5:覚める夏の日(5-5)
半ば走るような速度で出て行った鎧戸くんの手袋を嵌めた指が離れて、扉はカチャリと音を立てて呆気なく閉まった。
――行ってしまった。
そうは言っても、昨日の今日で彼と顔を突き合わせて平気な顔を作ることはとても出来そうになかったから、行ってくれてよかった。と言った方が、何処までも小さい自分の内心を表すには適切なのかもしれなかった。
こんな気まずさを抱えたままでは彼にも申し訳ない。これから二人で境界外に行くっていうのに。
コーヒーに盛られていたであろう睡眠薬の影響なのか、昨晩の記憶は何処かぼんやりとしている。
何かに勘付いたらしい鎧戸くんに本題を切り出されることが怖くて、誤魔化すようにお茶を淹れに行こうとした所までははっきりと思い出せる。完全に途切れていたのはその後の数分の記憶だから、恐らく自分は台所で倒れてしまったのだろう。彼が運んでくれたのだ、きっと。あの時も、理解するのにそう時間は掛からなかった。
次に瞼を開けたとき、一番最初に見たのは何とも言えない驚きと悲壮感を湛えた声をした青年の輪郭だった。眼鏡のレンズを通さない視界はいつも以上にぼんやりとして、はっきりとした表情は見えなかったけれど。彼が眼鏡をかけていない自分の顔――目の下に残る消えない隈を見て驚愕していたことは察しがついた。
『どうしてだ』
脳裏に蘇った青年の声は、その視線と同じように何処までも真っ直ぐだった。
「……」
家族のこと、口止め料のこと。
話してしまったんだな、と、今更ながらに後悔した。自分以外にとっては知ったことではない身の上話を暴露するつもりも、彼に余計な負担をかけるつもりもなかったのに、一度口を開いたら、いつの間にか自分が今何処に居て、誰に話しているのかも分からなくなってしまっていた。
――失敗だ。失態だ! これ以上、此処の人達に迷惑をかけるわけにはいかないのに。普通にしていたって自分は戦力外なのだ。ただでさえ居るだけで役立たずなのに、更なる醜態を晒してしまうなんて。
鎧戸くんは、彼は、昨日の僕を見てどう思っただろうか。先程の様子を見るに、きっと掛け値なしに同情して、心配してくれているのだろう。『家族』のために身の丈に合わない無理をして犠牲になろうとしている、かわいそうな同い年の男のことを。
彼はきっと、そういう人だ。――でも、僕は。
何処か地に足の着かない気持ちのまま、当然ながら何の表情も見せない金属製の扉をぼうっと眺めていると、不意に背後から自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「阪田ちゃん」
「……柊くん」
ソファの背に身体を投げ出した青年は、いつも通りの何処か気怠い口調で「起きてる?」と小首を傾げた。少しだけ眠たげに細められた瞳から放たれる鋭い視線に息が詰まったけれど、一瞬だけ強張りかけた顔面は意外にもすぐに作った笑みを貼り付けることが出来た。
「お、……起きてるよ。ごめんなさい、ちょっとボーっとしちゃって」
――これから始まる任務と鎧戸くんの反応が気にかかるあまり、彼がこの場に居たことを半分忘れかけていた。いけない。気が急いている。
「久々に『境界外』に行くからって、緊張して……こんなのじゃだめだよね。ごめんなさい」
取り繕った苦笑で頭を下げたものの、一つ年上の青年は普段通りを装った自虐をまるで聞こえていないかのように流して口を開いた。
「何も食べなくていいの」
問い掛けてくる静かな声の意図を汲もうと思考して初めて、秋人は自分が昨日の昼から何も口に入れていないことに気付いた。
部屋の隅に置かれた銀のカートに乗った一人分の夕食は、依然として誰にも手を付けられないまま冷えてそこにある。丁寧にラップを掛けられたそれが自分のために用意されたものであることは分かっていたけれど、今はどうにも飲み込める気がしない。
「今は、ちょっと。……運動する前に食べると気持ち悪くなっちゃいそうだから」
「戻ってきてから貰うね」と軽く断ると、柊くんは「そう」と興味なさげな顔で返事をして、再び視線を床に落とした。
灰色にも紫色にも見える不思議な色の長い髪が、安っぽい蛍光灯の光を反射して小さく揺れる。ソファの背に預けられた頭が此方を向く気配がないことを確認して、時折射抜くような視線を向けてくる彼の瞳と正面から向き合わなくて済むことに、少しだけ安堵した。
昨日の昼間。どうにか隠している気でいた忌々しい隈のことを不意に指摘されてからは、彼とも一方的に気まずい心地のままだ。あれ以来、僕は少しだけ彼のことが、彼と目を合わせて話すことが怖かった。
ひとに見抜かれることは、怖い。自分の中だけに留めて隠せているつもりでいた姿を、不意に他の誰かの目に晒してしまうのは。僕にとってとても恐ろしいことだった。
それきり何も言わなくなってしまった彼と顔を突き合わせているのがなんとなく気まずくて、咄嗟に口を開いた。
「……まだ少し、時間あるかな。僕、水だけもらってくるね」
いつの間にか乾ききった口内と睡眠不足に由来する貧血で青くなっているだろう顔色を誤魔化すためにも、それがきっと得策だ。
そう自分に言い聞かせながら、秋人は足早に台所へと足を向けた。
家事をすることには慣れている。
パートで家を空けることが多い母親の代わり、自宅ではいつも自分が家事の担当だった。男が炊事洗濯なんてと考える人も中にはいるのだろうけれど、自分の場合は初等学校の頃からそうだったから、左程不自然に思ったことはなかった。
あれは、十年程前からだろうか。激しく泣くまだ幼い妹を抱えた母親が、どうしようもなく疲れた、怖い顔をしていたから。それを見兼ねて――焦って、と言い換えるべきかもしれない。自分が手伝ってもいいかと、恐る恐る声を掛けたのが始まりだったと思う。
手伝うと言っても、元々何事に対しても人並み以上に才能の無い自分のことだ。初めの頃は妹の相手ぐらいしか出来なかったけれど、段々と料理や掃除洗濯といった家の中のことまで任されるようになっていった。
とびきり美味しいものが作れるわけでも、ものすごく器用なわけでもないけれど、何年も続けていれば自ずと手際も少しはましになる。専門的に勉強したわけでもない自分の腕前はあくまでも『こなせる』程度で、特技だと胸を張れるようなものではないけれど、「ありがとう」と笑う母親の顔や、ぎゃあぎゃあと自分に泣きついてくる妹の姿を見ると小さな安堵感を覚えた。
――自分では真面目に授業に打ち込んでいるつもりでも、試験の成績は思うように上がらない。運動神経は、小さい頃に視力が悪くなった頃からずっと同年代の子供達よりも劣っている。いつだって気が弱くて、人前で堂々と自分の意見なんて言ったことは一度もない。
人に自慢できるような子供ではなかった僕は、それでも家で自分に出来る仕事があることに微かな安心感を覚えていたのかもしれない。
妹が人に身の回りの世話をされるほどの歳でもなくなって、一人で何だって出来るようになったのはいつのことだったろう。蓋を開けてみれば、平凡な両親や愚鈍な僕などと血が繋がっているとはとても思えない程才能に溢れていた彼女は、学校でもそれ以外でもすぐに三歳上の兄には及びもつかないような活躍を見せるようになっていた。
成長と共に、両親が自分よりも妹に期待を寄せるようになっていたことは知っていた。幼い頃からお世辞にも『いい子』とは呼べない我が儘ぶりには手を焼いていたけれど、自分よりずっと感情豊かで利発な娘に、彼らが確かな愛情を持っていたことも。
それでも、何の不満も零さずに自分の作った食事を口に運ぶ家族の姿を見ていると――あの家にも、まだ自分が役に立てることが残っているのだと思えた。
思っていた、だけなのだろうけど。
感覚が麻痺しているだけで、お腹が空いていないわけじゃない。冷めきった昨晩の夕飯を胃が受けつけそうになくても、鎧戸くんが戻ってくるまでの間に簡単に何か作って口に入れることもできなくはないはずなのに。何故だかそんな気分になれなかった。
蛇口から流れる水をプラスチックのカップに直に流し込む。カルキ臭の抜けない水道水が干乾びた喉を潤して、容器に触れる指先から伝わる生ぬるい冷たさが思考を先程よりもクリアにした。
お茶ぐらい入れればいいのに。頭の中の冷静なもう一人の自分がそう呟いているけれど、それを口にする人間が自分の他にいない今では薬缶を火にかけることすら煩わしい。
――それしかできないから、そうやって生きてきただけで。
料理も、家事も。全部。
本当は、そんなに好きじゃなかった。
そっと肺に吸い込んだ酸素が普段より薄い。
外は七月、初夏の盛りだというのに、光の差さない地下道の中は薄暗い風景のせいか何処か寒々しく感じた。薄く水が張った地面は歩を進める度にビチャビチャと不快な音を立て、石のブロックを積み重ねたような見た目の壁面は出口の見えない暗所の閉塞感を更に際立たせる。何処までも奥に続いていくように思える細く長い通路は、同じ地下ではあっても夏生達が暮らす『特務機関』の広々としたつくりとはかなり様相が違っていた。
旧時代には下水道施設の一部として用いられていたものを改修したトンネルは縦横に狭く、悪臭こそ無いもののあまり長く留まっていたい場所ではない。
「……もう少しか?」
――異形は『境界』までどのくらい近付いているだろう。先に地区で交戦しているであろう春日江は無事だろうか。文字通り出口の見えない視界に気が逸る俺を振り返ることなく、少し先を歩く柊は「まだ」と冷静な答えを返してくる。
俺が飛び出した晩のような非常事態ならばいざ知らず、通常時は複数人の兵士が警備に当たっているはずの『境界』を誰の目にも触れないように通過することは難しい。
夏生が身を置くことになった、正式名称の無い研究機関――通称・特務機関は、元々は中央政府から任を受けている、らしい組織である。とはいえ、強化人間の存在はその末端である兵士達までは知らされていない。
余計な騒ぎになることを避けるためなのか、機関から直接境界外に移動する時は一度この地下道を経由するのが普通らしい。
「次の角」
「そうか」
冷ややかな声で付け加えた柊に相槌を打って、夏生はどうにも落ち着かない胸中を誤魔化すように周囲に視線を動かした。
暗闇の中でもやけに鮮やかに過ぎる視界の内には、先達である男の一つ括りにした後ろ髪がぴょこぴょこと跳ねる様から、時折足元を掠めていくドブネズミの逆立った毛並みまでもが克明に映る。元より夜目は利く方であったけれども、柊が手元に持った明かり以外に何も光源が無い地下道の風景をここまで目視することが出来るのは『強化人間』になったことの影響だろう。
右手に握ったライターで足元を照らしつつ歩く柊自身にも、恐らくは周囲の景色が自分と同様に、あるいはそれ以上にはっきりと視認できているはずだ。夏生のその推測を裏付けるように、先程からの彼の歩調には迷いや恐れの類が殆ど見られなかった。
それでも完全に明かりを消してしまわないのは、夏生の前をいかにも危なっかしい足取りで進む阪田への配慮なのだろうか? ――それならそうと、もう少し表立って優しい言葉をかけたって構わないだろうに。あいつの考えることは俺にはやはりよくわからない。
分かりやすいようで掴み所のない男の心中に首を捻ったとき、前方から「わ、」と焦ったような阪田の声が聞こえた。
半ば反射的に手を伸ばして、前方に躓きかけた男の右腕を軽く掴んで引き留める。
「大丈夫か」
湿気た地下道の床部分には、梅雨の時期流れ込んだのであろう雨水と泥が靴底を浸す程度には溜まっていた。此処に顔から突っ込むことになっては大惨事だ。どうにか転倒させずに済んだことに安堵して声を掛けると、阪田は少し息を切らした声で「ごめんね」と小さく呟いた。
「ありがとう」
「気にするな」と口を開いて、暫し支えたままでいた彼の身体からそっと指を離す。此方に小さく頭を下げて、すぐに前へと向き直ろうとする青年の表情を何の気なしに覗き見て、夏生は呆然とした。
「……迷惑かけて、ごめん」
――この程度、本当に何でもないことなのに。どうして此奴はこんなに苦しげな笑い方をするんだろう。
何か言葉を掛けようとして、何を言っていいのか分からなくなって。阪田に対しては昨日からそんなことばかりだった。
此処で自分の望みを叶えたいならば、家族と暮らしていた頃のように黙っているばかりでは駄目だ。初任務の際、異形の所まで一緒に連れて行ってくれと柊に頼み込んだ時の自分は、確かそんなことを考えていた。
今でもその思いは変わらない。あのままの自分では駄目だ。けれど、考え無しに踏み込んで意図せず彼を傷つけることはもうしたくなかった。
未だ一筋の月光さえも差し込まない地下道はしんと冷たくて、再び歩き始めた男の背を映す視界は、くっきりと見えているはずなのに酷く暗く思える。
無責任な無力感に苛まれる頭の中で、不意に昨晩柊に掛けられた言葉が蘇る。
『もっと良く見て、考えなよ』
――あの時と違って、今の自分には見えている、と思う。あいつが苦しんでいることも。いつまでも覚めない悪夢のような焦りに魘されていることも。
けれど、まだ見えない。
其処にいるはずの彼に手を伸ばす方法は。
再び沈黙に落ちた夏生の心中を知ってか知らずか、一番前を歩いていた柊が不意に立ち止まった。
「? どうした」
「どうしたじゃないでしょ」
「そこ」と呆れた顔で呟いた男が指差した先の壁面には、何やら金属製の細い梯子のようなものが備え付けられており、その上には蓋が半分外れているらしい穴が開いていた。
そこから漏れた地面に半月状に照らし出される様を見て、漸く此処が出口の一つなのだと察する。「此処が?」と聞き返す俺に億劫そうに頷いた柊は、言い聞かせるように俺達二人を振り返って腕組みをした。
「C地区に行くなら、この出口が一番近いはず。俺はもう少し先まで行くから、ここからは別行動で」
「う、うん」
「わかった」
別行動。普段ならば何でもないその単語に、胸の底から湧き出てくる緊張を押さえながら夏生が頷くと、柊は見透かしたように「無理だと思ったらさっさと退きなよ」と釘を刺すように言った。
「新人とド新人の組み合わせに大した期待なんてしてないし、何かあったら通信機で呼んで。……何十分かしたら行くから」
嘘でも『すぐに行く』とは言わない現実的な所が柊らしい。実際、柊がこれから向かうD地区の奥と自分達が向かうC地区の距離感を考えれば、何か不測の事態が起きたとしても自身も任務中である彼をすぐに呼び出すことは難しかった。異形との交戦中に下手を踏んでも、彼や春日江に手助けしてもらうことは出来ない。
――失敗は出来ない。隣で頷いた阪田の気配を感じながら、夏生は黙ったままこくりと頷いた。
やはり緊張感を滲ませた顔つきの阪田が梯子を上り切るのを見届けた後で、自分も金属製の取っ手に右手を掛ける。
体重の負荷できいきいと軋む梯子を軽く上りきり、外へと這い出ようと片手を伸ばしたとき、聞き慣れて冷たく、しかし何処か名残惜しげにも聞こえる声が背中に届いた。
「――それじゃ、また後で」
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