2:Brave new world(2-2)

「……特務、機関?」

「便宜上、そう呼ばれているだけの話だがね」

 これまで一度も耳にしたことのない単語だった。


 けれど、中心部では当たり前のように名前が知られている組織なのかもしれない。境界付近に越してからは国営放送を見ることも殆ど無いため、世俗の常識に疎くなってしまっていることは自覚していた。

 そう考えた夏生は、口を挟まずに男の説明を待つことにした。


「聞いたことがなくて当然だ。この組織に正式な名称はないし、そもそも表向きには存在自体がないことになっている」

「……何で」

「表沙汰にしたくないことをしているから」


 不信感を隠しきれない声色の問いに対しても、男はそう平然と言い放った。

「……」

 なんというか、普通は――それがあくまで、自分がこれまで生きてきた狭い世界の中での基準だと承知してはいるけれども――こうして『表沙汰にしたくない』と言い切るからには、何かしら後ろめたい部分のある事柄なのではないだろうか。けれど男の言葉には、そういった重々しさが全く感じられなかった。

 先程討伐隊の話をしていた時にはもう少し真剣で重苦しい、というよりわざとらしい程に大げさな口調で喋っていた気がするのだが。組織の話に入ってからは今日の夕飯のことを話すのと同じような気軽さだ。

 夏生はますます男との距離感を測りかねながらも、黙って彼の次の言葉を待った。

「まあ、有り体に言えば『人間強化』ってヤツさ。キミに施したことを他の人間にもやっている」

「……あの注射のことか」

 身体がおかしくなったのはあれで何かを打たれて以来だ。問いかけに男が静かに頷く。


「何が変わったか、少し試してみるかい」

 事も無げに言うと、男はカチャカチャと音を立てながら白衣のポケットを右手で探った。中に入れている物が多いらしく一瞬手間取っていたが、すぐに目当ての品を探し当てたようで「ああ、コレでいいや」と声を上げる。

 何を探しているのだろうと夏生が訝しんでいると、男はポケットから何か小さな物体を取り出した。きらりと鈍く光るそれを、見せつけるように夏生の目の前に掲げる。

「……?」

 それは何の変哲もない五百円玉だった。

 銅と……あとの材料については詳しく知らない、ともかく何かの金属を混ぜ合わせて出来た硬貨。普段自分がこなす日雇い仕事の賃金を時給に換算すると、大体この程度の額になることが多かった。

「……これを?」

「曲げてみて。半分に」

 無造作に手渡されたそれを裏表に返してよく検分する。

 少し年季が入ってはいるものの、硬貨は大した汚れもなく銀色に輝いていた。外周には『NIPPON 500』の文字が繰り返し刻まれている。やはり何の仕掛けもないただの五百円玉だ。

 ……勿体ないという個人的な感情は脇に置いておくとしても、これを人の手で折り曲げるなんてことは、

「無理だろ」

「出来る」

「……いや、」

「出来る」

 否定の言葉は一も二もなく遮られる。

 それでも「無理だろう」ともう一度口にしかけた所で、眼鏡のレンズで覆われた男の金色の瞳が、思いの外真剣な色を帯びていることに気付いた。


「出来るんだ、今のキミには」


 不出来な子供に言い聞かせるように繰り返される言葉を、まるで催眠術のようだと思った。


 そうでなければ詐欺の類だ。確かにそう思った、思ったけれど――同時に、男が言うならば本当に『出来る』ような気がした。 

 出所のわからない確信、根拠のない自信。五百円硬貨を折り曲げるという目前の課題に対してのみ及ぶものではなかった。彼が言う今の自分にならば、これまでそうしたいと願いながらも、力が、知識が、時間が、機会が足りず、不可能であったことの全てが――もしかしたら『出来る』のではないかと。

 この男にそう思わせるだけの何かがあるのか、それとも自分にそう思い込むだけの何かがあるのか、そこまではわからないけれど。今はこの直感に従って行動してもいいと思った。


 だって、この硬貨が曲がろうが曲がるまいが、それによって傷付くものなど何もないのだから。


 親指と人差し指にほんの少し力を込めると、硬貨はあっけなくぐにゃりと半分に折れ曲がった。


「ホラ、出来ただろ」

 男はにんまりと笑って、古びたパイプ椅子に踏ん反り返った。

「……出来たな」

 満足げに見下ろしてくる男の表情を見て、夏生は何となく幼い子供にでも戻ったかのような気分になった。二本の指に挟まれた五百円玉……五百円玉であったものは、丁度真ん中の所で折れ曲がって、ただの半月状の金属の塊になっている。


「このように、硬貨ぐらいなら指先一つで押し潰せるぐらいの力が得られたわけだ。もしキミが今ボクを全力で殴ったら、ボクは吹っ飛んだ勢いでそのまま壁にめり込むことだろう」

「殴……、別に俺は殴らない」

「たとえ話だよ。実際やったら殺す」


 男はそう言うと手の甲を此方側に向け、中指だけを上に立てる手振りをした。動作の意味自体はよく分からなかったが、言葉と雰囲気から何と無しに馬鹿にされていることだけは伝わってくる。

「それと、もう一つ」

 何処となく失礼な指の形を崩して、男は再び白衣のポケットの中に突っ込んだ。今度はすぐに目的の物を探し当てることができたようで、すぐに取り出した透明なケースから銀色の細長い棒状の何かを抜き出す。

 よく目を凝らすと、男の手に握られた物は医療用のメスであることが分かった。

「動かないで。そのまま」

 そう囁いてくるりと手首を翻した男は、ごく自然な動作でそれを夏生の腕に向けて振り下ろした。


 薄い刃は、地下室の緩んだ空気を割くようにゆっくりと――いや、そう『この目で見える』だけで、実際にはきっと一秒にも満たないほどの速さで――進んで、無防備にベッドの上へと投げ出していた右腕に到達した。刃を握る男の右手がすっと平行に引かれて、皮膚に弱い力で撫でられるような感覚が走る。

 直線状に切られた肌がぱっくりと割れて、その下から鮮やかな赤色が覗く。赤くまっすぐな線から血液がぷつりと浮くように湧き出て、ただ痛いというよりは痒いような感覚が走った。


 しかしその感覚は長くは続かなかった。痛痒さと熱はすぐに失われて、開かれた傷はまるでビデオを巻き戻すかのように修復されていく。皮膚を走る赤い直線は見る見る内に細くなり、数秒後には完全に消え去った。

 後に残ったのはほんの少しだけ傷口から溢れ、腕を流れた血の跡だけだ。けれどそれも、指で拭えばすぐに分からなくなってしまうほど僅かなものだった。


「こんな風に、切られても傷口は勝手に塞がる。完全に切断された手足をくっ付けるのには多少手間が掛かるし、昨日のキミみたいに一気に大量出血されると危ないけど。多少の大ケガなら死ぬことはない」

 汚れたメスを白衣の袖で拭い、ケースにしまいこみながら男は滔々と語った。


 その説明は分かった。この度を越えた自己再生力を得たがために、俺は昨晩の傷で死ぬこともなく今この部屋にいるのだろう。……けれども別に、

「……わざわざ今試す必要は」

「ないよ?」

 男は悪びれる様子もなく、いけしゃあしゃあと言い放った。

「半日寝こけてたせいで記憶が混濁しているかもしれないし、もう一度実践してあげた方が親切かと思って」

 『親切』。人の腕をメスで突然切りつけることが。夏生は真剣に男の使っている日本語が自分の知っているそれとは異なる可能性を考え出しそうになってしまった。

「それに、避けようと思えば避けられただろ?」

 男は此方を見下すような表情で金色の目を細めた。


「キミの目にはメスが肌に届くまでの軌道が明瞭に――コマ送りのビデオみたいにはっきりと見えていたはずだ。それでもキミは避けなかった。傷を受けようが、それがすぐに塞がることを見越していたからだろう。まあ、単に唐突に他人の手でリストカットされてからの失血死をキメても構わないド変態だったっていう可能性もままあるけど。どちらにせよ、ボクはキミに大した恐怖も怪我も負わせてない。その上シーツも汚してない。だから罪悪感を覚える必要もない。というわけで謝る気は全くない。ので、キミもさっさと流したまえ」

「……」


 良い様に丸め込まれている気がする。しかし、男の推測自体は特に間違っていなかった。


「動かないで」と指示されて咄嗟に従ってしまった所が全く無いとは言わないが、それにしても、刃を振り下ろす動作が始まってから回避することは可能だった。夏生の目には刃がゆっくりと降りてくる様子が確かに見えていたし、たとえそれが皮膚に触れる寸前にでも避けようと思い立てば避けられただろう。

 そうしなかったのはきっと、これから出来る傷がすぐに治るものと分かっていたからだ。そうでなければ、男の言うようにただの変態でしかない。


「とまあ、特務機関では人体にこのような改良……じゃない、強化を施しているわけだよ」

 不必要な実験を終えて、男は伸ばした長い足をぶらぶらと揺らしながら説明を続けた。


「キミのような元・人間君達のことを、ボクらは『強化人間』と呼んでいる」


 ――強化人間。本当にそのままの命名だが、先程からあからさまに『元・人間』、つまり今は人間ではないと揶揄しているわりに名称はそれなのかと思わなくもない。この男が名付けたとは限らないけれども。

「何の為に強化人間こんなものを作ってるのか? もちろん五百円硬貨を曲げるためじゃないし、かすり傷でシーツを汚さないためでもない」

「まわりくどい」

 先程から散々振り回されているのだから、これぐらいの文句は言ってもいいだろう。夏生がびしゃりと不満の声を投げつけると、男は不快そうに顔を歪めた。自分は人の話を遮り続けているくせに、人からが同じことをされると気に障るらしい。

「ボクらの目的は、異形を殺すこと。正確に言えば、異形を殺すために強化人間(キミ達)を量産できるようにすること……それに向けた研究をすることだ」

 仕切り直すように喋り出した男の言葉に、夏生は一つだけ引っ掛かりを覚えた。

「研究って……あれを打てばいいだけじゃないのか」

「そうだったら良かったんだけど」

 量産、つまり多くの人間を強化人間にするだけならば、自分に打ったような薬剤を皆に使えば良いだけではないか。そう疑問に思って問いかけたのだが、男は吐き捨てるようにその考えを否定した。

「アレはまだ研究段階でね。普通に投与してもうまく人体に適合しないことが多いんだ。人格如何じゃなく、単なる身体的な適性の問題だ」

 適合しない。つまり多くの人間はあの薬を打たれても自分のように妙な怪力を手に入れたり、傷が突然治ったりはしないということなのだろう。


 強化人間の適性に個人の人格は関係ないと断言されたことに、何処かで少し安心している自分がいた。簡単には死なない身体を得る機会に、性格を鑑みて選ばれたのだとしたらそちらの方が納得できない。

 そんなチャンスは、自分ではない――もっと違う、例えば昨晩庇った男のような人間に渡るべきだったと思う。


「与えられたものは同じでも、その効果を活かせる者と活かせない者がいる。キミはたまたま前者だったってことさ」

「つまり……本当に偶然、体質が合ってたからこうなったってことか?」

「その通り。血液業者にあちこちを回らせているのはキミのような、いわゆる適合者を探すためでもあるんだ」

「……そうすると、昨日の業者の妙な態度は」

 数日前の血液の代金を引き取りに来た所で、係員に執拗に引きとめられたことを思い出す。つまり彼らが言っていた『迎え』というのは、この男達――特務機関とか言う組織のことだったわけだ。

「此方から彼らに指示していたからね。次にキミを見つけたらその場に留めておくようにと。なのにキミと来たら、勝手に逃げるわ死にかけるわで」

「……」

 責められて気まずくなった夏生が黙り込むと、男は大げさに掌を上に向ける手振りをして首を横に振った。

「全く、手のかかる」

 そう言われても、知らなかったものは仕方ないだろう。そもそもこんな突飛な話、仮にあの場で詳しく説明されていたとしても受け入れられるか怪しい。今は実際に身をもって体験し、自分の目で見たから信じられているだけの話だ。

「ボクらは正しく適合したキミ達の身体を調べながら、日々量産化に向けた研究をする。それからキミ達が実際に奴らを殺して、組織はその有用性を上に報告する」

 殺すという言葉を聞いて、昨晩会った金髪の男の姿を思い出した。あの青年は間違いなく正しく適合した側……強化人間の一人なのだろう。自分の背丈よりも大きい異形を一人で、それも一瞬の間に殺した。

 自分もあの男のようになるのか、なろうと思うのかはまだわからない。


「それが特務機関ボクらの役目で、たった今からはキミの役目だ」


 けれども、ここで首を縦に振れば――五百円硬貨が半分に折れ曲がったように、シーツに血が滴る前に傷口が塞がったように。これまでには出来なかったことが、きっと。

 ずっと自分が望んでいた何かが『出来る』ような気がした。


「――わかった」

 だから頷いた。自分で考えて、踏み出すことに決めたのだ。


「断らないんだ?」

「断れるのか」

「無理だね」

「……なら、仕方ないだろう」


 たとえ拒否権が与えられていたとしても、俺はきっと断らなかった。

 男もそれを分かっているのだろう。形ばかりの拒絶を表す夏生のことを見て、口元を歪めて笑っている。


「そうと決まれば話は早い。案内の者を呼んであるんだが……三時十五分か」

 男は腕時計の針と背後の扉とを交互に眺め、「この分だと遅刻のようだね」と不満げに零した。しかしすぐに気分を切り替えたようで、くるりと夏生の方に向き直ると愉しげに告げた。

「まだ少し時間があるみたいだから、一つぐらいなら何かキミの質問に答えてあげてもいいよ。くだらない質問にはモクヒケンを行使するけどね!」

 いっそ清々しいほどに自分勝手な物言いだったが、いい加減怒りも戸惑いも湧かなくなってきた。出会ってから大して時間は経っていないはずなのに、慣れと言うものは恐ろしいと実感する。


 それにしても、質問か。疑問なら山のようにあるが、一つに絞れと言われると難しい。くだらない問いは却下すると宣言されていると尚更だ。かといってあまり長時間悩んでいると、あっけなく時間切れを言い渡されそうな予感がする。

 少しの間ぐるぐると考えていると、ふと素朴な疑問が頭に降ってきた。

「……そういえば」

 そうだ。これぐらいなら聞いてもいいだろう。


「あんたの名前は?」


 そう夏生が尋ねると、男は少しだけ面食らったような顔をした。

「……何かと思えば、そんなことか。くだらないなあ、名前なんてただの識別記号だよ。個体と個体を区別するためだけにあるモノだ」

 つらつらと紡がれた言葉の意味を完全に掴むことはできなかったが、なけなしの質問が却下されそうな雰囲気は察することができた。しかし夏生の後ろ向きな予想に反して、男は意外にも言葉を続ける。

「けど、キミがボクとキミを区別できなくなるのは困るから。一応の記号を教えておこう、名前ではないけれど」

 ――名前でないなら、そもそもの質問に答えてはいないのではないだろうか。そう夏生が反論するよりも早く、男はその識別記号を口に出していた。


「『ドクター』と。そう呼びたまえ」



 丁度その時、ガチャリと正面の扉が開く音がして、薄暗い部屋に一人の男が入ってきた。


「一分遅刻だ」

「来てやっただけでも感謝してほしいぐらいなんですが」


 ――自分が今『不機嫌』であることを、その原因となった相手に思い知らせることに、一体どれほどの力を注ぎこめばこんな声色になるのだろう。思わずそんなことを考えてしまう程には刺のある口調だった。


 戸口に立つ青年は、彼よりもかなり年上であろう男――ドクターの小言にも一切怯む様子を見せず、逆に鋭く睨むような視線を向けている。

 背丈は恐らく夏生よりも少し低い。見覚えのあるフードの付いた服を着ていて、頭の後ろで結った灰色の髪は蛍光灯の真下にいると紫色にも見えた。年齢は夏生とあまり変わらないように見えるが、やたらと神経質そうな雰囲気を纏った青年だった。

 そう思わせる理由はやや痩せ気味の体躯にもあるが、原因の殆どは、普通にしていれば整っているのであろう顔に乗せられた刺々しくも冷ややかな怒りの表情だ。

「雑用は俺達の仕事じゃないでしょう。蕪木さんがいないならもう片方にでも頼めばいいのに」

 一応敬語を使ってはいるが、そうしている意味が全く感じられない。

「一樹君が引き受けると思うかい?」

「……」

 青年はわざとらしく舌打ちをした。直接怒りの対象になっているわけではないが、彼がドクターへと向けるピリピリとした空気が同席する夏生にも痛い程伝わってくる。


 恐怖はないが……とにかく、気まずい。ドクターと二人で居た時も快適だったわけでは決してないが、今はその比ではなかった。彼を此処に呼び出したのはドクターだが、呼び出された原因を作ったのは恐らく自分であるということも居心地の悪さに拍車を掛けている。

「で、何の用ですか」

「分かってることをあえて聞くのはキミの非生産的な所だな」

 当の対象はそんな場の空気を一切意に介することなく、それどころか積極的に火に油を注いでいる。


「見れば分かるだろ? 新人の案内を頼むよ」

「何で俺が……」

「手が空いてる者がいなくてね、それに」


 ドクターは青年の反論を片手を上げて封じ、更に駄目押しするような調子で言い放った。


「彼と『同じ』キミの方が、お互いにやりやすいだろ?」

 ……やっぱりそうか。

 背格好から何となく分かってはいたが、この痩身の青年は、自分と同じ元・人間――『強化人間』なのだ。


「知ってるだろうけど、こっちはヨロイドナツキ君。キミもさっさと自己紹介したら?」

「……」


 ドクターに促された青年は、あからさまに嫌そうな表情を浮かべながらも、初めて夏生の方へと視線を向けて口を開いた。



「柊安住。別によろしくする気はないから覚えなくてもいいけど……今だけ適当についてきて、新人君」

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