邪竜の遺跡

 

 

 

 コォーン、と拍板の打ち鳴らされる音が静かな街路に響く。

 昨日訪れた鍛冶屋から通り二つ西に行った先、町の中心にほど近い場所に、豊穣の神の神庫ほくらはあった。背の高い鐘楼を備えた板葺きの建物は、木の柱も壁の漆喰もまだそんなにくすんではおらず、おそらくはアルトゥルがこの町に来てから建てられたものなのだろう。

 神庫ほくらの入り口へと寄れば、中から神への賛辞が聞こえてきた。大勢が声を揃え、一心に「神よ、実りよ」と唱えている。

 そして、また、拍板の音。人々のいきれを真っ直ぐ貫いて、ウネンの鼻先を突く、芯のある音。

 コォーン……。

 戸口から様子を窺っていたモウルが、するりと中へ入り込んだ。即座にウネンもあとに続こうとしたが、椅子にあぶれて立つ人々の背が邪魔で、それ以上奥に進むことはおろか、中を見ることすら叶わない。

「……持ち上げてやろうか?」

 少しだけ躊躇いがちに、だが真顔で、オーリが小さい子供を「高い高い」するような手振りをしてみせた。

「いや、さすがにそれはちょっと恥ずかしい」

 そうだな、と頷くオーリに苦笑を投げかけてから、ウネンはおとなしく部屋の外へと身を引いた。そうして、代わりに前に出たオーリに、小声で「何が見える?」と尋ねる。

「正面の祭壇に例の魔術師がいる。会衆席には、ざっと五十人ほど。ああ、昨日のパン屋の夫人もいるな」

 ほどなく人々の合誦がっしょうは終わり、神庫ほくらは見事なまでに静まり返った。しわぶき一つ聞こえぬ静寂の中、アルトゥルの柔らかい声が朗々と響き渡る。

「いいですか、皆さん。我々は、神の恵みに対して、常に謙虚であらねばなりません」

 神の前に、我々がいかに小さな存在であるか。神が偉大なればこそ、我々一人一人の声を全て漏らさず届けることは難しい。だから、我々は皆で協力し合わなければならない。アルトゥルは、相互扶助の重要性を何度も繰り返し説いていた。皆で力を合わせることで、初めて、人は神から恵みを賜ることができるのだ、と。

 アルトゥルが講話を終えたあとは、皆で豊穣の神を讃美する歌を歌って、ようやく礼拝はお開きになった。

 今しがたまでの静けさが信じられないほど、神庫ほくらの中は一気に賑やかになった。仕事に戻るのだろう、大勢が一斉に戸口へと殺到する。人々の波に呑み込まれる前に、ウネンはオーリに助けられてなんとか建物の外へ避難した。

 モウルはどこだろう、と首を巡らせば、パン屋夫人と朗らかに談笑しながら往来に出てくる姿がウネンの目に飛び込んできた。

「本当にお美しい声なのよ。残念だわあ」

 何の話だろう、とのウネンの声なき問いを察したか、パン屋夫人はウネンとオーリのほうを向くと、「今日は、アルトゥルさんはお歌いにならなかったわね、って言ってたのよ」と微笑んだ。

「いつもは、率先して讃美歌を歌ってくださるのよ。それはもう、こちらが歌うのを忘れて聞き惚れちゃうぐらいに、とっても歌がお上手で! モウルさん達にも、是非お聞かせしたかったわあ」

 それは本当に残念だなあ、と、愛想よく相槌を打ってから、モウルがさりげない調子で質問を口にする。

「毎週、こんなに沢山の人が礼拝に来られるのですか?」

「そうね。午後にももう一度礼拝があるんだけど、どちらに出席しても大体いつもこれぐらいかしら。私もだけど、皆さん仕事がおありだから、毎回欠かさず、というわけにはいかないんですけどね」

 そう言って、パン屋夫人は、うっとりと視線を宙に彷徨わせた。

「アルトゥルさんのお話は、ためになるだけじゃなくて、聞いていて清々しい気持ちになるのよね。週に一度といわずに、もっと沢山、いいえ毎日でも、聞かせてくださらないかしら!」

 

 パン屋夫人の背中が向こう角に消えるなり、オーリがモウルを振り返った。

「何か引っかかっていることがあるんだろう?」

 問われたモウルは、一瞬言葉に詰まったものの、すぐにいつもの飄々とした調子で肩をすくめる。

「あ、まあ、気のせいみたいなものだし」

 だが、話題を流そうとするモウルに対し、オーリはまったく容赦しなかった。小さく鼻を鳴らすや、今度は通りの向こうへと視線を投げる。

「畑に祝福を授けに行く、と言っていたな」

 先ほど神庫ほくらを出てきたアルトゥルが、町の人に行き先を訊かれ、そう答えていたのだ。

「普段のお前なら、他人の施術を見たがるだろう?」

「『気のせい』程度の話でも、容赦なく喰いつくよね」

 オーリとウネンの指摘を受け、モウルの喉から唸り声が漏れた。

「君らさ、最近なんだか妙に僕に厳しくない?」

「日頃の行いかな」

「日頃の行いだな」

 二方から同時に同じ言葉を返され、モウルが「ああもう」と大きくかぶりを振った。

「ともかく、今は、例の遺跡に行くのが先だ」

 いら立たしげに言い切って、モウルがきびすを返す。

 ウネンとオーリは互いに顔を見合わせると、溜め息を道連れにモウルのあとを追いかけた。

 

 

 町の南門を抜けた三人を、黒々とした畑地が出迎えた。畝がえがく縞模様が、緩やかに波打って遠くのほうまで広がっている。

 南の遠くを横切る杉並木の向こうは、牧草地となっているようだった。その更に遠くに見える丘が、二日前に羊飼いのロミの手伝いで羊を集めた場所だ。

 視線を右手――西に転じれば、北から南へと流れる小川が見えた。畑地は川の東岸で終わり、西岸から先は人の手が入っていない草原だった。その、風に波打つ草むらの向こう、遺跡があるという森が、小川と並行に横たわっている。

 ウネン達は、小川のへりを南へと進んでいった。

 見渡す限りのあちこちで、人々が畑仕事に精を出していた。何人かは作業の手を止め、野を行くよそ者を不思議そうに見やったが、ほどなく目的地を察したか、皆、何事も無かったかのように農作業へと戻っていく。

 畑地の南端を区切る杉並木を通り過ぎてから、三人は小川を西へ渡った。宿の主人曰く、ここから森に入って少し行った所に、邪竜の遺跡があるのだそうだ。

 ウネンの背丈ほどもある草が生い茂る中、オーリを先頭に獣道を辿る。木の枝が頭上を覆いゆくにつれ草むらの丈は低くなり、気がついた時には、三人は鬱蒼とした森の中を歩いていた。

 人が足を踏み入れることなど滅多にないのだろう、地面はふかふかの腐葉土に覆われており、足首近くまで土の中に沈み込んでしまうような有様だった。革脚絆をつけていなければ、一歩ごとに靴の中に枝や葉の欠片がどっさりと入り込んできたに違いない。木の葉に埋もれた石や木の根に何度も蹴躓きながらも、ウネンは黙々と足を動かした。

 そうやって緑の中を進むことしばし、不意に前方がひらけた。

 目の前に、木々が途切れた広場のような空間があった。

 こんもりと盛り上がった地面は、墨色の瓦礫と灰色のれきに覆われていた。ところどころに突き立つ赤茶色の柱は、雨風に削られ、折れ、崩れ、まるで荒野に捨て置かれた獣の骨のように見える。

「これが、邪竜の遺跡……」

 ウネンの喉が、ごくりと音をたてた。

 ウネンは、竜というものの存在を頭から信じているわけではない。勿論、ウネンとて竜が登場する昔話やお伽噺は幾つか耳にしたことがある。しかし、今現在、実際に竜が現れたという話は、残念ながら聞いたことがなかったからだ。

 ましてや楽園追放の物語を知らなかったウネンにとって、くだんの邪竜は、一箇月半前に突然降って湧いてきた新参者だ。とてもではないが、恐ろしさを実感するには至らない。

 だが。邪竜の「呪い」となれば、話は別だ。竜や邪竜が実在するか否かはさておき、呪いというものが言い伝えられているということは、そこに何か忌まわしいものが潜んでいる可能性があるからだ。原因はともかく、「呪い」に値する出来事が過去に起こったからこその「呪い」なのだろう。

 でも、と、ウネンは奥歯を噛み締めた。ヘレーが遺跡に足を踏み入れたかどうかは確認のしようがないが、仮に遺跡が危険なものだった場合、きっとヘレーは宿の主人に警告を残しているはずだ。

 ウネンは意を決すると、広場へ一歩踏み出した。

 足の裏で、砂利がキシキシと音を立てる。

 不自然に色味の揃った礫石礫土は、広場だけでなくその周囲にも及んでいるようだった。日当たりが良いにもかかわらず広場に近い所ほど下草の密度が薄いのは、落ち葉の下に痩せた砂利が隠されているからだろう。

 ウネンはおそるおそる足元の小石を手に取った。

 灰色の石は、思った以上に軽かった。手のひらが真っ白になるほど表面に粉を吹いており、少し力を入れて握るだけで、石は乾いた泥団子のように粉々に砕けて散ってしまった。

 墨色の石は、石英に似た質感があった。自然石にしてはどれも均質で、まるで磁器の欠片のように見える。

 これら黒に灰の礫塊が、遺跡がまだ遺跡ではなかった頃の、建材のなれの果てなのだろう。どれぐらいの厚さに堆積しているのかは分からないが、地表を覆う範囲を見るだけでも、相当大きな建造物だったに違いない。

 と、辺りをぐるりと見渡したところで、ウネンは思わず眉間に皺を寄せた。

 少し後方、広場のふちで、オーリとモウルが足を止めて、じっとウネンを見つめていたのだ。

「二人とも、遺跡を調べるんじゃないの?」

 ウネンの問いに、モウルが静かに口を開いた。

「僕とオーリ、別にこの遺跡を見たかったわけじゃないんだよ」

「えっ」

 あっけにとられて目をしばたたかせたのち、ウネンはハッと息を呑んだ。

「もしかして、ぼくに、この遺跡を見せるために……?」

 オーリもモウルも、何も言わず、ただ視線だけをウネンに返してくる。

 正解、だ。

 それを受け、ウネンの脳裏を一筋の光が走り抜けた。

「宿のご主人に、この遺跡を〈箱舟〉だと言ったのは、もしやノーツオルス……?」

 やはり二人は無言のままだ。

「〈箱舟〉は邪竜とは関係ない、っていうのは、ノーツオルスにとってはたぶん常識みたいなもので、だからヘレーさんも、そしてオーリもモウルも、この遺跡を怖がらなかったんだ」

 肯定の沈黙を経て、モウルがすまし顔でウネンに問いかける。

「〈箱舟〉って言葉に何か心当たりは?」

「ヘレーさんが教えてくれたお伽噺に出てきた」

 普段ヘレーが語ることといえば、得意分野である自然科学関係の内容がほとんどだったが、風の強い夜など、不安がるウネンを寝かしつけようという時には、慣れないながらも空想的な物語を幾つか披露してくれたものだった。

「ええと、大昔、人間があまりにも自分勝手に悪いことばかりするから、神様が怒って洪水を起こして人間を滅ぼそうとしたけれど、行いの良かった一家にだけは事前にそのことを教えてくれて、それでその人達は大きな箱舟を作って、家畜や他の動物達と一緒に生き延びた、って話」

 ウネンが語り終えるなり、モウルが感心したように短く息を吐いた。

「いやはや、すごいな、ヘレーさんは」

「違うだろう。すごいのは、こいつだ」

 オーリの真顔の指摘に、ウネンは照れ臭さを誤魔化すべく、少し早口で「それよりも」と、広場を振り返った。

「これが、その〈箱舟〉だって言うの?」

 単彩色を敷き詰めた広場をゆっくりと見まわしてから、ウネンは、再度モウル達に向き直る。

「でも、ここに散らばる材料を見る限り、この〈箱舟〉が水に浮かぶように作られていたとは思えない」

「じゃあ、水とは関係ない船なんじゃない?」

 モウルの囁きが風に舞う。それに触発されるようにして、いつぞやのヘレーの声がウネンの耳元に甦った。

「まさか……空を往く船……?」

 返事は無かった。オーリもモウルも、黙ってウネンを見つめるのみ。

 ウネンは、全身の皮膚が一斉に粟立つのを感じた。急に目の前が広がったような気がした。あの時ヘレーと見上げた満天の星が、物凄い勢いでウネンに向かって押し寄せてくるさまを幻視した。

 足元が揺れたと思った次の瞬間、オーリの手がウネンの肩を支えてくれていた。

「大丈夫か」

「あ、うん。ちょっとびっくりしただけ」

 ありがとう、とオーリに礼を言って、ウネンはなんとか立ち直った。深く溜め息を吐き出し、〈箱舟〉の残骸を見やる。

「空を往く船が、まさか既に存在してたなんて……」

 イェゼロの森でヘレーは言った。いつか、ヒトは空を往く船を作るだろう、と。そして、彼は更にこう続けたのだ。ヒトは広い空に新天地を求めて旅立つだろう、と。

 それは、未来の話ではなかったのか。それとも、まさか――

「一体、どれぐらい前に作られたものなんだろう」

 過去の叡智など見る影もない瓦礫を前に、ウネンはぼそりと呟いた。

「作られた時期はともかく、邪竜の遺跡と謂われるものならば、二千年ぐらい前からあるみたいだね」

 例の口封じの術が発動したのだろう、モウルが顔をしかめると同時に、ウネンの耳元で泡のように〈囁き〉が弾けた。

『木の枝を振り回す子供に、鋭利な刃物を持たせるわけにはいかないだろう』

 遥か昔に存在した、現在では想像もできない高度な技術。これこそが、モウルの言う「鋭利な刃物」に違いない。

 しかし、二千年も前のこの朽ち果てた遺構が、即、人の世の脅威に結びつくとは、ウネンにはとても思えなかった。それに、そのことよりも重要な、考えるべき問題が他にある。

「でも、こんな高度な文明が、何故失われたんだろう。何故、誰も、覚えていないんだろう……」

 当然のごとく、二人から何も言葉は返ってこなかった。

 

 これ以上ここにいても意味は無い、次へ行こう。そう言って広場に背を向けたモウルの口から、素っ頓狂な悲鳴が漏れた。

 森の出口へと通じる木陰から、大きな白犬がのそりと姿を現したのだ。その後ろには、きまり悪そうな表情を浮かべたロミもいる。

「あー、びっくりした。小麦粉をかぶった熊でも出たかと思った」

 大袈裟な身振りで胸を撫で下ろすモウルの前で、ロミが、ちらちらと背後の森に視線をやった。今すぐにでもここから立ち去ってしまいたい、と顔に書いてあるようだ。

「どうしてここへ?」

 モウルの問いに、ぶっきらぼうな声が渋々応えた。

「散歩」

「邪竜の遺跡に?」

「ここなら誰にも会わずにすむから」

「すごいね。遺跡が怖くないんだ?」

「前は怖かったけど……」

「今は?」

 モウルの勢いに呑まれたか、ロミは躊躇いながらも律儀に言葉を返してゆく。

「風が、笑った、から」

「風が?」

「大丈夫だよ、って。それに――」そこでロミは、びっくりするほど優しい眼差しを、傍らの頼もしい相棒に向けた。「マフも何も言わないから。だから、もう、怖くない」

「だが、独りで森に入るのは危険だ」

 オーリの説教に、ロミは「マフがいる」と白犬の頭を撫でた。

「誰も付き合ってくれなくても、私にはマフがいる」

「この間のパン屋の子は?」

 あっけらかんとモウルが問いかける。

 ロミが、つい、と視線を逸らせた。

「ワタカは優しいから……無理をさせたくない」

「無理、ねえ……」

 皮肉ありげに口角を上げるモウルに対し、ロミが矢のような視線を突き立てる。

 だが、モウルは僅かとも怯むことなく、飄々と話し始めた。

「少し髪の色が変わっただけなのに、ほんの少しできることが増えただけなのに、皆の態度が劇的に変わる。勝手に期待して、その期待が満たされなかったというだけで、勝手に失望する。情けないとまでなじる。実に面倒臭い状況だよねえ」

 傍耳かたみみに聞く限り、モウルはロミのことを語っていると思われた。しかしウネンには、彼の眼差しが、ロミを通り過ぎてどこか遠くへ向けられているような気がしてならなかった。

『魔術師でも、その能力や腕前によっては、不遇な目に遭うことだってあるんだ』

 利益もたらす者への反感を口にすれば、それは不利益となって自分に返ってくる。しかし、それに値しないと思われる者が相手ならば、どうだろうか。

 期待外れ、役立たず。――おそらくは、自分には無いちからへの憧れの裏返しでもあるのだろう。この程度のちからなど意味が無い、持たなくて良かった、と、まるでおのれに言い聞かせるかのごとく。

 ウネンは、あらためてモウルをじっと見つめた。

 自由自在に風を操る、手練れの魔術師モウル。常に自信に満ち溢れている彼にも、当然駆け出しの時期はあったはずだ。昨夜の昔語りにて、彼は「魔術師は術を磨くのに手いっぱい」だと言っていたのだから。

 ウネンがぐるぐると思考を巡らせる間も、モウルの語りは滔々と続いている。

「『期待外れ』ってさ、こっちは別にてめえに期待してもらおうなんて毛ほども思っちゃいないし、『情けない』って、それこそ、一切の〈ちから〉を持たないてめえ自身のほうが情けないわ、ってなものさ」

 立て板を水が流れるごとくまくしたてて、それからモウルは、ロミを正面から見つめた。

「いやもう本当に、こいつら馬鹿なんじゃないか、って思わない?」

 率直過ぎるモウルの言いざまに、ロミは言葉もなく、ただ目を丸くする。

「実際、馬鹿なんだと思うよ。で、馬鹿に振り回されて一喜一憂している僕らも、間違いなく馬鹿だ」

 そう言い切ったモウルの表情は、いつになく真剣そのものだった。

「馬鹿は馬鹿同士、折り合いをつけてなんとかしていくしかない。それが嫌なら、馬鹿を振り切って前へ進むだけだ」

 ロミの喉が大きく上下した。

「でも、私は……」

 ロミが、言葉半ばに唇を噛んだ、その時、森の中から彼女の名を呼ぶ声がした。

「ロミ!」

 木々の陰からワタカが現れた。ロミを探してここまで走ってきたのだろう、肩で呼吸を繰り返しながら、ゆっくりとこちらに歩いてくる。

 ワタカは、一度広場の手前で足を止めて、怯えたような視線を遺跡に巡らせた。きつく両目をつむり、蒼白な顔を伏せ、震えるほどに両のこぶしを握り締めて、そうして、とうとうワタカは広場に足を踏み入れた。

「ワタカ、どうしてここに」

「おばさんが、ロミは森のほうへ行った、って言ってたから」

 ワタカはロミの横に立つと、モウルを正面から、きっと見つめた。

「子供の頃、皆と遊んでた時に、一人の男の子が言ったの。『おまえんちは小麦を育てなくてもパンが食えるんだな』って。その時に、ロミがその子に言い返してくれたの。『竈の掃除をしたり、修理をしたり、薪をくべたり、そういった仕事を誰がやっていると思うんだ』って。おろおろするばかりだった私の代わりに反論してくれた。とっても嬉しかった」

 モウルは、何も言わず、静かにワタカを見つめ返す。

「ロミが精霊使いになって、町の皆がロミに対してよそよそしくなって、確かに私は、ロミのことを『かわいそう』って思った。だって、私が他の人から距離を置かれた時、ものすごく悲しかったから。だから、私だけでもロミの傍にいなきゃ、って思った。義務感とかそういうのじゃなくて、ましてや、優越感に浸るつもりでもなくて……ただ単に、ロミのことが心配で……今まで沢山ロミに助けられた分、お礼がしたいと思って……」

 話すほどに俯く顔を、息を継ぐと同時に勢いよく跳ね上げて、ワタカは再度モウルを見た。

「でも、結局は、私、自分のことしか考えてなかった。自分が安心したかっただけ。私がするべきことは他にあるのに」

 そう言ってワタカは、今度は傍らのロミに顔を向けた。

「来週のいちの日に、うちに泊まりにおいでよ、て言ったでしょ。そのことで今日、礼拝帰りの隣のおばさんに、『あの子とあんまり付き合わないほうが』なんて言われたのよ……」

 ロミの唇が、きつく、引き結ばれる。

 ワタカもまた、つらそうに唇を噛み締めた。

「ねえ、信じられる? お母さんまで、お泊まりはまた今度にしようか、って言うのよ。だから私、訊いたの。『どうして?』って。『どうしてそんなことを言うの?』って。怒ったり泣いたりしたら駄目だって思ったから、落ち着いてお話しして、きちんと理由を訊いて。じゃあね、最後にはおばさんも、『ロミちゃんは別に悪い子じゃないもんねえ』って、気がついて、ううん、思い出してくれたの!」

 心から嬉しそうに、ワタカがロミに笑いかけた。それから彼女は、今一度モウルを振り返った。両のまなこに決意を込めて。

「私がしなければならないことは、ロミの手助けをすること。あの時、何も言えなかった私のためにロミが反論してくれたように」

 モウルが、そらとぼけた表情で「言うねえ」と呟く。

 ロミが、耳まで真っ赤になって俯いて、そして小さな声で「ありがとう……」と囁いた。

 

 一息おいて、気が緩んだか、ワタカがふにゃりとその場に座り込んだ。

 大丈夫? と慌てるロミの横で、マフがワタカをねぎらうようにその頬を舐める。

 マフを挟んで笑い合う二人の少女に、モウルが無遠慮に「あのさ」と声をかけた。

「今まで君がこの子の家に行っていたことを、そのおばさんは知らなかったの?」

「ううん。知っていたわよ」

 マフによだれまみれにされながら、ワタカがモウルを見上げる。

「てことは、今までは、あくまでもパンの配達という仕事のために行っていると思っていたとか?」

「ううん。仲がいいわねえ、って見送ってくれたりもしてたわよ。だから余計に、突然どうしたんだろう、って思って……」

 ふうむ、とモウルが右手を顎にやった。

「つまり、君が『行く』のは良くても、彼女が『来る』のは駄目、ってことか……」

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