5:覚める夏の日(5-7)
「……此処、だと思う」
未だ戸惑いを滲ませた様子の阪田を伴って向かったその建造物は、近くで見ると、同程度の規模の三棟の建物が渡り廊下で連結した不思議な造りをしていた。
建物の前方には広い空き地のような何もない空間が広がっており、落ちた枯れ葉と土が凸凹に積もる地面の中に時折キラリと光るガラス片が混じっている。それら全体が錆びた金属のフェンスで囲われていたから、あの空き地は恐らくこの建物に付属する庭なのだろうと思われた。先日春日江と訪れた第四工業団地程ではないが、予想外に広大な敷地だ。
――庭の方には、異形の姿は見当たらない。先程聞こえた鳴き声のくぐもった声量から考えても、恐らくはあの建物の内部を徘徊しているのだろう。
通り沿いに設置された門の影に隠れて、後ろに着いてきていた阪田の方へ向き直る。
「……その、」
異形の居所の見当がついた今。考えなくてはならないのは、自分が討伐に当たっている間の彼の居場所だ。
この付近まで自分を案内してくれた時点で、阪田は機関の上層部から頼まれた任を果たしたことになる。だからといって何があるか分からない『境界外』を一人で歩いて帰らせるわけにはいかないし、敵の動きと強さが読めない以上、この門や近くの建物で事が終わるまで待っていてくれたら安全だとも言い切れない。敵が潜んでいる建物の中を彼に歩いてもらうのは警戒が必要なことではあるけれども――いざという時のことを考えると、常に目の届く範囲に居てくれる分、ある意味安心ではある。
――どちらがより安全であるとは、正直、今の自分には判断がつかない。間違えても代償が自分一人に降りかかるだけのことなら簡単なのに、他人の命に係わる判断は当然ながら難しかった。
こんな時、柊や春日江だったら――もっと的確で、自信に満ちた決断が出来るのだろうか。春日江ならきっと、余計な心配などせずとも自分が一瞬で異形を倒してみせると笑うだろう。
「……待っていてもらうのも、一緒に来てもらうのも。……どっちも、危なくないとは言えない。悪い。こんな所まで付き合わせて」
不甲斐なさに頭を下げると、阪田は慌てたように「そんな、」と上擦った声を上げた。
「……お前は、どっちがいい?」
「……僕は……」
一瞬視線を彷徨わせた青年は、数秒の沈黙の後、抑えた声量で口を開いた。
「……鎧戸くんに着いていくよ。離れてるときに襲われて迷惑かけちゃうよりは、まだ一緒に居た方が手間にならないよね」
「……わかった」
「うん」
ありがとう、と困ったように眉を下げて笑った男に、もう一度「悪い」と頭を下げて、二人はゆっくりと門を潜った。
「もし俺が負けたりしたら、その時は一人でも逃げてくれ」
真剣な顔で言う鎧戸くんに「うん」と曖昧に頷いて、彼の後に着いて敷地内に足を踏み入れる。
玄関まで続く通路の舗装は所々剥がれていて、その残骸なのか石なのか分からない大小さまざまな破片が散らばっている。鋭く尖ったそれらの先端が揃って空の方向を向いているのを見て、ここで転んだら痛いだろうな、と藪蛇な想像をした。
元々は花壇でもあったのだろうか。半分程地面に埋まったレンガで縁取られた、今は何も生えていない囲いの脇をそっと通り過ぎて、漸く正面玄関らしき場所に辿り着く。幸い鍵は掛かっていなかったようで、年季の入った引き戸は鎧戸くんが少し力を入れただけでキュルキュルと音を立てて開いた。
慎重な足取りで侵入した彼を追って、僕も内部へと足を踏み入れた。
扉を潜り抜けて。まず初めに目に入ったのは、埃まみれの下駄箱だった。けれど本来なら其処に収納されているべき上履きは一足も見当たらなくて、改めて此処が『僕の』学校とは違う場所なのだということを認識する。
数十年前に打ち捨てられて廃墟となったのであろう『高等学校』は、当然ながら人の気配がなく、不気味な程静かだった。
鎧戸くんの後に続いて廊下に上がろうとして、外履きのままで学校の床を踏むことに少しだけ戸惑う。
――躊躇うな。誰も見ていない。此処は僕の居た高校ではないのだから、泥のついた靴で廊下を歩いたって誰に咎められることもない。
「……この階には居ないかもしれないな」
「そうだね」
険しい表情で周囲を見回す鎧戸くんは、恐らく此処がどんな建物なのか気が付いてはいないだろう。素直で優しい彼のことだから、もし勘付いていたら門まで来た時点で僕に気を遣ってしどろもどろになってしまっていたはずだ。ここに来て彼に余計な心配を負わせずに済んだことに、僕は心の中だけで安堵の溜息を吐いた。
これ以上、迷惑を掛けないようにしなければ。
前を歩く鎧戸くんに気付かれないよう、気休めのようにベルトケースに仕舞ったナイフの柄をぎゅっと握りしめる。――僕にも一応他の『強化人間』と同様の武器が支給されているが、これを持っていたとして、今の自分が自分の身を守れるとは思えない。けれど、完全な丸腰でいるよりはまだ精神的にマシだった。
――これが没収されていないということは、まだ『特務機関』は僕を見限ってはいないということだ。未だ三人目の『強化人間』候補として、能力を発現させることを期待してもらえている。
「……静か、だね」
「ああ」
鎧戸くんと一緒に高校の中に入ることを決めたのは、単に境界外で一人になるのが心細かったからだけではない。彼に着いていくことで、少しでも自分が強化人間の力を出力する手がかりになるものを見つけられれば、と考えたからでもある。
今回の任務で自分が派遣された目的が、単なる『鎧戸くんの案内役』だけではないことぐらい、直接言われずとも分かっているのだ。これまでも境界外の空気や異形の存在を肌で感じることが能力の発言に繋がればと、上層部の指示で柊くん達に同行させてもらってはいたが、いつまで経っても結果は出なかった。徒に焦りと不安感だけが増幅していく日々の中で、痺れを切らしているのはきっと自分だけではない。
今は『まだ』見捨てられていないとしても、『特務機関』だって、『強化人間』でないただの子供を――何の役にも立たない人間を、いつまでも施設に置いておく義理はない。此処まで、という具体的な期限こそ僕自身には示されていないけれど、日が経つごとに自分が持て余されているのだということはひしひしと感じていた。
このまま成果を出せない日々が続けば、機関を追い出されるのも時間の問題だ。 ――当然だ。彼らに拾われた日から一カ月以上の間、僕の存在は彼らに何の利益も齎せてはいないのだから。
強化人間の力は使えない。春日江くんのように強くもなければ、柊くんのように頭が回るわけでもない。そんな役立たずな人間、いつ切り捨てられたって文句は言えない。
鎧戸くんだって、今は親切にしてくれているけれど、きっと――
「……」
早く、どうにかしないと。変わらなければ、役に立たなければ。
歩みを進めるごとに後ろ向きになっていく思考を振り払うように顔を上げると、ふと目の前の視界がちらちらと霞む。眼鏡は掛けているのに、どうして、――寝不足のせいだろうか?
「――、……田、」
「……」
「阪田」
「……あ、」
一つ二つ、重くなった瞼のシャッターを開けるように意識して瞬きをすると、一瞬だけぼやけた景色のピントは直ぐに元通りに修復された。気を取り直して前方を確認すると、先程から歩いてきた廊下はもう少しで突き当りに到達する所だった。 「……もし、体調が……悪いなら、」
「う、ううん、大丈夫だよ。ごめんなさい」
気遣わしげに掛けられた言葉をそれとなく途中で遮って、頬の筋肉を吊り上げるようにして笑顔を作る。少しの間を空けて「そうか」と口にした彼は、それ以上の追及はしてこなかった。
「無理は、するなよ」
「うん、大丈夫」
此処で待っていろ、と言われなくてよかった。二階へと続く階段を上る青年の背中を、足音は立てないように早足に追いかける。
――置いて行かれたくない。彼だけには。
最初から、追いつけっこない場所に居ることは分かっていても。
窓に面した広い廊下の左手には、幾つかの扉が等間隔に並んでいる。ふと気になってその内の一つの引き戸をそっと開いてみると、中は機関の共有スペース程ではないが広い正方形の部屋になっていた。入口の向かい側に配置された窓から月明かりが仄かに差し込む空間の中、木製の椅子と机が所々乱れた列をなして並んでいる。――会議室か何かだろうか。一人納得して扉を閉めて、再び薄暗い廊下を歩き出す。
二階までの調査を終えて、今度は三階の廊下の端から端まで歩いたものの此処にも『異形』らしき姿は見当たらなかった。夜明けが近いのだろうか。耳を澄ませても聞こえるのは先刻より喧しく鳴きだしたカラスの声だけで、あの悍ましい異形の鳴き声は拾えない。
このままこの建物の四階まで見て回ろうかとも思ったが、先程から微かにも響いてこない足音から、恐らく頭上の階にも異形の姿はないだろうと予想できた。どうしたものかと暫し考え込んでいると、小走りで追い付いてきた阪田が背後から話しかけてきた。
「もしかしたら、隣のこ、……建物かもしれないね」
「渡り廊下に行ってみる?」と提案する阪田の言葉にこくりと頷く。確かに、見込みのない場所をいつまでも探すよりも、一度別の棟に移動してみた方が建設的かもしれない。
「そうだな。……一度戻って、真ん中の棟に行こう」
普段よりも柔らかさを心掛けた声で返事をすると、男は「うん」と安堵したような表情を浮かべた。
三階の廊下の中腹に設置された細い渡り廊下は、此方から中央と向こう側の棟を貫き、三棟の建物を一つに繋いでいる。
渡り廊下の入口まで戻った所で、阪田がまたほんの少し遅れて着いてきていることに気が付いた。彼には気付かれないように意識して歩みの速度を落として、俯き気味に歩く男の表情を横目に盗み見る。
心無しか普段より猫背気味に見える姿勢、前を向いているようでその実焦点が合っていない虚ろな瞳。
――この建物に入ってからの阪田の足取りは、何処かぼうっとしていて安定していないように思える。先程は俺が名前を呼んだことにも気が付いていないようだったし、心なしか顔色も――いや、これは、恐らくずっと前からだけれど――頗る悪い。
「……」
昨日までの疲労が祟っているのか? やはり何処かで待っていて貰った方がまだ良かったのだろうか。今更に過ぎる後悔を胸に抱えながら、薄茶色の髪を揺らして歩く青年に歩調を合わせて渡り廊下を進む。
阪田は、本当ならこういった荒事には向いていない人間なのだと思う。
家族のために高校を辞めて、就職活動をして――家にも帰れず、仕方なく辿り着いた最後の居場所が、『特務機関』であっただけ。
「変わりたい」と言った彼の言葉に感化されて協力を申し出たけれど、あの自分の行動が彼に余計な無理を強いることに繋がってしまったのではないだろうか。けれどもし自分がそう直接謝っても、訊いても。きっと気遣い屋の平時の彼には「そんなことないよ」と苦笑いで一蹴されてしまうだけだろう。
――やはり、異形の位置が把握できたら、此奴には何処かで休んでいて貰おう。
夏生が静かに決意したその時。カタリ、と微かな物音が鼓膜を震わせた。
「!」
反射的に阪田の右肩を掴んで此方に引き寄せる。俄かに驚いた顔をする彼と視線を合わせて『静かに』と手振りだけで告げると、阪田は動揺に瞳を揺らしつつも健気に頷いた。
足音を立てないように爪先を上げて、そっと一歩前に進み出る。それと同時に後ずさった阪田の気配を背中に感じて、数歩後ろで待つ彼を隠すように床に立つ両足に力を込めた。
殆どの窓が閉め切られた屋内に風は無い。『境界外』の廃墟の内に、俺達以外の人間が侵入するはずもない。
つまりは――やはり、居る。この渡り廊下の向こうに。
「……」
カタ、カタン。尖らせた聴覚に再び感知された物音は、どうやら中央棟の三階、もしくは四階から聞こえてきているようだった。板張りの床を鳴らす足音だろうか、不規則に途切れては再開する『異形』の痕跡は、奴が俺達の方へ接近していることを示すものではなかった。恐らく、相手はまだ此方の侵入に気付いてはいない。
何もしないまま向こうに気付かれて追われる立場になるよりは、此方から先手を取って叩くべきだ。見通しの悪い建物の中では、先日の初任務の際のように事前に異形の姿や動きを把握することが出来ないのが不安材料ではあるが。愚図愚図と考えていても状況は恐らくこれ以上好転しない。
「……」
――逃げられないなら、逃げずに倒せばいいだけの話だからね。
初めて聞いた時には唖然とした春日江の発言を思い返して、一つ小さく深呼吸をする。彼のような実績を持たない自分ではあそこまで楽観的に思考することは出来ないが、心持ちだけは強く持っておくべきだと考える。
足音が近付いてきていないことを再確認して背後を振り向くと、おどおどと様子を伺っていた阪田は驚いたように肩を震わせた。『俺が行く』と唇だけをはくはくと動かして合図しようと試みたがどうやら伝わらなかったようで、意味が読み取れないと訴えるように緑色の瞳が不安げに瞬く。
声を出さずに伝えることは諦めて、少しだけ姿勢を落として顔を男の方へ寄せる。喉の奥から微かに吐き出した声を異形が拾わないことを祈って、そのまま戸惑った表情で此方を見上げる阪田の耳元に囁いた。
「……俺が見に行くから、……お前は一度、さっきの棟に戻ってくれ」
「!」
息を吹き掛けるような声量で告げた言葉に、阪田は一瞬大きく目を見開いたが、すぐにぎこちない笑顔で首を縦に振った。『わかった』の形に動いた唇に安堵して、気を付けろよと念を押すように緑色の瞳を見つめる。
『大丈夫』
声を伴わずに発された一言に頷いて、夏生は渡り廊下をひた走った。
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