5:覚める夏の日(5-2)


 薄暗い部屋の中に再び沈黙が訪れる。


「……」

 ふと視界の端に捉えた時計の針はいつの間にか七時半を過ぎていた。


 柊は何も言葉を発さない。散漫に流れる時間に夏生は暫しぼんやりと目を瞬かせて、それも当然のことだと気が付いた。此処には自分と柊しか居らず、今質問を投げ掛けられているのは自分の方で、つまり次にこの沈黙を破って言葉を発さなければならないのは当然――たとえ、まだその問いの意味がよく掴めていなかったとしても――自分でしかないのだった。

「……その、」

 ――このよく分からない静寂を打破しなければと、とりあえず口を開いてはみたものの。何と答えればいいのか未だに計りかねている。夏生は数秒迷った末、一先ず柊の質問の意図を理解しなければと慎重に言葉を続けた。

「……俺が、いつ阪田の話を?」

 この部屋に戻ってきたばかりの時に一度所在を尋ねはしたが、『強化人間』の力の話題になって以降彼の名前は一度も出していないはずだ。

 あの時は柊の方が阪田の行先への言及を避けたがっているようだったのに、今頃になって何故名前を出してきたのだろう。会話の糸口を掴もうと咄嗟に浮かんだ疑問を口にすると、柊はツンとした表情で此方を睨んだ。

「質問に質問で返さないで」

 すぐさまピシャリと冷たい声で言い返され、鋭い視線に射られて一瞬言葉に詰まる。――しかし柊は、態度の割に此方の質問にも答える気でいたようで、「してないけど」と呆れきったような表情で続けた。

「分かるに決まってるでしょ」

「……」

「どうして、って顔されても」

 柊は浅い溜め息を吐くと、物分かりの悪い人間を見る目――一分の哀れみと多量の呆れを含んだ視線に晒されると、少しだけ俺が彼女の話に何か反論しようと試みた時の母親の顔を思い出す――で此方を見つめる。

 身に覚えのある居心地の悪さに押し黙っていると、彼はソファの肘置きに上半身を預けて視線を逸らした。

「……バカで愚鈍なお前にも分かるように言ってやってもいいけど」

「そこまでか……」

 思わず息を呑んだ夏生の挙動を完璧に無視して、柊は「だって、」と言葉を続ける。

「今の質問、お前じゃなくて阪田ちゃんのためのでしょ」

 ――どうして分かった。夏生がその疑問を口に出す前に、目の前の青年は何処かつまらなそうな表情で答えを語り始めていた。

「お前の……コントロールできてない馬鹿力に対する解決策が知りたいなら、俺に『最初から使えたか』なんて聞き方はしない」

「……」

「能力の出力の件はドクターに聞いたの? 何処までかは知らないけど、阪田ちゃんのことも」

 ――自分はそんなに分かりやすい行動をしていただろうか。考えていることをそのまま表情に出せるような体質ではないし、此処に来る前、家族と共に街で暮らしていた頃は、身内からもそれ以外の人々からも『何を考えているか分からない』と嘆かれることの方が圧倒的に多かったのだけれど。

 兎にも角にも、柊から指摘された事柄はおおよそ全て事実と言ってよいものだった。柊にした質問は次に阪田と話をする時の材料を集めるためのだったし、自分の能力に関する問題に関しても――正直に言えば研究室で聞いた阪田の話に気を取られて半ば忘れかけていた程だ。

「……お前の言う通り、……ための、と言っていいのかわからないが。阪田の話だった」

 夏生が正直に肯定の言葉を吐くと、柊は肘を付いたまま少しだけ此方に視線を寄越した。

「それ、阪田ちゃんからそうしてくれって言われたの?」

「? 違う」

 別に彼自身から直接情報収集を頼まれたわけではない。俺が気になって、勝手に聞いて回っているだけだ。あの人――ドクターに話を聞こうとしたのは、強化が失敗した時、あの人から特にそれに関する説明がなかったと阪田が言っていたのと――阪田自身があの人に直接彼に話を聞きに行くようなことはしないだろうという別の理由もあったが。

 柊は「そう」と一言言うと、「だと思った」と冷めた口調で一人ごちた。

「……どうして、そんなことを聞く?」

 自分が解決策を考えるのを疎かにしていたことは事実だが、それをわざわざ阪田の名前を出して指摘される意味がよく分からなかった。柊の話し方が回りくどいのはいつものことだけれど、此方を責める時の言葉は大概直球な表現で――それが俺の不手際なら尚更――オブラートに包んで伝えるような気遣いはしない男なのに。


「だって、お前には関係ないことでしょ」

「……?」

「阪田ちゃんのこと」

 静かに告げられた言葉に暫し瞠目していると、柊は呆れたような声で続けた。

「何処まで分かってるのか知らないけど、お前がこの前助けた男と違って、あの子は放っておいたって死ぬわけじゃないからね」

「それは分かっている」

 あいつが悩んでいた問題は、目下『強化人間』の能力を発揮できないということだけであって、それは現時点で彼の命を脅かすような問題ではない。今更確認されずとも理解できていることだ。

 夏生が何気なく頷くと、柊は「そう?」と何処か意地の悪い表情で片眉を上げた。

「分かってるのにそこまでするほど、仲が良いようにも見えなかったけどね。……お前、この前まではいつも春日江春日江で、あの子と二人で話してる所なんて見たことなかったし」

「ああ……」

 そういえば柊には、というより、他の強化人間二人にはだけれど――阪田と自分が交わした約束のことを話していなかった。あの話をするまではあまり二人きりで会話するような機会もなかったし、柊からすれば自分達が前触れも無く距離を縮めたように見えて不自然に思ったのかもしれない。

「別に、それ程でもないが」

 それこそ柊にはあまり関係がない話ではないかと首を捻ったが、突かれてやましい腹も特にない。事情を話しても問題ないだろうと判断して、たどたどしくも口を開いた。

「……少し前に、話をしたんだ。その……」

 ――彼と俺の抱える能力の問題の本質は同じではないかと考えたこと。阪田の力のことで、俺に何か出来ることがあるなら、いつだって手伝うと彼に告げたこと。そして彼も、俺のことを手伝うと言ってくれたこと、お互いに協力すると決めたこと。

 そこに至るまでの経緯とその際話した事柄をゆっくりと掻い摘んで説明すると、柊は少し目を細めて静かに頬杖を付いた。

「それ、お前から言い出したことじゃないの」

「……? どうして分かる?」

 浮かんだ疑問を今度は声に出して発すると、柊は「阪田ちゃんから言い出すとは思えない」と投げやりに首を横に振る。

「あのね、」

 放たれた言葉に夏生が首を傾げると、青年は何処か苛立ちの滲む表情で淡々と切り出した。

「上からしたら、お前の方の問題は別に解決しなくたって構わないんだよ」

「は?」

「……お前が今コントロールできてない馬鹿力は、最悪、そのまま治せなくても問題ない。『異形』を狩る分には支障がないから」

 柊は「同居人(俺達)には迷惑だけどね」と皮肉っぽく付け加えると、唐突に告げられた事実に呆然とする此方を他所に静かに目を伏せた。

「……聞いてないぞ」

「言ってないから」

 『治せなくても問題ない』。たとえそれが許されたとしても、日常生活を送る上で不便なこの状態をそのままにしておく気はないが――それでも、これまでずっと俺の能力の不出来に厳しい言葉を浴びせてきた柊からそう言われたことは少し衝撃だった。

「――強化人間一人分の戦力が手に入るなら、壁一枚ぐらいのコストには目を瞑る。特務機関はね。けど、阪田ちゃんの場合は違う」

「……」

「今は良くても、此処に居る以上、いつかは絶対に……解消して貰わなくちゃならない。俺個人としては別にどうでもいいけど、上はそう思ってる。――お前は『お互いに』って言ったけど、お前達と阪田ちゃんは違うよ。それにあっちは、」


「お前と違って、言われないとわからない奴じゃない」


 言外に阪田は分かっていたのだろうと告げられ、夏生の脳裏に彼と初めて二人きりで会話した日の記憶が蘇る。――あいつは、最後には俺の言葉を受け入れてくれて、笑ってくれたけれど。『同じ』という言葉を決して手放しに肯定してはいなかった。

「……でも、それなら。余計に……どうにか」

 彼の身体がこのままの状態ではいけないと言うなら、尚更どうにかして――対処しなければならないのではないだろうか。他人事じみた柊の様子に躊躇いを覚えつつも反論しようと口を開くと、くるりと視線をを動かした橙色の瞳が冷めた色を帯びて此方を射抜いた。

「……どうにかって、お前、何をしてやる気でいるの?」

「……!」

 ――突然頭から冷水を浴びせかけられたような、冷たく鋭利な感覚が脳を冷やす。

 研究室であの人に話を聞いた時からずっとそうだった。彼の問題の原因の所在が明らかになってから――俺は、自分があいつに何をすればいいのか分かっていない。

「何が出来るとも思ってないなら、何でわざわざ関わろうとしてるの。……珍しく親切にされて気でも緩んだ?」

「俺はただ……」

 少しでも、あいつの役に立てればと思っていただけで。

 夏生はそう口にしようとしたが、どうしてか喉の奥が詰まったように熱くて声を出すことが出来なかった。


「……」

 そう思っていた。――けれどそれは、本当に彼から望まれていることなのだろうか?

 心の内から湧き出た疑問が脳を支配して、思考を覆う靄は重く、深いものになっていく。

 二人で協力して解決策を見つけようと、そう話を持ち掛けたのは自分だった。――もしかしたら阪田は、ただ俺の提案に合わせてくれていただけなのではないだろうか。あいつは優しいから直接口にはしなかっただけで、本当は俺の言葉を重荷に感じていたかもしれない。


 ほんの数週間前までは二人で言葉を交わすことすらなかった間柄だ。俺は阪田の家族ではないし、此処に来てからのあいつのことだってよくは知らない。学校の件だって――あの人に聞くまでは知らなかった。聞かせてくれなかったことを責めるような大義名分もない。

「お前は、仲良しごっこをするために此処に来たの」

「違う」

 反射的に否定の言葉を吐くと、柊は「ならどうして、」と息つく間も与えずに問い掛けた。

「どうして、何の義理と理由があって、お前はあの子に関わろうとしてる?」

 ――どうして。どうして俺は今、あいつのことを知ろうとしているのだろう。

「お前は、あの子に好かれたいの? 良い人間だって思われたい? 自分より下の所にいる人間に優しくして、自分は強いって証明したい?」

 矢継ぎ早に浴びせかけられる言葉はどれも鋭くて、しかしどれも自分の中にある感情とは少し異なっているような気がした。

「それとも、」

 冷たい熱を孕んだ視線が心臓を刺す。


「どれでもなくて、ただ流されてるだけなの」


 ああ、そうだ――それが一番、事実に近い。


 それが理由の全てではないけれど、思い当たる節があったのは確かだった。親切にされて、初めて二人きりで話して、以前よりも少し親近感を抱いて。そうしたら彼が、自分と同じようなことに困っているようだったから。何か役に立つことがあればと思って――そんな風にして立ち回っている内に、いつの間にか自分で引いていたはずの境界線を踏み越えてしまっていた。

 その場その場では、一番良い選択肢を選んでいるつもりだった。けれど実際には、何も考えていなかったも同然なのかもしれない。

 俺のような人間が、他人の内心を推し量ろうとすることなど烏滸がましいと思っていたはずなのに。けれど、阪田の抱える問題が身体ではなく精神の方に由来すると知った今、俺がしようとしていたことは――してきてしまったことは。

 彼の領域に土足で踏み入ることに他ならないのではないか。

「……」


 柊の言う通り、俺はこれ以上この件に深く関わるべきではないのだろうか。寧ろ、阪田本人からはそれを望まれているのかもしれない。

「何も分からないまま突っ込んで、自爆するのは勝手だけど。巻き込まれるのは御免だ」

 けれど、でも、俺にはどうしても――

「…………」

「……もし、それでもまだ、何か首を突っ込みたいって思うなら」

 はっきりとした答えを出せないまま俯いた夏生を横目に、柊はいかにも億劫そうな仕草でソファから腰を上げる。

「もっとよく見て、考えなよ。他人に聞くんじゃなくてさ。……自分のことも、あの子のことも」

 安っぽい蛍光灯の明かりに照らされて、少しだけ伸びた人影が此方に落ちる。即席の薄闇の中にくるまれて視線を上げると、心中の読めない表情をした青年は何処か落ち着き払った声色で夏生に告げた。


「――節穴みたいなお前の目でも、見えてるものはあるんでしょ」

 ――俺に、見えているもの。あいつが俺の前で見せていたこと。


 立ち去ろうとする柊の後ろ姿をぼんやりと見つめながら、夏生はこれまでに阪田と過ごした短い時間の記憶を思い起こした。

 気弱で、礼儀正しくて、『普通』と呼ぶには少し自虐的すぎるように思えた初対面の態度。自分が苦戦した書類を労せずスラスラと読み解いてくれた横顔。ひとつ話をする度に、少しずつ形を変えていった彼への印象。時々見せる何処か大人びた笑い顔。――最後に交わした会話。

 何処までも優しく周囲を気遣う彼の姿に好印象を抱くと同時に、時折何か引っ掛かるものを感じていた。


「…………?」


 ――最後。

 そうだ、最後に話したとき――あいつは何を言っていた?

「あ、……」

 ――鎧戸くんは、優しいね。

 不自然なほど穏やかな笑顔と言葉に感じた違和感が、今になってじわじわと心の内に浮かび上がってきた。

 あの時の自分は確かに、阪田の態度に理由の分からない引っ掛かりを感じていた。予定されていた検査の時間が過ぎていたことに慌てて、追求せずに流してしまっていたけれど――今思えば、あれは――


 ――どう、思ったかなって。


「……謝礼……」

 無意識に口から漏れ出た単語に、自室の扉の前に差し掛かっていた柊の足が止まる。

「柊、お前、……この前……してくれただろう。その話」

 ドクドクと速まっていく心臓の鼓動を押さえつけながら、少し離れた後ろ姿に問い掛ける。

「あれのこと、……お前は、どう思う」

 此方を一瞬だけ振り向いた橙色の瞳が、風に吹かれた蝋燭の火のようにゆらりと揺らめいた。

「だから、言ったでしょ」


 ――金だけで手を切ってくれる親なら、わざわざ伝染病なんて下手な 嘘つく必要もないんだろうけどね。

 数日前に何気なく聞き流した言葉が鮮やかに脳裏に蘇る。


「口止め料」


 何処か遠くの世界のものとして身体を通り抜けていた言葉が、突然質量を伴って耳に届くのと同時。

 背後でカチャリとドアノブが回る音がした。

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