おしまい……?
私は、専門学校を卒業して社会人になった。
就職先は他県に行くか悩んだものの、今まで続けてきたアルバイト先にお世話になることにした。
店長がこのまま続けてほしいと言ってくれたのだ。
元々好きな業種でやり甲斐も感じていたため、私は店長からの提案を喜んで承諾し働くことにした。
少し離れた他店舗の応援に行ったり、アルバイトの指導に回ったりと仕事は忙しかったが、それでも毎日が充実していた。
決して裕福とはいえない生活だったが、父から解放されたという事実が私の視野を広くし、立ち止まる背中を押してくれた。
仕事で遅くなって帰っても怒鳴られたりしない、見たいテレビを見ていても文句を言われない、そして何より家に帰っても性的な行為を求められたりしないのだ。
母や猫達が待つ家に帰ることがこんなにも待ち遠しく、帰宅すれば落ち着く場所だなんて、成人してから初めて知った。
もちろん、何もかも忘れて生きていけるわけでもない。
私には父が何年で出所するか知らされて居なかったため、人が多い場所を歩く度に父の影に怯え続けた。
友人と楽しくショッピングをしていても、父に少しでも似た背格好の人がいれば楽しさなんて一瞬で吹き飛んでしまう。
それは昼間に限らず夜になっても同じである。
仕事で疲れて眠りについても、何の脈絡もなしに父の夢を見るのだ。
幼い私が性的虐待を受ける過去の追体験や、包丁で生きたまま腹を裂かれる悪夢、父が私を罵り嘲笑う声――暗闇の中で目が覚めると心臓は壊れそうなほど脈打ち、夢の続きを見たくなくて目を閉じることさえ怖かった。
当たり前の日常生活を送ろうとしても、父が好んだ銘柄の酒、父が苦手で食べなかった食品、父が心底嫌いだった生き物、何かにつけて父を思い出すファクターとなり、あの頃の弱くて惨めな自分を思い出させる。
そして、父を裏切った私は何時の日か復讐されるのではないかと恐怖を感じてしまうのだ。
そしてそれは、父の事だけではない。
結婚した友人宅へ遊びに行った際、赤ちゃんを抱いてもいいと言われたことがある。
だが、私は赤ちゃんに触れることができなかった。
怖いのだ。
あの日、私は自分の子供を殺してしまった。
そんな私があの無垢な命に触れるのが、本当に堪らなく怖い。
父が刑務所に入ったように、私も殺人罪で罰してほしいと渇望するほど重々しい気持ちが伸し掛かり、解けた鉛でも飲み込んだかのように喉の奥が痛んでくる。
可愛いとも愛しいとも思えるのに、頭の何処かでお前にその資格はないと誰かが呟き、私は赤ちゃんの見つめることさえ出来ないのだ。
時が心を癒やしてくれるかというとそうではなく、心の傷口にかさぶたが出来るだけだと私は思う。
日頃は乾いており傷口があったことさえ忘れそうになるが、ちょっとしたことでかさぶたは剥がれ、傷口はむき出しになってズキズキと痛み、濃い赤色をした血やドロリと濁った膿が溢れ出るのだ。
痛みに泣き叫び、あるいは啜り泣きながら立ち止まり、時間を経てまたかさぶたができる。
深い傷を負ったものは誰だって、そうやって生きているのではないかと思う。
社会人になって何年か経ち、傷口のかさぶたも少しだけ硬くなってきた頃。
母と私は県内で何度か引っ越しをし、庭が広い一軒家に住んでいた。
母は自由に仕事が出来る日々を楽しみ、友人も増え、お茶会と称して遊び行くこともあった。
私を支え続けてくれた白猫は随分年を取り、甘えん坊に磨きがかかり、起きている時も寝ている時も側に居るようになった。
いつもと同じ平和な夜、自室で白猫を膝に乗せて本を読んでいると、不意に携帯電話の着信音が鳴った。
見知らぬ電話番号だったため留守電になるのを待ってから、相手が誰かを確認するために耳に当てた。
「……なぁ、お父さんだけど……」
その言葉を聞いた時、私は反射的に携帯電話を遠くに投げ捨てた。
白猫が驚いて飛び起きたが、それに構うほどの余裕などなくて、混乱したまま投げ捨てた携帯電話を凝視した。
父が電話をかけれるということは、刑務所から出所したと言うことだ。
専門学校に通っているときから電話番号を変えていないとは言え、まさか父が覚えているとは思わなかった。
それとも調べたのだろうか?前の家に何か残っていたのだろうか?――不安と恐怖でしばらく動けずにいたが、白猫が喉を鳴らしながら甘えてくる様を見ていたらパニックに陥る事は避けられた。
私は落ち着きを取り戻すために時間を置いてから、携帯電話を拾い上げ、情けないほど震える手で留守電の再生ボタンを押した。
「……なぁ、お父さんだけど……。
あの頃の事は本当に悪いと思っている。
でも、警察に捕まって刑務所に入り罪を償ったんだ。
だからさ……、お母さんにお願いしてお父さんのもの返してもらうように言ってくれないか?
お父さんの服も家財も全部持っていったせいで、生活できなくて困ってる。
〇〇がお願いすればお母さんも許してくれるだろう。
〇〇が持ってきてくれてもいいから、とにかく会って話をし……」
そこで容量に収まりきれずに留守電は切れていた。
数年ぶりに聞いた父の言葉に、私は呆れると同時に怒りを感じた。
電話越しの父は私が言うことを聞くと確信した口調で、笑っているのが易易と想像できた。
お父さんのものを返すと言っても、誰も着ない服をわざわざ持って引っ越しなどしないため手元にあるわけがない。
あの頃家にあった家財も母が働いた金で買ったものばかりで、父が警察に掴まる前に暴れたせいで殆どが壊れて処分するしかなかった。
今住んでいる家にあるのは全て、母と私が二人で働いた金で新しく買いなおした家財だけだった。
父に返すようなものなんて、本当に何一つ無かったのだ。
父の要件は、私に会う約束をこじ付けたいだけの口実だと悟った。
暴力と虐待に明け暮れた日々を本当に反省しているなら、母や私に心底悪いと思っているなら、連絡など取ろうとも思わないだろう。
それどころか、あんなに酷い事をしたのに、今更会いたいだなんて口が裂けても言えないだろう。
警察に捕まっても刑務所に入っても、結局は父は父のままだったのだ。
私は携帯電話をキャリアごと変更し、父から連絡が取れないようにした。
それでも、父がまだ生きていて同じ国内にいるというだけで私は不安になったし、何時か見つかるかもしれない、仕返しをされるかもしれないという怯えは今でもある。
それでも、不安や恐怖に背中を預けて日々を生きていくしかないのだ。
携帯電話がかかってきた日から、また数年の時が流れた。
私は結婚し、優しい主人や猫達と穏やかな日々を送っている
あの日以降、父からの連絡はない。
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