5:覚める夏の日(5-6)
「大丈夫?」
外に出た瞬間、生温い空気がそっと頬を撫ぜた。
地面に突いた腕の力を強めてマンホールから這い出ると、先に地下道から抜け出ていた阪田は何処か心配そうな表情で此方を見下ろしていた。不安げに眉を下げた男の顔に頷いて、滲む汗と共に顔に張り付いてくる前髪を軽く払う。
季節外れの長袖が気温と湿気による発汗でじわりと肌に纏わりついて、微かな体温の上昇を感じる。地下道に居た時は時折寒気すら感じる程だったが、一度外に出てみれば外気は鬱陶しく肌に絡みつく程度には暑苦しい。やはり夏だ。
まだ日の昇らない『外』の世界は薄暗く、僅かに差しこめる月の光以外に自分達を照らし出すものはない。埃が積もるアスファルトで舗装された地面から身体を起こすと、途端に目線より低い高さに来る薄茶色の頭越しに人ひとり通らない街の景色が映る。
通りには外壁が所々剥がれた家々が並び、その各々を囲むように立ったブロック塀に両脇を挟まれた道路は心なしか少し狭く感じる。元々一軒家の多い住宅街だったのだろう。視界の端に見えた集合住宅らしき建物も、数週間前に春日江と訪れた第四工業団地で見たそれとは異なる、二、三階建ての低層住宅だった。
周囲に高い建物が少ないこともあって、この辺りは高所に上らなくても比較的見通しが良いようだ。閑静な元・住宅街を一通り見渡した夏生は、一先ず付近に『異形』の気配が感じられないことに安堵の溜息を吐いた。
「……此処は……」
柊はC地区に行くならばこの出口が一番近いと言っていたが、今の自分達は一体何処に居るのだろう。ふと浮かんだ疑問を口端から零すと、阪田は「えっと、」と少しだけ言葉に詰まりながら口を開いた。
「多分、C-1地区の北の端辺りだと思う」
「前にも来たのか」
「ううん、此処に来たのは初めてだけど……そこの電柱に住所のプレートが貼ってあったよね」
「だから多分」と頷いた阪田の視線は、目前の景色そのものではなく、何もない虚空に向けられている。僅かな緊張と焦りのようなものが滲むその表情に、どうやら頭の中で地図を思い描いているようだと気付くのにそう時間は掛からなかった。
まさか境界外の地理を全て暗記してでも来たのだろうか。驚いた夏生が「わかるのか」と尋ねると、阪田は困ったような笑顔で「ううん」と首を横に振った。
「……ここにきてから勉強しようとしたんだけど。まだ全然覚えきれてないから」
それでも十分凄いと思うのだけれど、阪田は全くそんな風には捉えていないようだった。機関の上層部が彼を案内役として自分に同行させたのは、こうした部分を考慮しての配役だったのかもしれない。
「でも、どの辺りに居るのかな」
「探すにしても、これじゃ範囲が広いよね」と呟く男の言葉に黙って頷く。
先程指示を受けた時には異形の個体数と出現した地区名しか聞かされなかったけれど、それだけではいくらなんでも情報が少なすぎる。自分達が担当する個体が、遠目に見ても視認できる程に堂々と道を歩いていればいいが、団地で春日江と遭遇した個体のように、建物内に入り込んでいる可能性だってあるのだ。いくら道に迷う心配がないとは言っても、地区の中を延々と虱潰しに探していくのは時間的にも阪田の体力的にも難しいだろう。
「僕、蕪木さんに連絡してみる」
「頼む」
「うん」と頷いて通信機を操作し始めた阪田から視線を外して、夏生は先程支給された自分の支給品をちらりと確認した。
左腕に巻いたベルトケースに仕舞った黒色の機械は、任務で境界外に出向いた際の連絡手段として一人につき一つ支給されているものらしい。操作方法は――
「……」
蕪木さんから、詳しい操作方法はこれに書いてあると説明書を渡されたものの、――そういえば、漢字が読めないことを彼に告げていなかったと気付いたのは、難読漢字だらけの小冊子を受け取った時だった。以前同じような書類を渡された時には結局阪田に手助けして貰って用が済んだから、蕪木さんに断りを入れておくことを失念してしまっていたのだ。
「はい、……ええっと、どの辺りですか?」
『……、……』
「――はい、そこなら分かります。それと……」
通信機を片手に、何やら真剣な表情で会話をしている男の横顔を盗み見る。今回は案内役の任に集中しているであろう阪田に余計な手間を掛けて教えを乞うわけにはいかないが、今日はずっと彼と共に行動するはずだ。役立たずで申し訳ないが、機関や柊達との連絡はあいつに頼ませてもらおう。
今の俺が気を付けなければならないのは、どちらかと言えば此方の扱いだ。
隣に立つ男に悟られないように小さく深呼吸して、夏生は右腿のベルトケースに包まれたナイフの刃をそっと握った。
通信機と同時に手渡された武器は、初任務で春日江や柊が使っていたのと同じ刃渡りの長い二本のナイフだった。数週間前には彼らに支給されたものを借りて異形との戦闘に臨んだこともあるから、大まかな使い勝手に関しては心配ないだろう。 ――ただ、『一人で』奴らと渡り合うのが強化人間になったあの夜以来であるというだけだ。
「聞いてみたよ」
不意に隣から掛けられた声に、思考に没頭して油断していた肩が思わずびくりと跳ねる。「ありがとう」と小さく頭を下げると、阪田は曖昧な笑顔で頷いた。
「どうだった」
「監視塔からの情報だと、少し前に此処から一キロ半ぐらいの所にある公園を歩いてる所が観測されたみたい。体長は二メートル半から三メートル半……えっと、鎧戸くんと柊くんが討伐したあの異形よりも、少し大きいぐらいかな」
「そうか。……じゃあ、そこに向かった方がいいな」
観測情報があったという公園からは既に移動してしまっているかもしれないが、異形がその辺りの区域をうろついているであろうことは間違いない。俺が頷くと、阪田は「うん」と相槌を打って薄く微笑んだ。
「行こうか」
入り組んだ住宅街の路地の道幅は狭いけれど、そこまで横幅のない人間が二人並んで歩けない程ではない。にもかかわらず心なしか少し後方に着いてくる男の様子を時折振り返りながら、夏生は黙々と境界外を歩いた。
曲がり角に差し掛かる度に「右だよ」「次は左かな」と指図してくれる阪田の声以外、二人の間に会話はない。
――何か話をしたい気持ちはあるのだが、話しても差し障りのない話題が思いつかない。
何だか本当に、初めの頃に戻ったみたいだ。もっともあの時の自分は、阪田に話し掛けられるまで、彼と会話を交わしていないことを気にしてもいなかったのだけれど。
「……そういえば、」
「!」
緩やかな沈黙を、そっと破って放たれた声に瞠目する。
「鎧戸くんが機関に来た日以来だよね。こうやって、一緒に『境界外』を歩くの」
思い出したように口にした阪田の声は穏やかだったが、眼鏡のレンズを通したその目は何処か遠くの方を見ているような気がした。
「そうか。……そう、だったな」
此方を見ていない瞳につられるように視線を進行方向に戻して、夏生は彼と初めて会った日のことを思い出した。
『確かに、ちょっと暑苦しいけど……』
二度目の『境界外』への来訪に夢中になっていたあの時の俺は、先刻自己紹介を終えたばかりの男に自分から話し掛けようなどとは殆ど思いつかなかった。
「……あの時も、お前が先に話し掛けてくれたんだった」
隠しきれない緊張と怯えを滲ませた様子にも関わらず果敢に声を掛けてきた阪田に対して、何とか礼だけは口に出来たものの、その後はまともに会話が続けられなかったことを覚えている。
人付き合いは元々得意ではないし、仲良しごっこがしたいわけではない。柊に尋ねられた時は迷いなく答えたし、今だって変わらずにそう思っている。
人が嫌いなわけではなかった。下手な話し方と目付きのせいで相手から怖がられることはあっても、俺の方が誰かを嫌いだと感じたことはあまりない。街中で見知らぬ誰かが仲睦まじく談笑しているのを見れば暖かい気持ちになるし、心から良いことだと感じられる。
しかし、自分がその中に入りたいと望んだことがあるかと問われれば――これまで深く考えたことはなかったけれど、多分、なかったのだと思う。
同年代の子供と触れ合うことも、日雇い労働の職場で必要以上の言葉を交わすこともない。賑やかで楽しげな人の輪は、何もかも自分には不釣り合いで不相応だからと、此処に来るまで自分の言葉を尽くす努力をしてこなかった。
――今思えば、それはそれは馬鹿なことをしていたのだと分かる。仲良しごっこだとか人の輪だとか、そんな大袈裟な話ではなくても。
隣にいる誰かと話すためには、言葉が必要なのに。
「あ、ああ、あれ……」
俺の方から過去の話を振られると思わなかったのか、阪田は少し言葉に詰まったように口籠った。
「手袋。だろう」
未だ朝日が昇る気配のない空に手を翳して、自分の掌を覆う黒い手袋を見る。季節外れの装備を暑苦しいと何も考えずに外そうとした自分に対して、手が汚れるからと助言してくれたのは阪田だった。
たった数週間前のことなのに、何故だか随分と懐かしい記憶に感じる。「あの時は助かった」ともう一度言葉にすると、阪田は少し躊躇いがちに口を開いた。
「あ、……あれはね、口実っていうか、」
「口実?」
予想外の単語に首を傾げると、阪田は一瞬だけ何処かばつの悪そうな顔をした。
「……。なんていうか、話し掛けるための。とっかかりが欲しくて……」
「……」
「……書類を見た後にも、『話してみたかった』って言ったでしょ? あの時もそうだったんだ。きっかけは何でも良くて、鎧戸くんと何か話がしたかっただけ」
『けど、本当に面倒なんかじゃなかったんだよ。君とは一度話してみたいって思ってたし、それに……』
――確かに阪田は、あの時もそんなことを言っていたような気がする。話が得意でない俺に気を遣って言ってくれたのかもしれないと思い、あまり深くは考えていなかったが、あの言葉は彼の本心から出たものだったのだろうか。
「……それは、どうしてだ?」
初任務の時は阪田に話し掛けて貰っても上手く話を繋げることができなかったし、その後は異形の討伐に向かった柊を追って彼を屋上に置いて行った。そんな自分が初めから彼に良い印象を与えられていたとは思えないし、それでなくてもこの見た目と性格だ。幾ら律儀で優しい彼のこととは言っても、敬遠されても無理はない振舞いをしていた自覚はある。
「……君が、どんな人なのか気になって」
「……。……同い年で、世話役。だからか?」
「ううん。それもあるけど……あのね、」
「……僕、鎧戸くんと会ったの、あの日が初めてじゃないんだ」
「え?」
予想だにしていなかった言葉に、思わず間抜けな声が零れた。
「あ、実は小さい頃に会ったことがあるとか、そういう意味じゃないよ!」
驚きで表情が固まった俺を見て慌ただしく言葉を付け足した阪田は、「ほら」と緑色の瞳を細めて言った。
「鎧戸くん、機関に来る前の日、境界外で倒れてて……春日江くんに助けられたんだよね。……それから機関に着くまでずっと眠ってたから、鎧戸くんは覚えてないだろうけど。柊くんと僕も、あの後現場に行ったんだよ」
「そう、だったのか?」
確かに春日江は、俺を機関まで運んだのは自分ではないと言っていた気がするが――阪田からも柊からも、そんなことは一言も聞いていなかった。
一瞬疑問を覚えたものの、「あれ、柊くんが背負って戻ってくれたんだよ」と話す阪田の言葉ですぐさま納得がいく。彼がそういったことを自分から告げるとは思えない。
「それは、……悪かったな」
あの晩、春日江の前で倒れた時の自分の惨状を思い返してみて、夏生は苦虫を噛み潰したかのような表情になった。傷自体は強化人間化のお陰で消えていたとしても、血と泥で汚れた男の身体は見ていてあまり気分の良いものではなかっただろう。長年機関に居る春日江と柊はある程度慣れているかもしれないが、まだそういった光景に馴染みがないであろう阪田には見苦しいものを見せてしまった。
「……びっくりした。……情けないんだけど、僕、人があんな風に倒れてるところ、見たことなくって」
「それはそうだろう」
境界付近の街では道端で倒れている人間を見かけることもあったが、比較的治安の良い中心部では早々目にしない光景だろうと思う。それに、見ないでいられるものならその方がずっといいものだ。
「……あんまり動かないから、最初は、死んじゃってるんじゃないかと思ったよ」
少し抑えた声で語る男の瞳は何処までも静かで、俺は其処にどんな感情を見出せば良いのか分からなかった。
「びしょ濡れで、血だらけで、すごく痛そうなのに……君は、静かに眠ってた。びっくりしたし、ちょっと怖かった。……でも、同じくらい気になったんだ。――あの日に強化人間になった君が、どんな人なのか」
「……」
「だから、迷ったけど……話しかけちゃったんだ。次の日も」
「その日はちょっと失敗しちゃったけどね」と茶化すように口にした阪田の顔は、また見覚えのある大人びた笑みを浮かべていた。
「それは……気づかなくて、」
「あ、全然、責めてるとかじゃないんだよ!? ……変な誤解させて、ごめんね。でも、偶然だったけど、その後に結局話ができたし」
独り言のように「よかった」と呟いた言葉は、書類の解読の手伝いをしてくれた件のことを指しているのだろう。何と返事をしたら良いか分からなかった俺が黙って頷くと、青年は此方に目を合わせないまま言葉を続けた。
「……人のことって、第一印象だけじゃわからないよね」
「……」
「初めて見た時には、――君のこと、」
右斜め後ろを歩く男との距離は、手を伸ばせばすぐに届く程に近いのに。二つの身体の間には目には映らない断絶が横たわっているようで、自分達はあくまでも一人と一人だった。
廃墟の街は静かで、仄暗い夜空は何処までも続いていきそうに広い。
「こんなに、……優しい人だとは思わなかった」
俺の耳だけに聞こえる声量で届いた彼の言葉の方こそが、何処までも優しく、しかし何故か、悲しげだった。
「……だから、僕……」
『ァ――!』
「……!」
何か言葉を返そうと阪田の方を振り向いた瞬間、全身に電流のような震えが走る。
突然其方を向いて立ち止まった自分を見て、阪田は戸惑いを隠せない表情で足を止めた。緊張感から知らず硬い表情を作ってしまっていたのだろう、レンズ越しに此方を見上げる瞳が不安げに揺れている。
「鎧戸くん?」
「……何か、聞こえた」
阪田の言葉と足音に混じって微かに聞こえた、低く昏い呻き声の残滓のような音。あれは恐らく――『異形』の鳴き声だ。
注意していなければ俺でも聞き逃してしまいそうな程微かな音量だったから、未だ『強化人間』の能力が目覚めていない彼には聞こえていなかったのだろう。
「公園はもう少しだけ先だけど」と呟いて、きょろきょろと心配そうに周囲を見回す阪田をそっと背で庇うように立って、夏生は音の聞こえる方向を探った。
話し込んでいる間に、随分と遠くまで歩いてきたような気がする。当初の目的地はまだ少し先にあると阪田は行ったが、異形が移動を続けているとすればその現在位置は多少ずれていたとしてもおかしくはない。
すぐ傍には異形の危険が感じられないことを目視で確認して、ゆっくりと瞼を閉じる。
平時より少し速く刻まれる自分の鼓動。そっと一歩後ずさった阪田が息を呑む音、彼の作業靴がアスファルトの砂利を踏みしめる音。風の音、何処か遠くの空を飛ぶカラスの声。
意図的に遮断した視界の分、心なしか普段より鋭敏になった聴覚は、頭から爪先までを包み込む生暖かい空気の層を通して周囲全ての音を拾う。
『――、――ァ』
――捉えた。
現在地、進行方向から左斜め前方。距離は恐らく半径一五○メートル以内。
「あれだ」
瞼を開いて『聞こえた』方向を指差すと、阪田は呆気に取られたような顔で声を上げた。
「……あれ?」
唐突に発見した最終目的地は、今居る道路から一つ向こうの通りにある巨大な建物だった。
「たぶん、あの中にいる」
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