5:覚める夏の日(5-4)


 ――どうして、こんな所に居るのだろう。

 こんなにも冷たくて鬱陶しい雨の中。痛い思いまでして。


 寒さと疲れで朦朧とした脳の奥で、どこか他人事のようにそう思ったことを覚えている。


 雨が降っていた。


 尚も続く土砂降りを避けるために連れ込まれた小屋の中。ずぶ濡れのまま床に横たえられた青年の身体は、時間の経過と共に赤黒く変色した血液と泥に塗れてぴくりとも動かなかった。

「彼はもう、『強化人間』だ」

 土臭さに紛れて鼻腔に届いた鉄の匂いが、言葉が、どうしようもなく頭を麻痺させる。後頭部をガンと殴られたような衝撃に視界がぼやけて、すぐそばで響いている筈の声がずっと遠くの方に聞こえた。

「戻るよ」

「……わかった」

 服を汚す夥しい血の量に反して傷の一つも残っていない身体は異様で、確かに上下する喉元に安心と同時に微かな羨ましさを覚えた自分を恥じた。

 彼を背負い上げて足早に進む青年の背中を追って、再び雨の中に足を踏み出す。


 身体を撫ぜる雨粒とシーツの感触が混じり合う。ざあざあと五月蠅い雨の音はいつの間にか聞こえなくなって、耳に触れるのは自分の呼吸音だけだ。少し先を歩く人間の輪郭がじんわりと滲んで、解けて、溶けて。ただの風景になる。

 何も見えない。何も聞こえない。ここには一人しかいない。

 僕一人しかいない。


 ――阪田。

 ふと、誰かの声が聞こえた気がした。


「……、……あ、さ?」

 耳に残る朧げな記憶に揺り起こされるように、束の間の眠りは淡い倦怠感だけを残して消えていった。



 けたたましく鳴り響くサイレンの音で目を覚ます。


 ――もう起床の時間か。節々に倦怠感の残る身体を起こそうと腹に力を入れた瞬間、明朗でありながら緊迫感を漂わせた男性の声が耳に飛び込んできた。


『警報発令』

「……!」

 聞き覚えのあるフレーズに頭を殴られるような衝撃を覚え、寝惚けていた意識が急速に覚醒する。ベッドから跳ね起きて戸棚からズボンと靴下を引っ張り出し、すぐ傍の時計に目を遣ると、時刻はまだ二時を回った所だった。

『A-2、C-1、D-1地区に合計五体の出現を確認。警戒レベルは、――』

 支給されて以来机の下に放置していた外履きを慌てて引っ掴み、支給された上着を羽織る。袖も通し切らないままに自室の鍵を開けて共有スペースへと続く扉を開けると、ソファの肘置きに腰掛けた柊は何やら難しい表情でスピーカーを睨み上げていた。

『――方も、避難の必要はありません』

「柊!」

「うるさい」

 びしゃりと冷えた声で一喝され、興奮で昂っていた身体の温度が平常のそれに戻った気がした。少しだけ平常心を取り戻した夏生が眼前の男の様子を窺うと、柊はとっくにいつもの上着や靴を着込んだ状態で、左腕に巻いたベルトケースには既に見覚えのある通信機が収納されている。

「……。お前は行くのか」

「多分ね」

 警戒区域に侵入したらしい異形の数は五体だと放送が言っていた。奴らの内何体が境界へと近付く危険性が高いのかは分からないが、この居住スペースにまで放送が流れたということは、強化人間にも出動命令が下る可能性が高い。柊はそれを見越して出動の準備を整えているのだろう。

 同じことを思って慌ただしく身支度を整えてきたものの。冷静に考えれば、此処に来て以来一度しか任務に当たっていない自分にまで御鉢が回ってくるかは分からない。個人的にも今すぐ柊に同行して境界外に向かいたい気持ちはあるものの、それとは別に気に掛かっていることもあった。

「……」

 未だ閉じられたままの奥から三番目のドアに視線を移す。

 昨晩部屋を出た時の彼の寝顔が頭を過る。疲れ果てた様子で眠りに落ちた阪田との会話を思い出すと、一度は柊の言葉で落ち着いた筈の心臓が再びどくどくと嫌な音で鳴った。

 ――あのまま、静かに眠れているだろうか。

 せめて今日の朝までは何者にも煩わされることがないようにと思っていたのに。先程のサイレンの音で彼が叩き起こされていないことを祈る。異形のことが気になるのは勿論だが、あの状態の阪田を一人きりで此処に置いて行くのも不安だった。自分が居た所で、何が出来るというわけでもないことは分かっているのだけれど――落ち着かない心を無理矢理押さえつけるように深く息を吐いて、夏生は一先ず柊の方へと目線を戻した。

「柊、俺は……」

『ひいら……、……、その声は鎧戸君か?』

 再び話を切り出そうと口を開いた瞬間、スピーカーの向こうから聞き覚えのある声が会話に割り入った。

「あ、」

「……」

 突然頭上から降ってきた声に、驚きで喉から無意識に呆けたような声が漏れた。鈍間な反応を返した俺に向けてか、声を掛けるタイミングを被せてしまった相手に向けてなのか。うんざりした表情で額を押さえた柊が、天井近くに設置された機械に向けて「はい」と返事をする。

『……そうか、早いな』

 スピーカー越しに小さく息を呑んだ男性――蕪木さんは、何処か虚を突かれたような声色で相槌を打った。

 俺がまだ起きてきていないと思っていたのだろうか。ひとりごちるように呟いた男性の声に首を傾げていると、面倒臭げに腕を組んだ柊が「それより、」と小さく溜め息を吐いた。

「今は俺と鎧戸が居ますけど。用件は?」

 淡々とした表情で先を急かす言葉に促されて我に返ったのか、機械を通した男性の声質は『ああ、』と思い出したように硬質な響きを帯びる。

『……二人とも、朝早くから起こしてすまない。早速で悪いが、まずは今の状況を説明させてくれ』



『昨夜二十二時頃、監視塔から六体の異形の接近情報が入った』

 情報に、夏生は頭の片隅で昨日起こった出来事を思い返した。

 阪田が眠りに落ちたことを確認したのが二十時頃だったはずだ。その後に残っていた自分の分の夕飯を食べ、身支度をして就寝するまでの間には特に何の警報もなかったはずだから、その時点では市民には公にせず監視塔と討伐隊の間だけで処理する予定だったのだろう。

『未明頃に警戒区域に侵入した彼らの内、二体は討伐隊のみで処理できたが、残りの四体は未だ討伐まで至っていない』

「現在地は?」

『A-2、C-1、D-1。その内A-2――もっとも境界付近まで迫っている個体に関しては、春日江が対応することになっている」

「春日江……」

 久々に耳にした気のする名前に目を瞬いた。そういえば彼とは昨日の朝、任務に出掛けていく背中を見送って以来一度も顔を合わせていない。

「……昨日から続けて。ですか?」

 まさか、あれから一度も戻ってきていないのだろうか。最後に彼の姿を見た時刻と現在時刻を頭の中で見比べて問い掛けると、『いや、』と慌てたような否定の声が返ってきた。

『一度サンプルを置きに帰ったが、その後すぐにまた出動してもらったんだ』

 ――一度は戻ってきていたのか。気が付かなかった。それにしても殆ど休憩を取らない状態で十数時間超は出動していることになるが、その辺りのことは問題ではないのだろうか。

 少しだけ感じた不安に夏生がはっきりとした返事を返せないでいると、はあ、と深く溜め息を吐いた柊が「あれだけ食べてまた出てった」と出入り口の脇に置かれたカートを指差した。

 細く長い指が示した方向に視線を移すと、昨晩見た時には料理が盛られていたはずの三枚目のトレイは綺麗に空になっていて、一人分――昨日阪田が食べ損ねた分だ――の夕食だけが丸々残ってしまっている。

「……そうか」

 言外に彼のことは心配しなくていいと言われた気がして、夏生は漸く小声で相槌を返す。

 春日江の方は、少なくともあれを素早く完食できる程度には元気でいるのだろう。パン屑の一つも見受けられない白い皿に安堵すると同時、余計に一つ残った冷めきった夕食のトレイと、それに一口も手を付けていないであろうもう一人のことが頭を擡げる。

『それで、だが』

 逸れかけた話題を戻すようにこほんと軽く咳払いした男性は、何処か緊張感の滲む口調で言葉を続けた。

『君達には、二手に分かれて残りの個体の対応に当たってもらうことになる』

「二手?」

 スピーカー越しの声が零した単語を怪訝そうに訊き返した柊が、何処か物言いたげな目で顔を顰める。

「……鎧戸一人ですか?」

『残念だが、それは無理だろう』

 不意に出た自分の名前と、「無理」という言葉に何も口を挟めないでいると、蕪木さんは『悪い意味に取らないでくれ』と取り繕うように言葉を足した。

『身体能力云々ではなく、知識と経験という面での問題だ。警戒区域の地理も此処の仕事の手順も把握できていない状態で君が単独行動を取るのはリスクが大きい。……これはこちらの上層部の判断だ』

 俺がこれまでに境界外を訪れたのは二回だけ。それも一度目は任務ではなく、まだ普通の人間の身体を持っていた時分、境界付近で襲われかけていた男から自分の方へ異形の注意を逸らすために飛び出した時のことだ。あの時は勿論周辺の地理を把握するどころではなかったし、二度目――此処に来て初めての任務に当たったときも、道順に関しては殆ど柊や春日江、阪田の後に着いて歩いているだけの状態だった。その日に歩き回ったA地区に関しては多少記憶が残っているが、他の地区でも迷わずに歩けるかと言われると確かに自信はない。

「……」

 それ自体は何も間違った判断ではない。けれど、俺が一人で出動出来ないということは――

 同じことに思い当たったのだろう。「それは」と切り出した柊の声は、心無しか普段より少しだけ硬いものに聞こえた。

「つまり、どういうことですか?」

『……阪田君に、鎧戸君と同行してもらいたい』

「っ……」

 予想は出来ていたが無茶な提案に、夏生は思わず隣の柊の顔を見た。

『起こしてきてくれるか』

「……」

 しかし、直ぐにでも食って掛かるのではないかと思っていた彼は何故だか考え込むように口を噤んでいて、少しの沈黙の後で溜め息と共に静かに目を閉じた。

 阪田の不調のことは彼も知っているのではないかと思うが、柊もこの策が妥当であると思っているのだろうか。常とは違う男の物分かりのよさに微かな戸惑いを覚えつつも、何を言うべきなのかも分からないままに口を開く。

「……いや、それは……あの、」

 ――柊が言わないのなら、俺からでも伝えなくては。

 いや、寧ろ、俺『が』言わなくてはならないのかもしれない。柊は俺よりずっと以前から阪田の事情を気に掛けていたようだけれど、昨晩倒れた後の彼には会えていないはずだ。最早周囲を認識出来ていないような彼の顔も目にしていなければ、あの何かに魘されているような言葉も直接聞けてはいないのだから。

 今の阪田は、とても境界外に出動出来るような状態ではない。身体的にも――恐らくは、あいつ自身の心持ちの面でも。『外』に慣れることや彼の能力の問題の解決方法を探るのが目的の同行ではなく、こんな土壇場で俺などを補助することが役割になってしまうならば尚更だ。

「今は、」


 ――やめた方がいい。意を決して口にしようとしたその時、不意に背後でキイ、とドアの開く音がした。


「大丈夫」


 静かな声だった。

「大丈夫です、……行きます」

 唐突に投げ込まれたその穏やかな声だけが空中に放り出されたように虚しく響いて、数秒間誰も何の反応も返せなかった。


 いつから起きてきていたのだろうか。それまでの空気を裂く扉の音と共に現れた青年の顔は、『いつも』通りの控え目でおとなしい笑みを湛えていた。慌てて着込んだのであろう服は少し乱れていて、几帳面な彼にしては珍しく上着のファスナーが下に降りている。

 分厚いレンズに隠れてくすんだ緑色の目が微かな深呼吸と共に瞬きするのを見て、夏生は無意識に口を開いていた。

「阪、」

「行きます」

 阪田、と呼びかけようとした自分の声を制するかのように、男はあの何処か大人びた微笑みのまま繰り返した。

「……ほんとうに、道案内ぐらいしか出来ないと思うから。お役に立てなくて、申し訳ないんですが」

 穏やかな口調で取り繕ったその声は、確かに常と変わらぬ優しげな響きを持っていた筈なのに。夏生には、何故だか彼が激しく叫んでいるように聞こえてならなかった。

「それでも良ければ、行かせてください」

「……」

 阪田はきっと、境界外に『行きたい』わけではない。『行かなくては』と。そう思い込んでいるだけだ。

「……」

 ――『だから、僕はここで役に立たなきゃいけない』。

 眠りに落ちる寸前に彼の口から漏れた譫言のような言葉が脳裏に蘇る。

 何かに急き立てられたような言動。穏やかな顔で笑う彼からは想像もつかなかった姿。

 それが今もこの笑顔の奥にあるものだとしたら――止めたいのに言葉が出ないのは、そうまで追い詰められた彼の懸念を否定できるだけの材料が自分には無いからだ。

 曲がりなりにも『行く』と言った阪田の意志を否定して、無理矢理此処に押し留めたとして。その後はどうする? このまま此処で過ごしていても、彼の『制限』が解消されて能力が発現する日が来るかは分からない。柊達と分かれて行動しなければならない状況の中、俺が一人で異形の元に辿り着ける保障もない。

 ――あいつは今日も一人で、眠れない夜を過ごすことになるのかもしれない。

「……」

 考えれば考える程に喉の奥が詰まって、何の言葉も発せなくなる。――俺は馬鹿だ。役立たずだ。唇を開きかけたままの状態で固まった男を横目に、しばらく黙っていた柊は静かな無表情のままで息を吐いた。

「……地下道の分岐点までは俺も同行します。そこからは二手に」

『……そうか』

「……」

「……ところで、」

 いやに重たくなった空気を攪拌するかのように腕を組み直した柊が、あからさまに不機嫌さが滲むいつもの声に戻って口火を切った。

「――鎧戸の分の武器と通信機。まだ支給されてなかったはずですけど、そっちの用意はできてるんですよね」

『あ、……ああ。今から届けさせる』

「……さっさとしてください」

『わかってる!』

「あ、いや、……」

 俺が取りに行きます。慌てて付け加えた言葉に、蕪木さんは『、そうか』と少しだけ息苦しそうな声で相槌を打った。

『ありがとう。場所は――』

 一通り引き渡し場所と注意事項を伝えた後、スピーカーはブツリと鈍い音を立てて沈黙した。


 面倒臭げにソファに身体を預けた柊を横目に、夏生の視線は未だ扉の前で立ち竦む男の姿に移る。

「阪田、」

 今度こそ名前を呼ぶと、男は一瞬だけぎくりと叱られたような顔で肩を震わせた。けれど怯えのようなその表情はすぐに消えてしまって、「鎧戸くん」と少しだけ気まずげな笑顔が小さく此方の名を呼ぶ。

「昨日はごめんね。部屋まで運んでもらっちゃって」

「いや……こっちこそ」

 疲れてるのに、俺のせいで付き合わせることになって。「悪い」と頭を下げると、男はどこか慌てたように「そんな」と首を横に振った。

「……」

「……」

 互いに言葉が見つからなくて、二つの身体の間を出会った当初のような沈黙が流れる。

 「大丈夫か」なんて、訊けるはずがない。そうでないことは、彼自身の他にはきっと自分が一番よく知っている。

「……また後で」

 うん、と笑顔で頷いた男と柊に背を向けて、彼らより一足先にエレベーターホールに向かう。

 一先ず今は、この任務を安全に、そして迅速に終わらせることこそが自分にとっての最優先事項だった。



 ――自分のせいで連れ出さなければならないのなら、せめて傷を負わせないように守り抜くだけだ。


 無意識の内に爪を食い込ませていた掌を解いて、夏生はポケットの中の手袋を強く握り締めた。

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