5:覚める夏の日(5-3)
「キミがひとりで此処に来るのは珍しいな」
「すみません、お時間を取らせてしまって」
「構わないよ、検体の適切な管理はボクらの役目だ」
「ありがとうございます。……あ、あの。今日は」
「ああ、コーヒーでも飲むか?」
「え? ……あ、い、いただきます」
「用件は? 睡眠薬の処方ならいつでも受け付けているが」
「いえ、それは、……まだ、その、」
「そうか。ならば好きにするといい。で?」
「その、此処で何か知りたいことがあれば、あなたに聞くのがいいと」
「した覚えのない約束だな」
「いえ、すみません。……他の方から、そう教えてもらって」
「無責任な奴も居たものだ」
「すみません」
「マアいいさ、気が向いたらね」
「……ありがとうございます」
「それで、何かな。他でもないキミがこのボクを訪ねてまで、わざわざ訊きたい事柄って言うのはさ」
「……こんなことを僕が尋ねるのはおかしいのはわかっているんですが、どうしても、気になって」
話をすると、その人はへえ、と意外そうに目を細めて、愚問だな、と小さく呟いた。
「それが、キミの訊きたいことなのか?」
顔を上げられないまま頷いた僕に、でも、と感情の読めない声が続いた。
「訊かれたからには答えよう、気が向いたからね」
かつてははっきりと認識出来ていたはずの物の輪郭が、ぼやけて見えるようになったのはいつのことだったろう。なんてことのない景色が霞むようになったのは。
――大人になるまで買い替えなくて済むように。そう言って大き目のサイズで買った眼鏡はよく汗と一緒に頬をずり落ちてきていたけれど、それをいちいち指で掬う僕を見る時の母がどんな表情をするかはよく知っていたから、彼女の前では素知らぬふりをした。
「あれ、鎧戸くんだけ?」
部屋に響いた声は明るかった。
いつかの午後、彼と初めて二人きりで話した日と奇しくも同じ言葉を背中で受け止めて、夏生はゆっくりと背後を振り返った。
控え目に開かれた扉の向こう側。エレベーターホールへ続く通路はこの部屋の中よりも少しだけ薄暗く見える。寿命が近いのか、不意にチカチカと瞬いた蛍光灯に照らし出された青年の姿は微かに明滅して、床に伸びた人影がちらちらと浮かんでは砂のように消えた。開き切らないままの扉をするりと潜り抜けてきた青年は、此方の姿を認めると何処か安堵したような表情で笑う。
パタリと扉が閉じられた音で我に返って、夏生は口を開いた。
「春日江はまだだ。……柊は」
いつの間にかきっちりと閉められていた入口から三番目のドアを振り返って、数秒迷った末に「寝た」と答える。阪田は夏生の返答に少し目を丸くすると、「そっか」と曖昧な苦笑いを見せた。
「……」
「……」
一メートルほどの距離に生温い静寂が流れる。
恐らく不自然に思われているのだろう。俺のぎこちない態度に首を傾げた阪田の困ったような笑顔は、いつもと――それは、彼と出会ってからひと月にも満たない自分が認識する『いつも』でしかないのだけれど――変わりないように見えた。
「……何処へ、行っていたんだ」
――尋ねてもいいのだろうか。冷静な頭ではそう逡巡しながらも、口の端から零れだした問いを止めることが出来なかった。
「ああ、さっきの部屋に忘れ物をしちゃって」
「! そうか……」
先程は俺が検査の時間を忘れていたから、結局阪田一人であの部屋の後片付けをさせることになってしまったのだ。「一人でやらせて悪い」と謝罪すると、阪田は「気にしないで!」と慌てたように首を横に振る。
「僕が見落としてただけだから、ごめんね」
そう言って顔の前で振った阪田の手は何も持っていなかったから、忘れ物は恐らくポケットに入るような大きさの消しゴムか何かだったのだろう。大方俺が見えにくい位置にでも置いていたのだと思う。
そっと扉を閉めて此方に歩み寄ってきた阪田は、ドアの裏に置いてあった銀色のカートを視認して「あ、」と声を上げた。
「もう、そんな時間だったんだね。気が付かなかった」
「此処だと空も見えないからな」
四方をコンクリート張りの壁に囲まれたこの施設では、壁に掛けられた時計とけたたましく鳴る起床ベルの音以外に時間を見て取れるものがない。屋外に居らずとも窓があれば空の色や日の入りの様子でおおよその時間帯に見当がつくものだが、地下深くに所在しているらしい此処ではそれも不可能なことだ。
時間感覚が狂うのも無理はない。心当たりのある夏生が一人ごちると、阪田ははっと何かに気が付いたように視線を彷徨わせる。
「どうした?」
「……も、しかして、待っててくれてた?」
「? ああ、」
「どうせならと思って」と頷くと、阪田は「あああ」と大袈裟に頭を抱えた。そのまま初対面の時を思い出すような深さで頭を下げられて、思わず半歩程後ろに後退する。
「気にしないで、食べててくれても大丈夫だったのに! ごめんなさい」
「俺が勝手に待ってただけだ」
何気なく放った一言に申し訳なさそうに眉を下げてしまう男の表情が心苦しくて、思わず言葉足らずな弁解が口から洩れる。
ぶっきらぼうに聞こえてしまってはいないだろうか。そんなつもりはないのだけれど、自分の発言はいつも言葉が足りなくて要らぬ誤解を招いてしまう。口に出してしまってから不安になって、夏生は付け足すように口を開いた。
「丁度すこし、柊と話していて。それに、……」
――お前と話したいこともあったから。そう続けようとして、中途半端な所で喉が詰まった。
俺には、阪田に話してもいいことが――話したいことが、あるのだろうか?
彼の抱える問題の手助けができればと思っていた。彼に尋ねてみたいことが沢山あった。それは本当だけれど――けれどそこに何の理由が、どんな権利があるのかと問われれば口を噤んでしまう。その程度の考えで行動していたこともまた、否定しようのない事実なのた。
「流されている」という柊の言葉を、俺は否定することができなかった。それに、
「……」
――「口止め料」。
先程辿り着いてしまったその推測が本当だとしたら、俺は今までずっと――
「……鎧戸くん?」
不安げに此方の名前を呼ぶ阪田の声で我に返る。
慌てて「何でもない」と首を横に振ると、阪田は少し微笑んで「そっか」と頷いた。
「遅くなっちゃってごめんね。お茶でも入れようか」
「あ、いや、俺が」
「いいよ、大丈夫。鎧戸くんは座ってて」
軽やかに台所へと足を向けた阪田は、「ね、」と柔らかく、しかし此方に否と言わせないタイミングで微笑んだ。
引き留めることが出来なかった背中を見送りながら、夏生は一人ぽつりと扉の前に取り残された。
先程からの俺の態度が不審であることには、恐らく阪田だって気が付いている。気遣い屋で人の感情の機微に聡いであろう彼が、こんなにも口が達者でない俺程度の人間が隠そうとしていることに気が付かないはずがない。
「……」
けれど、彼は何も言わなかった。
言外に、これ以上踏み込んでこないでくれと釘を刺された気がしていた。
きっと俺はもう、何も言わない方がいいのだろう。――柊はああ言っていたけれど、俺自身が何を考えているかなどは関係ない。その方が彼の負担にならないのなら、そうすべきなのだ。
ジリジリと焼け付くような苦しさを訴える胸を無理矢理抑えつけ、夏生はせめて配膳ぐらいは手伝いに行こうと顔を上げた。
数メートル先、台所に立つ後ろ姿に「手伝うぞ」と声を掛けようとして――仄かに湯気が立つ急須を持ったその手の動きが、どうしてか不自然に停止していることに気付く。
「……阪田?」
――根拠のない嫌な予感を覚えて、か細い声で彼の名前を呼んだ瞬間。
細い背中がよろめくようにぐらりと揺れて、そのまま床に向かって崩れ落ちた。
気付かれないように居間の扉を少しだけ開けて、スーツの男性と話す二人の姿を盗み見る。
此処からでは会話の内容までは聞こえない。けれど話を聞く彼らの顔で予想をつけることは出来た。
硬く、それでいて隠し切れない安堵の滲む表情をした両親の手が封筒を受け取るのを、少しだけ冷えた心で見ていた。
脱力した身体を抱きかかえたままドアノブに手を掛ける。
触れた瞬間に指先から這い上がる金属の冷たさに湧いた躊躇を振り切ってノブを回すと、内側からしか鍵の掛からない個室の扉は、きい、と音を立てて簡単に開けてしまった。
そのことに安堵したような、申し訳なくて堪らないような。相反する感覚を覚えながら、夏生は阪田の部屋へと恐る恐る足を踏み入れた。
室内の電気は当然ながら点いていなかった。壁に取り付けられたスイッチを付けようか少し迷ったが、それでは眩し過ぎると気付いて伸びた手を下ろした。共有スペースから漏れる仄かな光が戸の隙間から差して、歩くのに困らない程度に室内は明るい。
――そうでなくとも視力が補強された『強化人間』の目ならば、暗闇の中でも障害物を避けて移動することぐらいは出来るだろう。そう頷いて足を進めた夏生は、すぐに自分の心配が無用なものであったことを知った。
塵ひとつ無い床。新品同様に磨かれた机。整えられたベッド。支給された生活用品の詰まった段ボール箱があちこちに積んである自分の部屋と違い、阪田の部屋は何も考えずに歩いても物を踏む恐れが無い程度には綺麗に整頓されていた。同じ間取りの筈なのに自室より広く思える室内の様子を思わずまじまじと見つめそうになって、反射的に目を逸らす。
家族以外の人間の部屋に入るのはこれが初めてだけれど、家主の薦めも無しに置いてある物をじろじろと眺めてはいけないことぐらいは知っている。
自分は特に――持ち主からこの部屋に招かれたわけではないのだから。
「……」
未だ目を覚まさない男の身体をベッドシーツの上に横たえて、夏生は小さく息を吐いた。
――倒れかけた阪田の姿を視認した瞬間、反射的に身体が動いていた。
一歩、二歩。跳ぶような勢いで踏み込めば、よろめいた身体との距離は一瞬で縮まる。横向きに崩れる身体と床の間に左腕を滑り込ませて、コンクリートに打ち付けられる間近の背中を直前で抱いた。
「……っ!」
脱力した身体を片手で抱えたまま、阪田の手から離れ宙に浮いた急須の底を空いた右手で掴む。蓋の開いたそれから零れ出た液体が歪な球の形になって宙に浮くのが見えて、水滴が落ちていこうとする地点から阪田の身体を退けた。零れ切らなかった緑茶が急須の胴を伝って自分の右手に沁みたが、白い湯気と共に掌を覆った火傷は肌を焼いた傍から直ぐにその痛みを失くしてゆく。
柔く麻痺したような手の感覚を無視して、夏生は急須を床に置くと慌てて腕の中の男の左腕を取った。――脈はある。呼吸も、している。高熱が出ているわけでもない。
瞼を閉じた男の表情は静かで、特に苦しんでいるようには見えなかった。
「……」
気絶している? いや、そうではない。これは、――眠っている?
危惧していたよりも穏やかな男の様子を見て、直ぐにでも柊を呼ぶか、それともスピーカーに向かって助けを請おうかと焦っていた頭が少し鎮まった。今すぐに処置をしなければならないような事態では無いようだ。
――眠っているにしても、前触れも無く倒れ込むなんてどう考えても普通ではない。そのことは重々分かっているのだけれど。
人に知らせて大事にすることを彼自身が望むかと考えると、直ぐに誰かを呼びに行くのは躊躇われた。
「…………」
一先ず、此処のソファにでも寝かせておけばいいのだろうか?
いや、それでは途中で春日江が戻ってくるかもしれない。俺の部屋――では、目覚めた時に迷惑を掛けたと阪田が狼狽するのが目に見えている。柊の部屋はそもそも選択肢に入らない。
「………………」
鈍間にも三分は迷った挙句、本人の部屋で休ませるのが一番妥当であるという結論に至った。
そして今、自分は此処――これ以上深く関わるべきではないと決意したばかりの男の部屋の中に居る。
「……」
静かに寝息を立てる男の傍に腰掛けると、薄暗い部屋の中でもシーツに自分の影が微かに落ちた。
薄茶色の髪の束がシーツの上に広がっている。柔らかそうなその髪とシーツの白の境界線をゆっくりと視線でなぞって、夏生はぼんやりした頭で死んだように眠る男の顔を見つめた。
何処となく穏和で幼さが残る青年の顔立ちは、眠りに落ちている時でも初めて見た時の印象と同じく、それほど派手なものではない。春日江のように一目で人の記憶に残る程鮮烈でも、自分のように誰かを怯えさせてしまう程に怖くもない。取り留めて強く印象に残ることのない。雑踏の中に隠れたら、すぐにでも人の波に埋もれて見えなくなってしまいそうな、そんな『普通』の男だった。
それでも今の自分なら、どれほどの人混みに紛れても一目で彼の姿を見つけてしまう確信がある。
彼自身が何か変わったわけではない。変わったのは自分だ。自分が抱える彼に対する感情であり、自分の中にある彼の存在だった。
左程長い時間を共にしたわけでもない。血が繋がった家族でも友人でもない。自分にとっての彼が、彼にとっての自分が、一体どんな肩書を名乗るに値するものなのかなど分からない。
けれど、ひと月にも満たない付き合いの間に、自分の中の彼はとっくに『何処にでもいる普通の青年』ではなく、『阪田』になってしまっていた。
穏やかに息をする男の寝顔を眺めて、夏生はふと彼が未だに眼鏡を掛けたままであることに気が付いた。
寝返りを打つ時にレンズが割れてしまってはいけない。お節介だとは薄々自覚しつつも、思わず両手を伸ばして顔に触れないように眼鏡のつるを摘んだ。男の眠りを妨げぬよう、慎重な手付きで眼鏡を取り外し机の上に置くと、夏生は思わずふっと安堵の息を吐いた。
そろそろこの部屋を出なければ。最後に阪田の容態に変わりがないことを確認してから腰を上げようと振り返って――
「……っ!」
顔色を隠す物が無くなった瞼の下に残る隈に、思わず赤色の目を大きく見開いた。
これまでは眼鏡の縁とレンズの厚さに隠れて目立たなかったのだろう。閉じた瞼の下の肌の色は明らかに他の部位より黒ずんでいて、見るからに血流が悪い。白い肌に浮かぶ隈の痛々しさとその存在に少しも気が付いていなかった自分に愕然として、夏生は呆然と阪田の顔を見つめた。
原因など考えるまでもない。眠れていないのだろう。
いつから?
「……鎧戸、くん?」
最悪のタイミングで開いた碧の瞳と目が合って、その色の鮮やかさに言葉を失った。
荷造りをする。必要なものは向こうで用意してくれると言っていたから、持って行くべきものはそう多くない。
手紙を残していこうか迷って、書くことがないからやめにした。
「……僕、……」
突然の目覚めに固まった夏生の姿と室内とを交互に見回した阪田は、此方が説明するまでもなく自分の置かれている状況を察したようだった。
「ごめん」
間髪を入れずに放たれた謝罪の言葉は、焦りつつも何処か柔らかさを含んだ普段の声色とはまるで違っていた。落ち着き払っているけれど、穏やかなわけではない。何らかの限界を既に通り過ぎてしまったから、かえって冷静になってしまっているような、そんな声だ。
「……気にするな」
俺のことは。締まった喉から漸く絞り出した自分の声は酷く小さくて、こんなにも傍にいる彼にすら届いているか分からなかった。
「まさか、倒れるとは思わなかったな」
「……なにか、悪い物でも食べたか」
優しげな言葉遣いにも関わらず張り詰めて聞こえる声に堪えかねて慣れない冗談を言うと、阪田は一瞬目を見開いて「心当たりはある」と弱々しく微笑んだ。
「慣れないことしちゃったから、バチが当たったのかも」
そう一人ごちた阪田はまだ少し眠たげで、それでもいつか空き部屋で見たのと同じやけに大人びた顔で笑っていた。
目覚めたばかりの瞳の表面には、薄く生理的な涙の膜が張っている。レンズを通さなければやはり鮮やかな色をした緑の目が柔い水分を含んで薄闇の中で光る。
その瞳に映る自分の姿を見て、その瞳に映る彼の姿を見て。
「今日、検査の時にあの人と話した」
気が付くと、口を開いていた。
「おまえの話を聞いた。学校の話を」
――此処に来ることが決まる前から辞めていたという話を。
「どうしてだ」
「……鎧戸くんは、ほんとうに素直だね」
この言葉を言われるのは二度目だった。
「正面切って聞かれるとは思わなかった」
ひとを自分の尺度で測っちゃだめだね。そう言って力なく笑った阪田は、少し震えた右の掌を顔に近付けると、表情を隠すように、あるいは吐き気を抑えるように口元を覆った。
「言いたくなければ、言わなくていい」
心から、断ってくれてもいいと思っての言葉だった。それでも男は「言いたくないわけじゃないよ」と首を横に振る。
「わざわざひとに話すようなことじゃないんだけど、……うん、」
「大した話じゃないんだよ、ほんとうに」
そんな前置きで始まった阪田の話は、確かに――それを語っているのが彼でさえなかったなら、どこにでもありそうな、ありふれた話だった。
「僕の家、両親が共働きだったんだけどね」
とは言っても母親はパートだから、稼ぎ手になれるのは実質父しかいなかったんだけど。そう語った阪田の表情は、これから始まることが予想される話の内容とは裏腹にやけに明るかった。
「父親が、春先に解雇されちゃって」
空元気だ。こんな自分にすら一瞬でそう悟られてしまう程に、取り繕えていない。
「再就職もあまり上手く行かなくて。このままじゃ家族を養ってはいけないし、今居る家も引っ越さなきゃならなくなる。……うちは三つ下の妹が居るから、あまり境界に近い所で暮らすのは危なくて」
張り付いたような笑みを浮かべた口からぽつりぽつりと放たれる言葉に、ああ、と深く頷いた。
中心部に比べれば家賃も物価も少しは安くなるけれど、境界近くの街の治安はお世辞にも良いものではない。其処に長く住んでいた自分が言うのもなんだけれど、年端もいかない女子を連れた家族が越すのに向いた地区ではないだろう。
「それで、僕が仕事を探すことになったんだ」
「…………それで」
「うん、四月には辞めてたっていうのは、それで」
「一人辞めれば学費も浮くし」と笑った顔に返す言葉が見つからなくて、夏生は黙って彼の話の続きを待った。
「いろいろ受けてはいたんだけど……まあ、見つからなくて」
「……」
境界外でも中心部でも変わらず、この街に経験も資格も無い若者を雇ってくれるような就職先は少ない。高等学校卒業という肩書があればまた少し違うのだけれど、同級生より一年早く学校を去ってしまった阪田の場合ではそれを利用することも難しかったのだという。
「それで、討伐隊はどうかって話になって」
「……!」
世間話のような調子で唐突に放り込まれた単語に、夏生はぶわりと立った鳥肌を抑えられなかった。
「でも、それは」
確かにあそこならば、年齢や経歴など関係なく、希望者はほぼ全員就職することが出来るだろう。けれど、
――討伐隊は危ない仕事だし。
つい数時間前、他でもない、目の前に居る男から聞いた言葉が頭の中に蘇る。
「それは、……」
――親御さんが心配になるのも無理もないよ。
どんな気持ちで言っていたんだ、そんなこと。
「いいんだ、それは。もういい」
背筋が冷えるほど静かで穏やかな『いい』で切り捨てられたものの中には、何が、誰が、どのくらい入っているのだろう。
思わず視線を逸らした拍子に目に入ってしまった、見ないようにしていた部屋の様子。
少しの筆記用具以外は何も置かれていない机。空の本棚。見当たらない荷物。――事前に荷造りをする時間は充分にあったはずなのに、極端に私物の少ない部屋。
彼は恐らく置いてきたのだ。愛着のある日用品も、家族との思い出も、何もかも。多分、もう二度と戻ることはないのだと気付いていた家に。
「……討伐隊に入るのは簡単かもしれないけど、僕みたいに貧弱な奴なんか、ろくに役に立てるはずがない」
だから迷っていた、と阪田は言った。
「そんな時に蕪木さんに会ったんだ。――強化人間の話も、特務機関の話も、初めは何の冗談かと思ったけど。本当だって知ったときは、」
「嬉しいなんてものじゃなかった」
押し殺したかのように小さい声は、それでもはっきりと耳に届いた。
「僕が、僕でも、誰かの役に立てる場所がある」
そう思ったから。譫言のように呟いた阪田の緑色の瞳は、もう夏生の姿を捉えてはいなかった。
「家にはもう帰れない。僕にはもう後がない」
誰に向かって話しているのかも、もうはっきりと認識出来てはいないのだろう。何かに急き立てられるように言葉を吐き出す男は、夏生に喋りかけているようでその実誰のことも視界に入れていない。
一人きりで、夢の中にいるような目つきをしていた。
「だから、僕はここで役に立たなきゃいけない。変わらなきゃいけないんだ。いけないのに」
「阪田、」
「僕は、ここで……」
不意に途切れた言葉を最後に、男は再び眠るように意識を失った。
音を立てないように扉を閉めて、夏生は外に出た。
「……」
ふと見上げた掛け時計の短針はまだ九にも届いていない。
夜はまだ長い。再び眠りに落ちた彼が、せめて少しでも長く瞼を閉じていられるようにと願った。
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