2:Brave new world

2:Brave new world(2-1)

 雨が降っている。


 暗い道を、手を引かれながら歩いていた。長く真っ直ぐな道が続いている。これから夜が明けるのか、それとも日が暮れようとしているのか、空は不気味なほど赤黒い色をしていた。

 目の前の男は脇目も振らずに、ただ前へと、前へと、ひたすらに歩を進めていた。何処へ向かおうとしているのかはわからない。何処から歩いてきたのかも。ずっと以前に教わったような気もするのだけれど、あまりに長く歩いてきたものだから忘れてしまった。

 それでも歩みを止めることをしないのは、ひとえに自分の手を掴んで離さない者の存在があるからだ。自分はただ手を引かれるがままに足を動かしているだけで、その行為にはきっと何の意志も宿ってはいない。

 不意に、男が足を止めた。


「夏生」


 低く通る声で名前を呼ばれる。それと同時に自分の手を固く握っていた太い指から力が抜けていって、此方から掴み返す間もなく、大きな掌は静かに離れていった。

 男は尚も振り返らず、自分も彼の隣に並ぼうという気にはならない。

「おまえは――」

 これに続く言葉を知っている。知っているというよりは覚えているのだ。現在地も目的地もわからなくなってしまった今でも、次に言われるであろう台詞だけは一字一句違えずに。

 だから――もう一度聞く必要はないと思った。


「分かってる」


 そう答えた瞬間に、目に映る全てのものが停止した。


 目の前の男の息遣い、生温い風、空を流れる雲。その全てがまるで一枚の画になったかのように静止している。思わず手を伸ばして触れようとすると、こつりと指先が当たった部分から小さなヒビが入った。それは一瞬で全体へと広がっていき、一枚の平面に固められた景色はがらがらと崩れ去っていく。


 誰もいない白い空間に取り残されて、夏生は漸くこれが夢であることに気付いた。



2:Brave new world



 閉じた瞼の向こう側に柔らかい光を感じて、徐々に意識は覚醒していった。


 ゆっくりと瞼を開けて、未だ気怠さの残る上半身を起こす。

 いつもより回転の遅い寝起きの脳でどうにか認識できたことは、自分が今横たわっているこの場所が、まるで見覚えのない部屋のベッドの上であるということだった。

「……」

 動きづらさに疑問を覚えて自分の身体を見下ろすと、両方の腕に何本もの管が繋がれていた。それらはベッドの傍に置かれた点滴と、壁際に設置された用途のわからない機械へと繋がれている。

 夏生が寝かされていたベッドは、真っ白いシーツと薄く軽い掛布団を添えた簡素な代物だった。丁度病院か何かで使用されるような、何処にでもありそうな品である。


 普通でないのは、それが設置されたこの部屋――それ自体の方だ。


 がらんと広く、どこか寒々しい印象を感じる部屋だった。壁も床も全て打ち放しコンクリートで、ベッドとその脇に置かれた点滴、用途の分からない機械、それと古びたパイプ椅子の他に家具は見当たらない。その二つも壁際に沿うように部屋の隅に設置されているため、目測でも十畳以上はあると思われる空間の殆どは無為に放置されていた。

 面積自体は夏生の自宅よりも余程広いはずなのに、そこに居るだけで息苦しさを覚えるような窮屈さがある。

 それもそのはずで、この部屋には何故か『窓』が一つも存在しないのだった。

 抜け穴の無い壁に四方を囲まれた灰色の空間。出入り口は夏生が居るベッドとは反対側の壁に設置された扉一つのようだが、それも見た限りでは堅く閉じられている。実際に鍵が掛けられているのかどうかまではわからない。


 ――しかし、そこまで歩いて行って確かめる必要は無さそうだ。今自分が置かれている状況に対して抱いている疑問、その全てに答えてくれるであろう存在は目の前に居る。


「……こ」

「『ココは何処か』って。そう訊きたいんだろう?」


 聞き覚えのある軽やかな声に、記憶に新しい丈の長い白衣。初めて会話した時と変わらず、揶揄するよ

うな調子で放たれた台詞はほんの少しだけ発音がずれている。


「ついでに言えば、今は何年何月何日の何時何分で、境界外にブッ倒れたはずの自分は何がどうしてココにいるのか、それから目の前でペラペラと偉そうに喋ってるコイツは一体誰なのか――、そういうことが知りたいって顔をしている」

 あの雨の中で出会い――夏生の身体を『生き返らせた』男は、長い足を持て余すように組んでパイプ椅子に腰掛けていた。


 声を聞いた途端に押し寄せてくる疲労感でろくな返事をすることもできず、夏生は思わず溜め息を吐いた。相も変わらず、人を小馬鹿にしたような態度を取る男だ。一度しか会っていないのにそう偏った印象を持つのはどうなのかと自分でも思ってはいるのだけれど、どうにも止められそうにない。

「今日は二〇二三年六月二九日、現在時刻は午後三時三分と一五秒。ココは境界内の研究施設みたいなモノだ。この部屋に窓が無いのは、単にこの部屋が地下にあるからだよ」

 回答を矢継ぎ早に並べ立てて、体温を感じさせない白皙の顔がにたりと笑う。

 以前会った時は周囲が暗く、まじまじと見つめる余裕も無かったために気付かなかったが、男の髪は肩に少し掛かる程度に長く、薄緑に近い珍しい色をしていた。顔の造りの方も少し独特で、どこから見てもこの街で生まれた人間と同じようには見えない。

 些細な単語の発音の違いを考えても、こうなる『前』に此方へ渡ってきた移民、もしくはその血を引く子孫なのかもしれないと夏生には思われた。

「キミがどうしてココに居るかについては……そうだな、気絶する前のことはどこまで覚えている?」

 問いかけられて、男の風貌に気を取られていた意識が引き戻された。

「前……」

 一瞬脳裏を過った赤黒い空の色を振り払う。――あれはただの夢だ。


 気絶する直前というと、あの雨の夜に起こった出来事について訊かれているのだろう。

 自分は異形に腹を抉られ、境界外で死にかけていた所をこの男に打たれた何らかの薬品の効果によって蘇らされた。それで遭遇した異形を一体――殺して、その後また違う個体に襲われかけたのだ、そして。

「……あんたに会った後、確か……助けられたんだ、金髪の奴に」

 妙に明るい声をした、金髪に青い目の男。

 彼は最初から俺を救出しようとしたわけではなく、異形を倒した拍子に偶然発見したような口振りだった。それを「助けられた」と表現していいのかは微妙な所だが、結果だけみればそういうことになるだろう。

「そこまで覚えているなら話は早い。キミが無様にも貧血で気を失った後、彼がボクの所にそれを連絡してきたんだよ。そしてココに回収された」

「……つまり、あんたとあいつは仲間……なのか?」

 夏生が問いかけると、男はわざとらしくハハハと乾いた笑いを漏らした。

「仲間ときたか!」

「違うのか」

「いいや、間違ってはいない。マアそうだね、同じ組織に帰属してるって意味じゃあ似たようなモノだ」

 男はそう可笑しそうに話すと、最後に「立場は違うがね」と付け加えた。その態度にも引っ掛かりを覚えはしたが、今はそれよりも組織という単語が気に掛かる。

 男は先程此処を研究施設のような所だと言っていた。その言葉を信じるとすればだが、服装から察するに、彼はそこに所属する研究者か何かなのだろう。昨晩会った金髪の男の方はとてもそういう風には見えなかったが、立場が違うということは――いや、もうグルグルと考え込むのは止そう。今は直接訊いた方が早い。

「……そ」

「そう、それでボク達が何の組織に属しているのかって話だね」

 またもや疑問を口に出す前に先読みされ、夏生は一瞬げんなりとした気分になる。しかし毎回予想する内容自体は間違っていないのだから、いちいち腹を立てているのも億劫だ。そう諦めた夏生は、観念して最後まで男の話に付き合うことにした。

「軍の討伐隊のことは知っているだろう?」

「ああ」

 昨夜は何故か姿が見えなかったが、普段ならば彼らが境界の外で異形を処理しているはずだ。怪我や死の危険が付き纏う職業だが、その代償として住居や食料の心配とは無縁でいられるため、志願者は絶えないようだった。

 所属の条件は健康な十二歳以上の者であることだけで、自分も家族の強い反対に遭わなければ今頃はその一員になっていたかもしれない。

「彼らだけで処理できることもあるが、それでは間に合わないことも多くある。昨晩境界内への侵入を許したように」

「……」

「よくあることなのさ、別に昨日が特別だったわけじゃない。何も起こっていないように見えるのは、キミ達が気付く前になかったことにしているだけだ」


 ――破壊された鉄条網や、首の無い死体の姿が頭を過る。非日常的に見えた昨晩の光景全てが、実際は『よくあること』だったのだろうか。それを単に自分達が目にしていなかった、気付けていなかっただけで。


 夏生の沈黙をどう捉えたのか、男は少し低くなった声色で続ける。

「ボクは別に、彼らの無力を馬鹿にしたいわけじゃない。だって、無理もないことだろう? キミも重々承知しているところだろうけど、」

 男はここではない何処かを見つめるように、ほんの少しだけ目を細めた。

「奴らを殺すには、――ただの人の身体はあまりに脆弱だ」

 ただの人の身体。――傷口はすぐには塞がらず、骨を折られれば動けない。一度壊れたら簡単には治せない、それが当たり前のものだ。


「ならばその身体を、もっと強く、壊れないものに『変えて』しまえばいい。此処はそれを実現するための場所」

「……それは、つまり」

「お気付きの通り」


 こんなもの、気付かざるを得ないだろう。俺は昨晩腹部を抉られ、肩や右胸にかけて切り裂かれ、出血多量で倒れたはずなのだ。だと言うのに、半日経った今ではまるで無傷の状態で此処にいる。

「キミはもう『変わった』、元・人間君だ」

 愉快そうに口元を歪めていた男は、その場で立ち上がると、いかにも恭しく――わざとらしい礼をした。



「『特務機関』へようこそ。ボク達はキミを歓迎しよう」

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