5:覚める夏の日(5-8)
足音を立てずに跳ぶような足取りで走ると、先程から聞こえていた物音は少しずつ近くなる。
中央棟まで到着して素早く周囲を見回してはみたが、三階の廊下には異形の姿は見えない。天井から微かに響いてくる音に、やはり敵は四階を徘徊しているらしいと確信する。そっと渡り廊下を振り返って阪田が無事居なくなったことを確かめた夏生は、廊下の端に設置された階段の方向へ移動することにした。
四階へと続く階段は中腹の踊り場で一度折り曲がるつくりになっており、階下からでは上階の様子までは確認できない。上に居ることは間違いないのだ。このまま駆け上がって襲撃しようかとも考えたが、ふと我に返って立ち止まった。
それでは直線状の廊下で異形と正面から衝突することになる。折角此方が先に相手の居場所を把握できているというのに、その有利を全くもって生かせないのは癪だ。他に、確実に先手を打てる選択肢は考えられないだろうか?
こういう時は、どうすればいいんだったか。
たまには頭を使いなよ、と。想像の中で聞き慣れた声が響いたような気がして、夏生は一人首を傾げた。
――初任務の時、柊から受けたはずの説明を頭の中で反芻する。俺の頭で一度に受け止めるには口数が多すぎるせいか、彼から話を聞いたはずの事柄に関する記憶は後々にはあやふやになってしまうことも多い。けれど、異形の特徴に関する話は幸いにも殆どの内容を覚えていた。
異形の嗅覚は他の感覚に比べて発達しておらず、奴らは主に視覚と聴覚を用いて物の位置を判別する。奴らの不意を突きたいならばその特性を利用し、態と音を立て、此方の狙った方向へ誘き寄せることも有効な手段なのだと。
あの時は確か、瓦礫の破片を投げて近くの建物の窓を割ったのだったか。この建物の廊下にも似たようなガラス窓が並んでいる。今回も同じ手が使えないだろうかと周囲の床を見回したが、長年放置された埃だけが薄く積もる床には、丁度良く投擲できそうな石ころは見当たらなかった。
――他に何か、音を出せそうな物は?
頭上の足音が未だ此方に近付いて来ないのを良いことに、階段に背を向けて一度廊下に戻る。
「……」
積年の風雨が叩き付けたのであろう泥で汚れた窓ガラスに映る自分の姿を目にした時、夏生は漸く左肩に微かな重みを与えるベルトケースの存在を思い出した。
階段から一番近くに位置していた部屋のドアをそっと開ける。廊下から隠れるように入り込んだ室内のつくりは机の並び方までもが先程訪れた棟と同じだった。
左腕に装着した布製のケースを開き、微かな物音も立てないよう慎重に通信機を取り出す。恐らく一人で使用することはないだろうと思い、ずっとケースに仕舞いこんだままだったから、機械の本体をまじまじと眺めるのはこれが初めてだ。
送話口の上部と本体の側面には数字や記号が書かれた幾つかのボタンと、音量か何かを調節するのであろう摘みが複数付いていて、一見しただけだと機械に疎い自分には詳しい操作方法は汲み取れなかった。けれど、今回に関してはこれで誰かに連絡を取ろうとしているわけではない。正しい操作を学ぶのは、この任務を無事に終えてからでも遅くはないだろう。
廊下側の壁に背を預けて座り込んで、通信機を自分の耳元に当てる。手探りで機械の輪郭を確かめ、かろうじてこれが電源だろうと見当を付けていた一番上のボタンを押すと、スピーカーから微かなノイズが漏れた。――よかった、動いた。
先程から開け放していたドアの方へ這うような姿勢で近付いて、廊下の様子を覗き見る。仄かな月光を反射して僅かに光る床板の上には誰の姿もないことを最終確認して、夏生は通信機のボリュームを最大まで上げた。
『――ッザ―――――ッ――』
「……っ!」
耳が痛い! 鼓膜を突き刺すようにキンと響く大音量の雑音に、思わず耳を押さえそうになる両手を理性でどうにか堪えた。開いたドアの隙間から素早く左手を出して、不愉快なノイズを発する通信機をそっと指から離す。床を滑らせるような高度で投擲されたそれは、鮮やかな直線の軌道を描いて隣の部屋の前で停止した。
廊下に差し出していた腕を素早く引っ込め、壁際に張り付くような姿勢で耳を澄ませる。
ザアザアと耳の内を引っ掻くような雑音の中に、ガタリ、と何かが倒れるような音が混じった。先程までカタ、カタと不規則に響いていた異形の足音が止んで、数秒の不気味な空白が生まれる。
「――っ」
続けて階段を駆け降りてくる足音。速く、力強く此方へ近付いてくる殺気に、夏生は高鳴る鼓動と鳥肌を押さえられなかった。
――来た。そう確信すると同時に、『異形』は姿を現した。
開け放したままの扉の隙間に、見覚えのある赤黒い色が過る。筋張った身体はやはり巨大で、この位置からではその全貌までは視認することが出来なかった。 壁を挟んで尚肌に突き刺さる殺気に、知らず強張る身体を隠すように息を潜める。
今日の俺は一人ではない。だからこそ、失敗は出来ない。
手探りで右腿のベルトケースを開けて、真新しい武器の柄の感触を指で辿った。
「ァ、――?」
緊張とは裏腹に、巨体は夏生が潜む部屋の前を呆気なく通過して、一目散に囮――通信機の元へ走った。
――掛かった! 蒸し暑い初夏の夜だというのに、ナイフの柄を固く握り締める指先はいつの間にか冷え切っていた。生ぬるい空気をスルリと切り裂くようにドアの隙間を抜けて、仄かな月明かりが照らす廊下へと躍り出る。
ぼんやりと月光を浴びる『異形』の背中は筋張っていて、赤黒い肌に浮き立つ背骨と痩せた肉が不思議な陰影を形作る。
深呼吸と共にナイフを引き抜いて、無防備な後ろ姿目掛けて駆ける足取りは軽やかだった。腹の内は熱く煮え立つようだが、頭の芯はしんと冷え切っている。異形の急所は頭、それから心臓――後者を抉り取るのは位置的にも困難だが、前者を一撃で落とすことが出来ればそれ以上のことは無い。
一歩、二歩と間合いを詰めて、広い背中を駆け上がる。
「! ァア――!?」
背を踏み締める硬い靴底の衝撃に気が付いたのか、足の下の異形は何処か間の抜けた鳴き声を上げる。驚きでぐらりと揺れる巨体相手にバランスを崩しそうになる両脚を何とか踏ん張って、今にも此方を振り向かんとする頭部へと刃を振り翳した。
何としても此処で此奴を仕留めて、街を、あいつを、せめて今夜だけは無事に日の光の下へ返すのだ!
「……!」
――初撃で殺す! 強い意志を込めて放った一撃は、確かに異形の硬質な表皮を貫いて内側の肉まで深く突き刺さった。
「ァ……、――」
筈、だったのだけれど。
獲った、と感じられたのは、完全に此方の存在に気付いた異形の血走った瞳と目が合うまでのほんの数秒だった。身体ごと射抜くような鋭い視線に思考が停止した一瞬、足元の獣から放たれる地響きのような咆哮がぐらりと脳髄を揺らす。
「ガァァアア――!」
「……ッ!」
まだ息がある! 外した、という焦りで急いた思考回路が、冷静に思案する暇も無く反射的にナイフを引き抜いた。
そのまま二度、三度と我武者羅に刃を突き立てると、傷口からブチュリと音を立てて溢れ出した体液の熱が薄い黒手袋を隔てて指先に絡まる。開いた側から閉じていこうとする傷口に左手の指を差し込んで、切れ目から内側の組織を開いて引き裂くようにして力を込めた。数秒間はパックリと割れて見える程に深く切り裂かれた皮膚は、しかし流した血液以外は直ぐに元の形に修復される。巻き戻しのように元の位置に戻ろうとする肉が収縮して、更に深く傷口を抉ろうと挿し込んだ指先を柔らかく弾いた。
「……ッ」
赤く熱い液体が動揺で冷えた頬に跳ね返る。粘つく血液が首を伝って服の下に流れるのも構わず、夏生は夢中で異形の背中を刺し抉った。
後頭部を集中して狙わなければと刃を振りかぶる度、初撃を誤った焦燥感からか照準がずれていく。これでは駄目だ。もっと深く、速く――殺さなければと思考する頭は相変わらず冷え切っているけれど、ナイフを握る指の力は度重なる負荷で少しずつ消耗していく。
「ガアア――!」
鼓膜を破るような咆哮が廊下に響く。不意に身体が宙に浮くような錯覚がして、異形の背にしがみついていた指が赤黒い皮膚から離れた。
振り落とされたと気付いたのは、派手に吹き飛ばされた身体が硬い床に触れる寸前だった。
「っ、……!」
反射的に受け身を取った身体は、どうにか背中から床に着地することを成功させて、そのままゴロゴロと床を転がった。衝撃で取り落としそうになったナイフを慌ててしかと掴み直して立ち上がると、先程異形が下ってきた階段が先程よりも随分と近くに見える。
――囮を利用した奇襲自体は成功したが、一撃でトドメを刺すという目標の達成には至れなかった。やはり春日江のようにはいかない――自分の力不足を改めて実感するが、反省するのは此処を乗り切った後でいい。
「ゥウ――……」
「……!」
鋭い牙を剥きだしにして唸りを上げる巨体と初めて正面から相対し、夏生は柘榴色の瞳を一杯に見開いた。
この前より大きい! 蕪木さんからの情報で聞いてはいたけれど、実際に目の前にするとその体長の巨大さが実感として分かった。此方を激しく威嚇する異形の身体は、左程狭くはないはずの廊下を幅一杯に陣取ってしまっている。
これでは相手の横を擦り抜けて走るのは難しい。肌を刺す殺気と共に噛み付いてきた異形の頭部を間一髪で避けると、勢い余った巨体に衝突された窓ガラスが、カシャンと派手な音を立てて呆気なく割れた。
続けざまに襲い来る鋭い鉤爪が左肩から胸を掠って、線のように走った傷口からドボリと血液が溢れたのが分かる。深く抉られた身体はしかし直ぐに再生を始め、塞がり出す傷口に乾いた上着の生地が擦れた。
此方も筋張った前脚を切り裂いて機動力を削ごうと試みたが、ナイフを握った右手を振り翳す度に異形の巨大な口がガバリと開いて此方を狙う。不気味に噛み合った牙が揃う口に迫られては、その都度利き手を庇うように後退せざるを得ない。
如何に強化人間の身体であっても、あれに噛みつかれてしまえば恐らく片腕が胴から離れる――良くても骨を砕かれて、暫しの間右手が使用不能になるのは必至だった。
とはいえ、このままではジリ貧だ。天井の低い室内では助走を付けて跳んで正面から頭を狙うのは難しいかもしれないが、多少の損傷を覚悟すれば前脚の間に滑り込んで胸部を狙うことは出来るかもしれない。その前に身体ごと噛み砕かれる可能性が無いわけではないけれど、このまま徒に体力を奪われているよりはまだ勝機が――
夏生が思考を巡らせたとき、不意に異形が動きを止めた。
「――ゥ、ゥウ」
何かを訝しむように唸り声を上げた巨体は、突然窮屈そうに身体を回転させ、進行方向を転換した。
「……?」
ここまで此方を追い詰めたというのに、突然何のつもりだ? 意図の読めない行動に夏生が固まっている間に、巨体は戸惑う人間のことなど目に入っていないかのように前方へと歩き出していた。
――此奴の考えていることは分からないが、このまま逃すわけにはいかない。
「……待て、……っ!」
此方を見ない異形の背に追い縋るように飛び掛かる。抑えきれない殺意を込めて強く床を蹴って、無防備な後ろ姿に至近距離まで迫った。
そのまま赤黒い皮膚を刺し貫こうとナイフを振り上げた瞬間、先程まで此方を気にも留めていなかった異形が「ァア」と鬱陶しそうな唸り声を上げる。
気が付くと、赤黒い後ろ脚がすぐ目前まで迫っていた。
「っ――!?」
――蹴り飛ばされる。本能的に下った直感は、しかし先程からの劣勢で疲弊した肉体(からだ)が充分な回避行動を起こすには少し遅すぎた。
「っう、……」
下腹部に叩き込まれた一撃に、目の前の景色が一瞬静止する。肉を抉るような強さで自分の身体に食い込んだ異形の脚を目の当たりにして、夏生はただ『熱い』と思った。衝撃を受け止めきれなかった身体は簡単に空中に浮いて、数秒前まで強く床を踏み締めていた筈の靴底は呆気なく引き剥がされる。
視界がぐるぐると回転する。弾き飛んだ全身は受け身を取るよりも早く壁に叩き付けられて、ガツン、と頭の中で硬い音が鳴った。後頭部に加わった衝撃と共に、瞼を閉じてもいないのに目の前が真っ暗になる。
べしゃりと音を立てて落下した青年の身体は、そのまま力無く階段を転がって下へと落ちていった。
外から差し込んでくる月の光で、教室の中はほんのりと明るかった。全くの暗闇ではないはずなのに、ガラス窓の向こうの景色は何処かぼやけていて映らない。
――曇っているのだろうか。そう思い立って一度は外した眼鏡のレンズを袖でごしごしと擦ってみたが、何の効果も変化も感じられない。腕が重たくなるだけの徒労に終わった。
鎧戸くんに言われるがままに校舎に戻った僕は、渡り廊下がある二階からひとつ階段を上った所の教室で彼を待つことにした。
見慣れたスライド式の扉を開けると、ふらつく足を引きずって一番後ろの席に座る。後方から見る人影のない教室の風景は、違うとは分かっていても数か月前まで自分が居た空間を思い出させた。
――高等学校。悪い記憶があるわけではないけれど、特に名残惜しい程の思い出があるわけでもなかった。
色々な人がいた、と思う。より良い企業や政府機関への就職を目指して勉強に打ち込む人も、将来などまだ遠いものだからと緩やかに過ごす人も、閉鎖的な街の空気に嫌気が差して非行に走る人間も。自分のように途中で退学する生徒も珍しくはなかった。暴力沙汰も多少はあったけれど、自分は虐げられたことも虐げる側に回ったこともない。誰にでも愛想良く笑って、誰の悪口を言うこともなく過ごしていれば、大抵の面倒事には深く巻き込まれずに済んだ。
隣の席に座っていたクラスメイト達の名前は思い出せるけれど、記憶の中で笑う彼らの顔はモザイクが掛かったようにあやふやで覚束ない。きっと、彼らにとっての僕もその程度に違いなかった。
会いたい、と思う人すらいないのに。通り過ぎて戻ることのない場所のことを妙に意識してしまうのは、自分が今まさに最後の居場所をも失おうとしているからだろうか。
「……」
先程の渡り廊下。僕には何の音も聞こえなかったけれど、鎧戸くんの――『強化人間』の耳には、何か敵の居所の手がかりになるものが拾えたのだろう。
今頃はあちらの校舎で異形と戦っているんだろうか。未だ目にしたことはないけれど、頭の中ではありありと想像できる彼の勇姿を思うと、――無能な自分にとって、頼れる同行者の存在は喜ぶべきことのはずなのに――どうしてか、心臓の辺りがズキズキと痛んで仕方なかった。
初任務の時にも、柊くんを追って飛び出していく彼の背中を見送った。あの時の自分はただ呆然と取り残されただけだったが、――今回はもっと酷い。戦えるようにならなければ役立たずでしかないと分かっているのに、まだ声すら耳にしていない異形の存在に怯えた。そんな自分の弱さは、きっと側にいた彼にも伝わっていた。
気を遣われたのだと、分かっている。今の自分が何をしても、彼にとっては足手纏いにしかならないことも。
置いて行かれたくないだなんて、口に出せるはずもない。
埃を被った机の上に肘を付いて、ぼんやりと、ただ誰の益にもならない時間をやり過ごす。人気の無い校舎を支配する夜は相変わらず暗くて、求めていない時にだけやって来る眠気が瞼をじんわりと重くした。
『――ッザ―――――ッ――』
柔い静寂を突如打ち破った音に、思わず転がるように椅子から立ち上がる。
「……っ!」
――この音は何だ? 黒板か何かを引っ掻いたようにも、通信機を使う時に発生するノイズのようにも聞こえる。
鼓膜をザリザリと擦るような音への不快感と得体の知れない恐怖で、机の縁に掴まった右手がカタカタと震えた。
情けない怯えを叱咤するように、頼りなくぶら下げていた左手で右の手首を強く押さえつける。捻り潰すような勢いで握り込んだ手に血管を圧されて、血が通わない指先の感覚は益々遠くなった。
こうしている間にも、謎の音は途切れ途切れに聞こえ続けている。
落ち着いて考えろ。忙しなく脈を打つ心臓に言い聞かせるように深呼吸して、尚も落ち着いてくれない頭で必死に思考を巡らせる。
これは多分、中央校舎の方から聞こえてきている。何の音かは判別がつかないけれど、――『普通の人間』である僕の耳にすら届いたのだから、当然あちらの校舎の何処かに潜む異形にも勘付かれているだろう。直ぐに発生源を見つけて寄ってきてしまうに違いない。
もし、この音が本当に通信機から発生するノイズだとしたら、それがどうしてこんなにも大音量で鳴り響いているのだろう?
「……」
そういえば鎧戸くんは――通信機の使い方を知っていたか?
ぐるぐると巡る考えが最悪の想像に至った瞬間、パリン、何処かでガラスが割れるような音が響いた。
巣穴に隠れるように閉め切っていた教室のドアをそっと開けて、薄暗い廊下に一歩を踏み出す。不気味な静寂を保つ廊下を抜き足差し足で歩きながら、阪田は恐る恐るガラス窓の向こうの中央校舎を覗いた。
「……」
この位置からでは教室内の様子しか窺えないかもしれないとは思っていたが、実際にやってみると想像よりも更に酷かった。其処に校舎がある、ということだけは辛うじて判別できるが、茶色にくすんだ外壁に取り付けられた窓枠の内は、いくら目を凝らしても靄が掛かったようにぼやけて何も見ることができない。
――ここ数日、『強化』どころか、益々視力が下がっているような気さえする。
こんな身体で何をする気だ。自分自身への不信は加速していくばかりだが、教室の中に蹲っていつドアが蹴破られるか心臓が潰れるような思いをするよりは、まだ自分で音の顛末を確かめに行く選択をする方がマシだった。
鎧戸くんが無事ならばそれでいいし、もし彼の身に何かあったなら、僕は――僕は、どうしたらいいんだろう。
『もし俺が負けたりしたら、その時は一人でも逃げてくれ』
「……」
きっと、彼は本気で言っていたのだろう。真っ直ぐな視線と共に放たれた言葉を思い出してぞくりと心が冷えたのは、何の含みもなくそんな言葉を選んだ彼に対してだろうか。――それとも、事によればその選択肢を選びかねない自分に対して?
「……っ、……」
――考えごとをしながら歩いていたのが悪かった。ゴチン、と廊下の突き当たりの壁に額を打って、阪田は脱力感で思わずへなへなと床に座り込んだ。
どちらにしても、事の真相を知らなければ決められない。鎧戸くんの安否か、異形の居所。そのどちらかを確認することが出来たら、すぐに安全な場所まで退避してから次の行動を考えよう。
身の程を弁えて、他人に迷惑を掛けない振舞いをしなければならない。一段、二段。ゆっくりと踏み締めるように階段を下りながら、無力な自分を納得させるための言い訳を心の中で呟く。
三階へと続く階段を降り切って、先程歩いてきたばかりの廊下の方を恐る恐る覗き込んだ。
誰も居ない。少しだけ安堵したような、却って不安を煽られるような。相反する感覚を抱えて心なしか先程より暗さが増した廊下の先へと歩く。レンズを通した視界の端はやはり何故かぼやけて見えて、足を進めるごとに重たい暗闇が溶け出して絡みついてくるような倦怠感が身体を覆った。
爪先から踵を床から離して、脚を一歩前に動かす。自分の脚で立って、歩く。それだけのことが、こんなにも億劫で格好悪くて心もとない。けれどそうすることでしか、自分は生きていくことができない。
僕という人間は、どうしてこんなにも無様なものになってしまったのだろう。
いつから、どうして、何のせいで――
これは、非常時に取り留めもない思考に浸った罰だったのだろうか。
端から一つ目の教室の前扉の横を通り過ぎようとした瞬間、
「……!」
何の前触れもなく、『異形』は姿を現した。
「――ァ――?」
「あ、……」
赤黒い肌。筋張った体躯。
渡り廊下からにゅっと顔を出した巨大な化物は、ギョロリと半分飛び出した目玉を動かすと、直ぐに此方の存在に気付いたようだった。
一対の赤い瞳の焦点が、真っ直ぐに此方を捉えようとしている。
「……っ!」
反射的にすぐ傍の教室に駆け込んで、縦枠ごと破壊しそうな勢いで引き戸を閉めた。
そのまま引き手を押さえているべきかと思ったが、直後に扉の向こうからバンバンと何かが衝突してくる音が響いて、飛び退くように教室の端まで逃げ惑う。後方に設置されたロッカーに背中がぶつかる程まで後退して、これ以上逃げる場所が無いことに酷く動揺した。
「ひっ……」
耳を塞いでも、瞼を固く閉じても、激しく扉を叩く音は消えてくれない。教室の隅でひとり蹲る自分は、何処からどう見ても急所に追い詰められた哀れな獲物そのものだった。
逃げて、逃げて、逃げて、そればかりの人生の最後がこれだなんて、本当に、惨めで愚かで仕方ない。
――こんな扉なんて、直ぐに蹴破られるに決まっている! どうすればいい?
この部屋が駄目なら、後ろの扉を開けて逃げるか? そんなことをしたって、僕の足ではどうせすぐに捕まってしまうに決まっている。
それなら、僕は何をするべきなのか?
――選択肢なんて、問いかけるまでもなく一つしかなかった。
バン、と一際大きな音が鳴って、無人の教室を守っていた扉は呆気なく吹き飛んだ。
ガラス窓をバリンと破壊して下に落ちていくそれを何処か酩酊したような思考で眺めながら、阪田はその実在を確かめるようにベルトケースから抜いた武器の輪郭を握った。
――『変わる』のなら、きっと今しかない。
考えようによっては、これは神様が僕に与えてくれた最後のチャンスなのかもしれない。此処で異形を倒すことができれば、機関は僕を見限らない。そうだ――此奴さえ殺せれば、僕は、もう誰にも脅かされない。誰にも見捨てられない。何からも逃げる必要がない。堂々と生きて、安心して眠れる居場所を、漸く、――漸く勝ち取ることが出来るのだ。
右手に携えたナイフを、ぎゅっと強く握り締める。今はまだ夢物語のようでしかないけれど、機関によって見出された『強化人間』候補である以上、僕にだっていつでもそうなれる可能性だけはあるはずだった。
熱に浮かされたような思考が加速する頭の中で、酷く柔らかい声が響く。
『……俺と、同じなのか』
――僕は君と『同じ』じゃない。だけどずっと――そうなりたかった。
武器を取れ、立ち向かえ、『役立たず』になりたくないなら!
「……!」
今すぐ懐に飛び込んで、このナイフを敵の心臓に突き立てよう。
そう、確かに――思ったのに。
此方をしかと見つめる赤い瞳と目が合った瞬間。
殺される、と。思ってしまった。
「……、あ、ああ」
足が竦む。声が震える。
温度を無くした指が取り落としたナイフは、カランと軽快な音を立てて床を転がった。
「う、あああああ!」
――無理だ。僕には、無理だ!
「ガァアア――!」
低い唸り声を上げて襲い来る化物から後ずさろうとした身体は、カタン、と音を立てて背後の机にぶつかった。
バランスを崩した身体はそのまま仰向けに倒れ込んで、手で庇うことすら出来なかった後頭部はその先にあった机の角に強く衝突する。
目の前で星が砕けるような錯覚が走って、脳が割れる程の痛みは打った箇所から頭部全体へと伝染して広がっていく。頭の外側から内側へと浸食してくる痛みと惨めさに耐え切れず、男は力無く床に倒れ込んだ。
「! っ……っう……」
耳に掛けていた眼鏡は転倒の衝撃で呆気なく何処かに弾き飛ばされたようで、痛みで白んでいた視界は更に不鮮明なものになった。
赤黒い輪郭が、ゆっくりと此方に近付いてくる。冷え切った指先はガタガタと震えて『逃げろ』と警告しているのに、床に伸び切った両脚はピクリとも動いてくれなかった。
もう、何も見えない。何も、見たくない。
「阪田!」
――軽やかに目の前に飛び込んできた背中の主が誰かなど、たとえ目を背けていても嫌という程に分かった。
間一髪の所で自分と異形の間に割り入ってきた黒い影は、すぐ傍にあった椅子を素早く両手で空に掲げると、勢い良く赤黒い影に向けて振り下ろした。巨大な獣から「ァア」と犬のような悲鳴が漏れて、すぐに触れそうな距離まで迫っていた影は教室の中程まで後ずさる。
「悪い……!」
心底申し訳なさそうな声で紡がれた謝罪が何に向けられたものなのか、突然の状況に混乱した男の頭にはまるで理解ができなかった。
助けに入るのが遅れたこと? 別行動したこと? ――何処までも『役立たず』でしかない自分に、無意味な期待を抱かせてしまったこと?
彼の声が、息遣いが、近くに居るはずなのに途方も無く遠くに聞こえる。
カチカチと金属が擦れるような音。低く激しい唸り声。霧が掛かったように白んでぼやけた視界の中で、一人と一体の姿が重なっては離れる。目の前で行われているはずの光景は、ピントの合わない瞳にはまるで本に嵌め込まれた絵のように遠く、手の届かないものに見えた。
二つの影を呆然と見つめる自分は、其処にはいない、いる必要もない。
「……」
――そうだ、眼鏡。
あれがないと駄目だ。そう何度も買い替えられないぐらいには高いのだと、父さんも母さんも言っていた。失くしてしまったら、きっと二人は酷く僕のことを叱るだろう。あれがないと僕は授業の板書を写すこともできないし、境界外の地図を眺めて暗記することもできない。あれがないと僕は文字が書けないし、あれがないと。
何処に落としてきたんだろう。ゆっくりと身体を起こして、ふらふらと窓の傍へ近寄った。机の上を見ても、床を見ても、目当てのものは一向に見つからない。 どうしてだろう。一瞬首を傾げて、見えていないからだ、と、案外簡単に答えに辿り着いた。
「! っ……阪田!」
不意に、名前を呼ばれた気がして顔を上げる。
異形に弾き飛ばされたのだろうか。此方を目掛けて飛んでくる机の茶色い影が、すっかりおかしくなってしまった僕の目にはまるでスローモーションのように見えた。死ぬ直前には思考速度が普段より速まるから見えるのが走馬灯だと、昔本で読んだっけ。
次いで、何かが折れるような音。それが自分の身体の内側から聞こえているのだと、理解するのにそれほどの時間は掛からなかった。
あ、と思う間もなく爪先が浮いて、宙を舞った身体はいとも簡単に窓の外へと吹き飛ばされる。
空中に投げ出されたままの姿勢で見上げた空は、先程までは浮かんでいたはずの月の形も見えない程に暗かった。
まだ夜なんだ。
「阪、」
呆気に取られたような彼の声を背景に、僕の身体は地面へと墜落した。
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