8.狸小路

 狸を追って恵子が飛び込んだのは、頭上に鬱蒼と木々の生い茂る、廃れた小路こみちだった。足下はコンクリート舗装で、緩やかな下り坂だ。小路は急傾斜の土地を縫うように走っているらしく、道の右手には苔むした石垣が、左手には小さな崖下から覗く廃屋らしき古びた屋根や伸び放題になった庭木の藪が、恵子の視界を遮っていた。石垣の上はいくつか建物がありそうだが、原野に還りつつあるのだろう。その更に上は、背の高い木々が密生した山林だ。太い枝が長く伸びて、小路の上まで覆っている。

 天辺を若葉を纏う枝に覆われた小路は昼なお薄暗く、辺りに人の気配は全くしない。

(これ、異界ってやつかな……。お寺の麓に、こんな道はなかったはずだし)

 仁王像たちに引き留められた恵子は、初手から思いきり狸を見失った。しかしそれで恵子が諦めてしまえば、困るのは狸の方である。ひとまず石畳の参道を下っていると、ご丁寧にも横合いの細い路地から尻尾が覗いていた。

 だが勢いよく踏み込んだものの、そのまま突っ走ってしまえば先にあるのは狸の巣穴、今度は恵子がゲームオーバーになってしまう。飛び込んだ途端に見失った、という風を装って――実際にはひとつ向こうの曲がり角に走り込む後ろ姿が見えたのだが――小路に入った恵子はぴたりと足を止めた。

(こういう時は、とにかく相手のペースに合わせないこと。多少強引でもこじつけでも、自分に都合がいい方にルールを曲解して押し通すこと……)

 それは宮澤から習った、本当に「いざという時」のための心得だった。当時の宮澤の説明が印象的だったので、よく覚えている。

『えと、そうですね……子供の頃に、通学路の白線とか横断歩道で、線の上だけ歩くゲームみたいなの、しませんでしたか? そこから落ちると死ぬ、っていう。でもそのゲームを始めた場所で、たまたま途中で線が途切れてたり、消えかかってたりして前に進めなくなった時――「消えかかってるけど白線だからセーフ」とか「もう消えちゃってるけど白線の跡が残ってるからセーフ」とか、自分に都合がいい方向にルールの解釈を変えたりして。あれと同じだと思って下さい。呑んでしまったルールを書き換えるのは難しいです。でも、ことはできる。それだけ覚えておいてください』

 そんな小学生のような発想でいいのか、と驚いた恵子に、宮澤は笑って頷いた。多くの怪異は、精神を介して人間に干渉する。だから駄洒落や語呂合わせ、とんちや屁理屈がまかり通るのだと。そして、最後は恐怖に呑まれない精神力だけがものを言うのだ、とも言われた。

(チラっと背中見えちゃったけど、見失ったから捜してるのよ。私は狸を見失った! !)

 自分の中で、自分に都合のよいルールを宣言していく。できるだけ遠くは視界に入れないようにし、どうにか足下や少し先に「狸を捜せそうな場所」を探す。幸い、苔むした石垣には小さな階段がついており、狸が駆け込んだ曲がり角へ行かずに時間が稼げそうだ。階段を上った先は、草がぼうぼうに生えた廃広場だった。

「わっ、凄い草むら! これはきっと狸が隠れてるに違いないね~」

 多少馬鹿馬鹿しくても、わざとらしく宣言しながらフラフラと草むらに入る。狸のあの様子で、こちらに巣穴はないだろう。

(あったらどうしよう……とか、考えてると駄目なのよね! ない! こっちに巣穴はない!! 私は時間稼ぎをしてるの!!)

 ここかな~? こっちかな~? と呟きながら、元はなにやらイベント会場だった風情の、草まみれの廃墟をうろつく。まだ五月初めにしては随分と丈のある雑草が足に絡まり、クロップドパンツとスニーカーソックスの間の肌を引っ掻いた。雑木に埋もれ、朽ちて傾いた木製の手作り看板が、明後日の方向を指している。褪せて剥げたペンキは読み取りづらい。

「タ……ヌ、キ、美術館……? と、タヌキ、神社……カフェ、かな?」

 緑の細道に、小さな美術館やオープンカフェ、神社。旅行前に尾道を予習した際、そんな名所を目にした気がする。

(あれはでも、タヌキじゃなくて猫だったはず……)

 尾道といえば猫。そう紹介されている名所のひとつで、西國寺ではなく千光寺の山にあったはずだ。

(お寺や神社の周りの森には、力が溜まりやすい……ここもきっと、そういう場所なのね)

 元々存在する「異界」を、狸が拝借して上手く使っているのだろうか。なんにせよ、可能な限りの時間を、この廃墟で潰そうと恵子は決意を新たにする。

(どうするんだっけ、そう、狸を視界に入れないように、狸を見ないようにしながら狸を捜すフリを――)

 考えた、次の瞬間だった。

 視界の隅に小さな影が映る。がさ、と軽く、草を踏み分ける音がした。

(視界に、入れない……)

「のう、ソッチは危なァで?」

 狸の声だった。咄嗟にそっぽを向いた恵子の背中に、真剣な声が掛かる。

「儂に腕ょう一本くれん間に、消えてくれなやくれるなよ

(ここ、何かあるの? 狸よりヤバい奴……? そんな、全然気配は感じないけど……でも)

 ざわり。廃墟の奥の闇が蠢いた気がした。

(どうしよう、逃げる? 真後ろの狸はどうすればいいんだっけ……ええと……)

 冷静になれ。そう、勝手に早鐘を打ち始めた心臓を叱咤する。冷静に、相手のペースに呑まれないように。ルールは自分の都合がいいように。

(そうだ、ルール。最初のルールは……狸から逃げることじゃない! 狸を、私が捕まえること――!)

 胸元で右手を握りしめ、勢いよく恵子は背後を振り返った。

「ご忠告ありがとう! 石もついでに返してくれないっ!?」

 言って両手を振り上げ、襲いかかる素振りをする。途端に狸は飛び上がり、一目散に廃広場から逃げ出して石階段を駆け下りて行った。それに「待って~」と声を上げながら、恵子はノロノロ後を追う。

 背筋がぞわぞわする。この場所への恐怖が、すっかり恵子の中に根を張ってしまった。

(もう、この広場にはあんまり居たくない感じ……でも、小路に出ちゃうともうあんまり時間は稼げない……)

 迷いながらも、結局恵子の足は廃広場の端、小路へ下りる階段まで辿り着いてしまった。果たしてこれまで、何分時間を潰せたのかもよく分からない。

(このままじゃマズい……救けが来る、って言ってくれたけど、誰が来るのかも分からないし……)

 やはり、諦めて引き返すべきか。だが、この場所から抜け出す方法も、恵子では咄嗟に思いつかない。

(失敗した――? ううん、最後は精神力。弱気になったら、負ける)

 気をしっかり持て、比坂恵子。そう己に言い聞かせる。ルールは、恵子自身の都合がよい方に解釈を変えるのだ。

(基本のルールは、私が狸を捕まえたら私の勝ち、私が狸の巣穴に入ったら狸の勝ち。つまり、狸の巣穴に入らず時間稼ぎさえできれば、別に狸を捜してなくても、捕まえなくても平気)

 一歩一歩、小さな石階段を下りながら思考する。戻って来た小路の突き当たりでは、やはり曲がり角に狸の尻尾が見えていた。つまり、あの角までの十数メートルは安全地帯だ。角を曲がった向こうに何があるのかは、手前の建物が邪魔をして分からない。正面はびっしりと蔦に覆われた石垣だ。当然というべきか、狸と恵子以外に動く気配はない。

 よく見ると突き当たりは丁字路で、左手の、狸の尻尾が見えている側は下り坂、右手は分かりづらいが、山の手へ上る急階段がありそうだった。

(何をして時間を稼ごう……一歩ごとに一分数えてみる? それとも……)

「のう、儂が見えとるんじゃろう。なんで来んのんなこないんだ

 業を煮やしたらしい狸が、曲がり角から鼻先を出して言った。

「だって、そこがすぐ貴方の巣穴だったら嫌じゃない」

 開き直って、恵子はそう声を張った。巣穴に入らなければセーフならば、お喋りは許容範囲内のはずだ。

「あなたこそ、どうしてそんなに化けの皮が欲しいの?」

 そうだ、いっそ狸にお喋りをさせて時間を稼ぐのはどうだろう。思いついた恵子は、そう狸に話の水を向けてみた。ここで狸が、身の上話から武勇伝まで滔々と語って時間を稼いでくれたら儲けものだ。

 その目論見は大正解だったようで、狸は曲がり角からすっかり姿を現して語り始めたのである。

「そりゃあ、古狸いうたら化けるモンじゃろう。化けられん狸なんぞ、いくら古うてもタダの狸じゃ。恥ずかしゅうて、古狸じゃいうて名乗らりゃあせん! それをあンにゃろうども……!!」

 以下、いかにして狸がだまし討ちに遭い、化けの皮を奪われたのか、狸を懲らしめた街の若衆がどれだけ残忍で非道な行いを狸にしたか、滔々と狸は語った。しかし、そもそも狸が村人に迷惑をかけるような悪戯を仕掛けなければ、化けの皮を取り上げられることもなかったのではあるまいか。狸を怒らせるのは上策でないと分かっていながらも、思わず恵子はぽろりとその疑問を口にした。

「でも狸さん、どうして人間を困らせるような化け方ばかりしたの?」

 それが、狸の生きる上で必要なことだったとも思えない。

 途端、ぶわりと貧相な毛を逆立て、狸は唸るように言った。

「古狸いうんは、そがなモンじゃけえよの! 化けて、人間騙して馬鹿を見さして、せぇでなけらにゃあそれでなければ、古狸だなんぞ言うて名乗らりゃあせんわ!! 化けられもせん、騙しもできん狸なんぞアンタらぁも馬鹿にするじゃろうが!! 古狸いうんは、化けて騙さにゃいけんだまさなければいけないモンなんよの!」

 いや、別に。というのが、狸の主張を聞いた恵子の感想だった。化けようが化けまいが、人語を狸が喋っているだけで十分に怪奇現象であるし、化けない狸を馬鹿にするという発想もない。さりとて、「そんなことない、化けの皮がなくたって狸さんは素敵よ」などと言うと更に怒らせそうな気配である。代わりに記憶の奥から、教育学部で習った知識を引っ張り出してきた恵子は、狸の苦悩に同意することにした。

「せっかく古狸になっても、化けて見せなきゃ馬鹿にされちゃって、認めて貰えないのね」

「ほうよ! 化けの皮を取り上げられてから、儂ゃ恥ずかしゅうて、情けのうて……」

 惨めで惨めで仕方がないのだと、最後は涙声になった狸に、にわかに同情心が湧く。だからと言って、恵子の腕や足を差し出すわけには行かないが――掛ける言葉を探すうち、ふと思ったことがあった。

「――あなたにとっての『化けの皮』は、私にとっての、その守り石と同じようなものなのかもしれないね」

 ぽつりと言った恵子に、俯いていた狸が顔を上げた。どうやってかは分からないが器用にその首に掛けられた、黒い勾玉のペンダントに恵子は目を凝らす。

「これか?」

 不思議そうに首を傾げ、狸の前足が勾玉に触れた。

「そう。あなたが『ちゃんとした古狸』で居るために化けの皮が必要なように、私は『普通の女』で居るために、その石が必要なの」

 言っていて、苦笑いが漏れる。恵子は所詮、石の力を借りて「普通の女」に化けているだけだ。

「あんたァ、ずうっと化けて暮らしよんかてるのか?」

 そりゃあしんどかろう。と、疑問と同情を含んだ声音で狸が続ける。更には「仲間だ」と認識してくれたのか、狸はトテトテと歩いて恵子の方へ近寄ってきた。その気の良さに、思わず笑いが零れる。そうね、とだけ答えて、恵子は次の言葉を探した。

「その石がないとね、私、みんなと同じで居られないの。同じものを見て、同じことを楽しんで、一緒に生きていくことができないの。あなたが立派な古狸だと認めてもらえないように、私も多分、ちゃんとした普通の女だと思ってもらえない。そうしたら――ひとりぼっちになっちゃう」

 だから、石を返して欲しい。恵子はそう、しゃがみ込んで狸に懇願した。思いのほか人がい(?)らしい狸が、迷う素振りを見せる。

「大好きな人ができたの。ずっと隣に居たいと思える人。その人まで騙し続けるのは止めようって決めたけど、本当のことを受け入れてもらえても、それがないと多分一緒には居られない」

 みんなと違っても構わない。そんなありふれた綺麗事も世の中には存在する。だが、それは恵子には当てはまらないものだ。他人と全く異なる「普通」を受け入れる道を、恵子は選ばなかった。苦しい道であることは認める。たまに後悔もする。ずっとを被っているのは、すなわち本当の自分を否定することではないかと。

「でも、一緒に居たいの」

 絞り出すように告げる。本当に告げるべき相手は狸ではない。ここから帰った先に、言わねばならない相手が居る。

 ぽかん、と口を半開きにして聞いていた狸が、迷うようにフラフラと片方の前足を宙に浮かせた。前足が、器用に首のネックレスチェーンを引っ掛ける。

 かつん、と、小石がコンクリートを打つ、小さな音が響いた。

「儂ゃあ……けど、儂ゃあ……」

 前足で守り石をつつきながら、狸が迷うように呟いている。それにくすりと笑いを溢し、恵子はありがとう、と礼を述べた。

「狸さん、意外といい人ね。腕も足も無理だけど……髪の毛とかでよければ、バッサリ切るくらいできるのに。ああ、今あんまり長くないから意味ないかな」

 肩に触れる程度のところで緩く巻いている髪に恵子は触れる。宮澤のように、きっちりと伸ばした長い髪ならばさぞ価値があるだろう。

「! 髪の毛か!! 髪の毛でもエエで! 儂ゃそれを貰う!!」

 ぱっと目を見開いて、前のめりに狸が言った。どうやらこれは、交渉成立であろうか。

 ――そう、恵子が気を緩めた時だった。

「わーりィなあ、せっかく話が纏まりかけたトコみてえだが、ちょっと待ってくれや」

 若い男の声が天から降ってくる。次の瞬間、恵子と狸の間に、空から人影が着地した。恵子から見えたのは、金髪を逆立てた後頭部と原色使いの派手な総柄Tシャツの背、そして古着風のワイドデニムという「いかにもヤバそう」な男の背中だった。



 白蛇は、ゆらゆらと揺れながら微睡んでいた。

 どこかに閉じ込められている気がする。振り回されたり、落とされたり、拾われたりした気がする。おやつの気配が近い気がする。遠い記憶にある女性の声がする気がする。だが、どれも白蛇の目を覚ますには至らない。

 ――帰って、眠りたい。体を伸ばしてゆっくりと。

 そう恋しむ場所の気配が。懐かしい声が。不意に、白蛇の意識を揺さぶった。


 

 怜路が社叢に出来た縄目から飛び込んだ先は、鬱蒼と生い茂る木々に天辺を覆われた小路の上だった。上――つまり、上空である。枝の間に開いた縄目は、同じく枝の間に繋がっていたようだ。咄嗟に怜路は、手元にあった太い枝の根元を掴んで落下を回避する。

 多少辺りの枝が鳴ったが、眼下に小さく動く狸や人影が上を見上げた様子はない。地上との距離は幸か不幸か結構あり、気付かれることもなかったが、怜路は枝を伝って木を下りる必要に迫られた。

 己に隠形術を施し、下へ下へ移動する。その間に、足下の狸と人影――若い女はお喋りを始めてしまった。時間稼ぎのためであろうが、狸と直接対話を始めた比坂恵子の度胸のよさに少々驚く。怪異の世界を拒んだ女性というからには、怪異への忌避感や恐怖心が強いのだろうと思っていたが、狸と対峙する恵子は冷静だ。

 しばらく、様子を見ようか。怜路がそう思ったのは、足下の狸が随分と態度を軟化させていたからだった。万が一の時にはすぐに割っては入れる場所に位置取りし、怜路は一人と一匹の会話を見守る。

「――髪の毛とかでよければ、バッサリ切るくらいできるのに。ああ、今あんまり長くないから、意味ないかな」

 そんな恵子の提案が聞こえ、怜路は枝から飛び降りる体勢を整えた。狸が嬉々として頷く様子が見える。その場の一人と一匹の間に限っては、悪い取引ではないだろう。だが、

(あの狸野郎がこのまま、上手い具合に呪力を取り戻しちまうのもよくねえし。それに比坂恵子だったか、ありゃどんな血筋だ……身内に術者が居なかったなんざウッソだろ)

 突然変異やら隔世遺伝やらというのだろうか。(かくいう怜路も身内に呪術者が居た話は知らないのだが、こちらはそもそも身内の記憶がないのでどうしようもない)とにかく恵子は、その身から溢れ出んばかりの呪力の持ち主だ。不用意にその髪や爪といった身体の一部をもののけに渡してしまうのは、恵子のためにも、狸のためにもならないだろう。

「わーりィなあ、せっかく話が纏まりかけたトコみてえだが、ちょっと待ってくれや」

 言って、狸と恵子の間に割って入る。怜路の前後で驚きの悲鳴が上がった。

「なっ、なっ、何なお前!?」

 先に立ち直って誰何すいかしたのは、狸の方だった。

「おうタヌ公、よくぞ訊いてくれた! 俺ァ狩野怜路、巴に住んでる拝み屋だ。オメーの足下に落ちてやがる、その石ン中で寝てる奴を回収しに尾道まで来た」

 石の中……? と、狸が前足で黒い勾玉のペンダントをつつく。サングラスを下にずらし、天狗眼で視る勾玉の中には――確かに、なにか大きな呪力の塊がある。黒曜石だという、艶やかに滑らかに磨かれた勾玉の表面を、淡く真珠色のさざ波が蠢いて見えた。白蛇の鱗だ。

「――ついでに、アンタ。比坂恵子サンだな? 彼氏サンが捜してるぜ、帰ってやんな」

 後ろを振り返って、怜路はそう告げる。驚きと、それを上回る警戒心に強張った顔で、怜路と同年代の女性が怜路を見上げていた。狸と目線を合わせるためしゃがみ込んでいたらしい彼女が、ゆっくりと腰を上げる。――怜路は、明らかに狸よりも警戒されていた。

「浩一さん……笠原さんをご存じなんですか? 一体どういうご関係で――」

 緊張した声音。身構えるように丸まった肩と、胸の前で握り込まれた右手。険しい視線を怜路に送り、比坂恵子が尋ねる。多少傷付くが、正しい判断だ。狸と怜路、恵子にとってより危険度が高いのは怜路の方だろう。

「あー……。アンタの彼氏サンっつーより、あの勾玉の製作者の知り合いだ。覚えてるかい、宮澤美郷。俺ァ、美郷の大家でね」

 美郷にはノリで「相棒と呼べ」などと言ったものの、初対面の相手にそう名乗るのは流石に気恥ずかしい。

「宮澤君の?」と目をしばたたかせた恵子が、多少警戒を緩める。それに「ああ」と頷いて、怜路は続けた。

「そ。あんたと同じ大学を卒業して巴市役所に就職して、なんだけどアパートのダブルブッキングで宿無しになっちまった、哀れな長髪美形クンの大家だよ。あの勾玉にゃ今、アイツのペットが迷い込んじまっててな。すぐに回収して勾玉はあんたに返すから、ちょいと待っててくれねェか」

 さて、こんな言葉で恵子が話を呑んでくれるだろうか。怜路の出で立ちが、善良な一般市民ウケしないのは自身で百も承知である。恵子は注意深く怜路を観察しながら話を聞いていた。美郷の名ひとつでは、まだ恵子の警戒心を解くには値しないらしい。

 さて、他に何を言って信じてもらおうか。怜路がそう思案した時だった。

「――宮澤君の、ペットって……。貴方は、ご存じなんですか?」

 半分は疑わしげに、もう半分は深く考え込むように。複雑な表情で恵子が尋ねた。

「……おう。アイツ、ウチの下宿人なもんでね。俺が母屋、アイツが離れに寝起きしてんのよ。なもんでまあ、下宿人のペットなんざ、一緒くたに俺も飼ってるようなモンだしなあ」

 最近は、しょっちゅう母屋や庭をニョロニョロと散歩しているのだ。管理責任があるのはもちろん美郷だが、餌付けの甲斐もあってか白蛇は怜路によく懐いている。

「その、ペット……? の名前も、ご存じですか?」

 恵子の複雑な表情の口元に、さらに淡い笑みが刷かれる。曰く言いがたいその顔に、怜路は思わずぽりりと頬を掻いた。

「お、おう。白太さんっつーんだけど……」

 美郷が、その白蛇のユルい名を明かしたのは、怜路が初めてだという。つまり恵子は美郷から、白蛇の存在を明かされたことはないはずだ。だが、美郷が隠し続けたであろう蛇精の名を聞いた恵子は、大きく息を吐いて警戒を解いた。

「そう……ごめんなさい、驚いてしまって。じゃあ貴方も――拝み屋さん、って言われたけど」

 姿勢を正し、真っ直ぐ怜路を見て恵子が少し首を傾げる。

「そ、アイツは市職員で、俺ァ個人営業。相手にしてる連中は、まあおんなじだな」

 それに怜路は、軽い笑いを返した。そう、と恵子が目を伏せる。口元には淡い笑みが浮かんだまま、目元の険しさだけがゆるりと解けた顔だった。

「そうなんですね。――良かった。私は宮澤君から、その、しろたさん? のことは何も聞かせて貰えなかったから」

 なるほど、美郷は話題にするのを避け続けたが、間近で呪術の基礎を学んでいれば耳にすること、気付くことは何かしらあったのだろう。美郷は恵子に相手にされなかった、と言っていたが、存外壁を作っていたのは美郷の方だったのかもしれない。あの鉄壁のアルカイックスマイルを向けられて怯んだ人間は、広瀬以外にもいたのだろう。

 そうかい、と怜路は頷き、しばらく置き去りにしていた狸の方へ向き直った。前足でペンダントチェーンを踏んだまま、狸は怜路を窺っている。

「つーワケでな、タヌ公。そいつは俺が回収する。手ェどけな」

 言いながら、狸の方へ歩を進める。狸は威嚇するように身構えて叫んだ。

「なッ……! 何じゃい急に湧いてからに! こりゃ儂が拾うたモンじゃ、あの娘の髪と交換して、儂ゃあ化けの皮を――」

「その話なんだけどなあ、タヌ公」

 狸の主張を、右手を前に出して遮り、怜路は狸と向かい合うようにしゃがみ込んだ。

「オメー、もしあの女性ひとの髪でパワーアップしても、もう化けの皮は得られねーぞ」

 なっ! と狸が口を開けて絶句する。狸がショックから立ち直り、反論する暇を与えず怜路は続けた。

「ちょっと前から、俺ァ上でお前さんらの話を聞いてたんだが、なあタヌ公。なんでオメー、古狸っつーモンが、人間を騙さなけりゃならねェか、考えたことあるか?」

 ぽかんとしたまま、更に怪訝げに顔を歪ませ――狸の顔で、そこまで表情が作れることに怜路は感心したのだが――狸は「はあ?」と首を傾げる。

「結論から言っちまえば、古狸はどうやって暮らしてようが古狸だよ。生きてる間に山の力を身に蓄えて、本来の獣の寿命を大幅に超えて生きてる、山の精霊みてーなモンだ。けどな、狸も狐も古びりゃ。そうしなけりゃ狐狸に非ず、っつー決まりでもあるみてえに、化けて人間にチョッカイを掛ける。おめーらがそうするのは……のは、からだ」

 相変わらず、目の前の狸はぽかんとしている。無理なからぬ話だ。狸が人里に出没していたのはおそらく近世、まだ、世の中の怪異と物理現象が、科学によって分断される前である。怪異は当然のように「実在」し、それ以上の思索は必要がなかっただろう。

「おめーら怪異は、自然の力と人間が出会う場所に生じる。……つーて、俺が何言ってんのか分かんねえだろうけどよ。まあ要するに、おめーさんが『古狸になった以上化けなきゃならん』と思い込んでるのは、当時の人間が『古狸っつーのは化けるモンだ』と思い込んでたからだ。けどな、今はもう時代が変わっちまった。おめーさんが一体何年、山に引きこもってたのかは知らねえが……人間の一般常識が『狸も狐も化けたりしねえ』に変わっちまって、もうゆうに百年は経つんだわ」

 自然の霊力――人間の心に畏れを抱かせる「何か」と人間の心が触れた時、その接点に結ばれる像こそが「怪異」あるいは「もののけ」や「妖怪」と呼ばれるモノだ。別の言い方をすると、それらの在りようは時代や地域ごとに――彼等を認識する人間側の、感覚や常識によって変わってゆく。

「おめーさんは山ン中で、もう百年以上の時を過ごしてる。その間に、おめーの力が回復しなかったなんて事ァあり得ねえ。けど、化けの皮は復活してねえだろ? あのやかましい仁王像どもだってそうだ。お前、あのオッサンらが昔より弱ったように見えたか? んなこたなかったろ。けど、もうほとんどの人間にゃ、あのオッサンらの声は聞こえねーんだよ。それはオッサンらが弱ェからでも、オメーが弱ェからでも無ェ。単にもう、人間の側がと思ってるからだ。だから、いくら他人から力を奪っても、おめーの化けの皮はもう再生しねーんだ」

 同じ理屈で、怪異はこの百五十年の間、変容を強いられ、大幅に数を減らしただろう。それはきっと、狸や仁王像にとっては寂しいことではあろうが、人間にとって不幸なことではない。

「……よう、分からんが……つまり儂ゃあ、はァ化けられん言うことか……?」

「そ。あの女の人の、腕を喰おうが脚を喰おうが髪を喰おうが、力不足が原因で化けられねえワケじゃねーから無駄、ってコト」

 そんな……と、狸が項垂れる。頑なに話を聞き入れられなければ、力尽くで勾玉を取り上げるしかないと思っていたが、狸はすっかり戦意を喪失したようだった。しかし、化けの皮を取り戻すことを目標にしていた狸にしてみれば、この話は人生の目標の喪失であろう。悄然としたその姿に、怜路はどうしたものか頭を掻く。

「あー、そのな。だから……もう誰も、『古狸のクセに化けられねえ』なんて馬鹿にする奴ァいねーんだよ。それどころか、おめーさんくらい元気に走って喋ってできる古狸なんざ、それ自体が稀少で貴重だ。言ったろ、もう下界は百年と言わず経っちまった。わざわざ化けておどかさねえでも、今やオメーの昔話聞くだけで大喜びする奴ばっかなんだよ……」

 言いながら、果たしてこれがフォローになっているのか、そろそろ怜路にもよく分からない。さてどうしたものか内心悩んでいると、驚いたことに背後から援護射撃が入った。

「そうよ、狸さん。狸がお喋りするだけで、もうみんな大騒ぎする時代なの! それも江戸時代の……ここがまだ『村』だった頃の話が聞けるなんて言ったら、大変なことになるの!」

 若い女性におだてられて、元気の出ない男と狸は居ないのだろう。途端、下を向いていた狸の丸い耳がピンと立った。現金な狸に、温い笑いがこみ上げる。

「ほ、ほうか! そいなら……」

「そうそう。まずはアレだ、とりあえず仁王像のオッサンらの話し相手でもしてやれ。あいつらも今の時代じゃ、歩くことすら出来ねえんだ。お前が思い出話やら、どっか歩いて土産話やらしてやればそれだけで大喜びするぜ。んでたまに、勘の良さそうな奴が寺に来たら声でも掛けてやれ。十分名物になれらァ」

 けしかけておいて、後々尾道市の特殊自然災害担当課の仕事が増えたら――まあ、その時はその時だ。やり過ぎは仁王像たちが止めてくれるだろう。無責任にそう考え、怜路は狸に「今後」を示した。しゃがんだまま狸ににじり寄り、すっかりその気になった様子の狸の前足から、そっと勾玉のペンダントを回収する。

「じゃ、そろそろ迎えも来るだろうしな。タヌ公、おめーも俺らと一緒に来い。下手に逃げっと、コイツの中で寝てる大蛇のオヤツになっちまうぞ」

 立ち上がり、無事回収したペンダントを持ち上げてぷらぷらと揺らす。大蛇? と小首を傾げた狸に、怜路は大きく頷いた。

「そーそ。おめーみたいな山の精が大ッ好物の、でっけえ白蛇だ。おめーなんかひと呑みだ、ひと呑み」

 仁王像たちが狸のことも気に掛けていたため、狸を彼等の元へ送り届けるべく思いっきり脅す。ヒィ、と狸が身震いする様に、背後でくすりと笑いが漏れた。怜路も笑って、狸の背後――小路の突き当たりにある丁字路を見遣る。右手――山側からの急な階段を、急ぎ下ってくる二つの足音があった。


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