？」

　だめ押しとばかりにモウルが付け足せば、言葉を詰まらせながらもアルトゥルがゆるりと頷いた。

「ええ。我が神に誓って」

「本当にやめてくれるのかな」

　川縁（かわべり）の小道を歩きつつ、ウネンは不安をつい声に出した。

　背後を振り返れば、畑の中に、微動だにしないアルトゥルの影が小さく見える。

「魔術師にとって、己（おの）が神に誓う、っていうのは、これ以上はないほど重いことだからね」

　先頭をゆくモウルが、前を向いたまま淡々と言葉を返してきた。

「ロミにも一緒に来てもらって、直接話をしてもらったほうが良かったんじゃないの？」

「だから君はコドモだって言うんだよ」

　意見を一刀両断に否定されて、ウネンは思いっきり鼻白んだ。どういうことだ、と、口を開きかけたところで、モウルがちらりとウネンを見やる。

「直接対決は最後の手段だよ。それに、さっきはパン屋の子もいたからね。あまり話を大きくしてしまうのは拙（まず）いでしょ。何しろ、彼らはこれからも同じ町で暮らすわけなんだから」

　先刻、遺跡での思わせぶりなモウルの呟きに、真っ先に喰いついたのがワタカだった。「ロミが『来る』のは駄目って、どういうこと？」と詰め寄る彼女を、モウルはお得意のよそゆき顔で「そのおばさんが言ったことをまとめただけだよ」と誤魔化し、「今日はパンの配達は無いの？」と、半ば強引に仕事に戻らせたのだ。

　一方ロミにはどうやら思うところがあったようで、モウルが「あとで精霊について話を聞かせてほしい」と頼んだ時に、彼女は、「その代わりに、誰とどんな話をしてきたのか教えてほしい」と交換条件を出してきた。ウネン達が、昼飯を食べに宿に帰る、としか言わなかったにもかかわらず、である。

「勘がいい子だよ。そりゃあ、あの魔術師も遠ざけておきたくなるだろうさ」

　そう言ってモウルは薄く笑った。

　一旦宿に戻った三人は、昼飯に昨日ワタカに貰ったパンを齧りながら荷物をまとめた。町を出る準備を終えてから、ロミに会いに行く計画なのだ。

　ロミは、今日は羊の放牧には午後からあたるとのことだった。いつもならば羊の世話は一日を通してロミの仕事らしいのだが、なんでも今朝は乳が出なくなった老羊を一頭屠（ほふ）ることになったため、午前の放牧を弟達に任せていたのだという。日が西の連山よりもこぶし二つ分上に来るまでは、三本楠の南側にいる、と彼女は別れ際に教えてくれた。

　首尾よく精霊についての聞き取りを終えたら、その足で次の町へ向かう。新月が近いが、急げば真っ暗になるまでには次の町に着くことができるだろう。そう言うモウルに、ウネンもオーリも「了解」と頷いた。

「もう出発しなさるんですか。もっとゆっくりしてらしたらいいのに」

　宿代の精算を終えたモウルに、宿の主人がすこぶる残念そうに唇を尖らせる。

「悪いね。でも、元々は一泊だけのつもりだったんだから、これで良しとしておくれよ」

「調べものとやらは、首尾よくいきなさったんで？」

「おかげさまで。実はあと一つだけ調べたいことが残ってるんだけど……」

　まるで旧知の仲のようにモウルと宿の主人が会話を弾ませていると、大音響とともに表の扉が開（ひら）き、仕立ての良い上着を着た中年の男が血相を変えて飛び込んできた。

「あんた達、一体、何をしてくれたんだ！」

　初対面のはずの男は、口角泡を飛ばして、ウネン達を順に見まわした。

「ゾルタンさん、どうなさったね」

　宿の主人が、男をなだめるように声をかける。それから、モウルに向かって男のことを紹介しようとした。

「この人は、町長（まちおさ）の……」

「そんなことはどうでもいい！　あんた達、一体アルトゥルさんに何をした！」

　町長（まちおさ）という男は、宿の主人を一蹴するなり、両のこぶしを振り回して咆えた。

「午後の礼拝の時間になっても、一向に出てこられないと思ったら、なんと、庫務所にこんな書き置きが……！」

　どれどれ、と、宿の主人が町長（まちおさ）の手元を覗き込んだ。

「ああ、これなら俺にも読めるな。ええと、『残念ですが、私はもうこの町にはいられません。短い期間でしたが、お世話になりました。神の恵みが、常にあなたがたの上にありますように』って、ええっ、アルトゥルさん、ペリテを出ていったのかい？」

　驚きの声を上げる宿の主人に、アルトゥルの書き置きを押しつけて、町長（まちおさ）は真っ直ぐにモウルに詰め寄った。

「あんた達、さっき北の畑で、アルトゥルさんと何か言い合っていたそうじゃないか！　一体アルトゥルさんに何を言ったんだ！」

　町長（まちおさ）の言葉を聞いたウネンは、密かに安堵の溜め息をついた。アルトゥルの所へロミを連れて行かなくて、本当に良かった、と。

「何を、って、魔術について教えを乞うていただけですよ」

　モウルがしれっと口から出まかせを言う。

　根拠があるのか無いのか、町長（まちおさ）が「嘘をつけ！」と反駁した。

「よそ者の言うことなど、信用できるものか！」

　どうやら根拠など何も無いらしい。

「アルトゥルさんは、自分だってよそ者だ、と仰ってましたけど」

「あんたは、ここで何も為しちゃあいないじゃないか！」

　どこかで聞いたことのある文言が町長（まちおさ）の口から飛び出してきたことで、モウルの目が、刹那、見開かれた。

「あー、あれ、僕を排除するためのキーワードだったんだ……」

　大切なのは、ここで何を為したか。そう言って微笑むアルトゥルの顔がウネンの脳裏にも甦る。

「ああ、これからどうやって、何を頼りに生きていけばいいんだ……！」

　町長（まちおさ）は、ひとしきり文句を言った次は、頭を抱えて嘆き始めた。

「近隣の町や村と同じように、普通に生きていけばいいんですよ。二年前はそうだったんでしょう？」

　モウルが律儀に応対するも、町長（まちおさ）はまったく耳を貸さず、勢いよく顔を上げて、今しがた自分が入ってきた扉を振り返った。

「待てよ、そういえば少し前にコペッツの連中がアルトゥルさんに声をかけていたな……。もしかしたら奴らの仕業か……」

　コペッツとは、ペリテの南隣、三日前にウネン達が通ってきた町の名だ。

「奴らの仕業、って、証拠でもあるんですか？」

「そういうことなら、すぐにでもアルトゥルさんを奪還しに行かねば！　あの人のために礼拝堂まで建てたのに、冗談じゃないぞ！」

　モウルの言葉など聞こえていない様子で、町長（まちおさ）は来た時と同じ猛烈な速度で宿屋を飛び出していった。

「なんだか全然話が通じてなかったけど、大丈夫かな、あの人……」

　ウネンの呟きにオーリの溜め息がかぶる。

「週に一度の『ご褒美』がもらえなくなったら、そのうち毒も抜けるでしょ」

　モウルが他人事といわんばかりに肩をすくめた。

「さて、これからどうしようか、ね……」

　物言いたげにモウルがウネンとオーリを交互に見やる。

　ウネンは傍らのオーリを振り仰いだ。

「この状況でぼく達がロミに会いに行けば、彼女に迷惑がかかるよね」

「だな」

　頷き合う二人に向かって、モウルが上ずった声を上げた。

「それはそうなんだけど、でも、ちょっとよく考えてみようか。髪の色が変化した精霊使いの話なんて、この機会を逃したら、もう二度と聞けないかもしれないんだよ？」

「ロミの家の農場が通り道にあるなら、『おや偶然』とか言えるかもだけど」

「進行方向とは反対側にあるからな……」

　ちょっと待ってよ何か打開策はあるはずだ、と、しばし考え込んだのち、モウルは「そうだ」と指を鳴らした。

「彼女にこっちに来てもらうとかさ」

「俺は使いには行きませんよ。ややこしいことになるのは御免ですから」

　即座に宿の主人が横から口を挟む。

　モウルが恨めしそうに唸り声を漏らした。

「神と精霊と魔術の関わりについて、新たな事実が判明するかもしれないってのに」

「それじゃあ、しばらくゆっくりとうちに滞在なさって、町の皆が落ち着いた頃に、ロミちゃんに会いに行くとか……」

　なんとも商魂たくましい申し出に、モウルが「そんな時間の余裕は無いよ」と呻く。

　と、躊躇いがちな靴音が表に聞こえたかと思えば、扉がおずおずと開かれた。

　宿の主人が、「こりゃあ、儲け損ねたなァ」と悪戯っぽく笑う。

「噂をすれば、だ。ご無沙汰だねえ、ロミちゃん。今日はわんこは一緒じゃないのかい。珍しい」

　ロミが、硬い表情で頷いた。