7.仁王門前

 浩一が宮澤に連絡を入れて、三十数分。果たして、電話で聞いたとおりのセダンが石畳の参道をゆるゆると上ってきた。車は石段の手前で駐車場に入り、しばらくして二つの人影が現れる。

 一人は細身の、襟付きシャツを着た男性。もう一人は――金髪にサングラス、そして派手な総柄のTシャツを着た男だ。長い髪を引っ詰めている様子の細身が宮澤、そして、宮澤より大柄な金髪が彼の「連れ」だろう。あらかじめ説明されていたので驚きはしないが、浩一の苦手な、腕力を崇拝し男性らしさを重んじるタイプに見える。

(宮澤君との組み合わせは、奇妙というか何というか……)

 一方の宮澤は、浩一よりも更に柔和で控えめな性格に見える。一見真逆で反りが合いそうにないコンビであるが、彼等は親しげに会話しながら浩一の方へ歩いてきた。

 どちらともなく浩一に気付き、宮澤はぺこりと会釈をし、隣の金髪はひらりと親しげに手を振った。対する浩一はどちらに合わせるか一瞬悩み、半端なお辞儀を返す。歩調を速めた二人はあっという間に浩一の前に辿り着いた。

「あっ、お久しぶりです。宮澤です。ええと笠原さんですね? あ、コッチが連れの狩野です。えー……こいつはおれの大家というか友人と言うか……」

「おいこら、そこは相棒って言えよ傷付くだろうが! どーも、宮澤君の同業者で大家の狩野でぇっす。俺ァ今回アンタの依頼を受けに来たワケじゃねーんだが、「えっそうなの?」話を聞く限りじゃ、まあ手伝うコトになるんだろうな」

 狩野の自己紹介の間に、宮澤の呻きが挟まった。それに、狩野がぐりんと音がしそうな勢いで隣を振り向く。

「たりめーだろうがお前、俺ァ白太さん回収しに来たんだわ! 拝み屋怜ちゃんをタダで雇えると思うな、見積もりも契約も支払も無ェ依頼は請けねえの、俺は!」

「あっなんだ。建前の話かヨカッタ」

「建前って言うな!!」

 突然の漫才である。宮澤は随分と砕けた態度を取っているが、果たして彼はこんな雰囲気の人間だっただろうか。戸惑う浩一の前でひとしきりじゃれ合った二人が、姿勢を改めてこちらを見た。ふ、と一瞬だけ浩一の背後に視線を投げ上げた宮澤が、にこりと柔らかく微笑む。

「大丈夫ですよ。比坂さんは――あ、ええと……どこまでご存じですか?」

 途中で単語をピックアップし損なったような、茫洋とした問い。それに浩一はただ「いいえ」と首を振った。何も本人からは聞かされていない。そうですか、と、少し困ったような笑顔になった宮澤は、ぽりりと首筋を掻いて再び浩一の後方をチラリと見上げる。

「――比坂さんが仰ってないことを、僕が勝手にお伝えするのは良くないと思いますので……でもそうだな、どうしよう……」

 首筋を掻いていた右手を今度は細い顎に添え、宮澤が目を伏せて沈思する。しばらくの間、一歩後ろで成り行きを見守っていた狩野が「でもさあ」とポケットに手を突っ込んだまま首を傾げた。

「アンタ、コイツに電話しただろ? アンタ自身とコイツは大した面識もねーのに、わざわざカノジョの携帯まで使って。その理由を説明するなら、アンタはどう言う?」

 問い詰める口調ではない。どちらかと言えば、浩一自身の中にあるものの言語化を促す声音だった。浩一がぼんやりと感じ、少なからず恐怖し、「信じる」と認めれば取り返しの付かない一歩を踏み出してしまうと思っている、何かの言語化を。

「どう……と言われると、そうだな……『何故かそうしなければいけない気がした』としか言いようがない。何故か……何となくとか、直感でとか、そういう感じかな」

「アンタには掴めないその『何か』は、世間一般にゃ認められて無ェし、大半の人間はハッキリ感じることも操ることもできねェが、実在する。お役所的にゃ『特殊自然災害』っつーんだとよ。なあ美郷ォ」

 狩野が話し始めると同時に半歩脇に寄り、完全にこの場を狩野に任せる姿勢だった宮澤が、話を振られてウン、と頷く。チラリとそれを確認し、狩野は続けた。

「ソイツはまあ、『情報』だし『力』だ。ただし科学じゃ観測できねェ。人間の体にゃ、目やら耳やらみてェな、ソイツを捉える器官は無ェからな。だから捉えンのにも扱うにもが要る。普通に暮らしてりゃ必要のねェもんだ。災害――トラブルに巻き込まれねー限りな」

 で、良かったよな? と、狩野が再び宮澤に確認を取る。頷いた宮澤が、浩一に「おれの職場……巴市役所ではそう説明しています」と付け加えた。どうやら、お役所マニュアル的な説明文句らしい。市役所に、そんなものを扱う部署があるということ自体、小説か漫画の話としか思えないが――狩野が言ったように、浩一は既にその「何か」に動かされて彼等と相対している。

 軽率に信じてしまうことは危険な気がした。なぜなら、浩一自身に感知も行使もできない「力」を信じてしまえば、それを「分かる」と自称する他人を闇雲に信じるしかなくなるからだ。ただ、現状を浩一の知識や一般常識だけで説明することは不可能で、目の前の彼等は信用するに値しそうに思える。

(それに、超自然的なパワーとか「気」とかが、全く存在しないとは思わない……かな……)

 勝負事には目に見えない流れがある。時に直感は理性よりも正しい。体は、単に科学的・医学的な理屈を超えて、心に動かされることがある。浩一とて、人が勝負の前に担ぐ「験」を、全てまやかしだとは思わない。――大半が、要するに「気の持ちよう」で片付けられることだとしても、だ。

「ええと、そうですね……詳しい話はまた、比坂さんとゆっくりして頂くことにして、まずは、彼女を探しましょう。おれや怜路は、今彼女が巻き込まれているようなトラブルの対処を仕事にしています。まずは情報収集して、捜索方法を考えないと。――というわけで、すみません。ちょっと向こうのお話を聞いて来ますね」

 そう言ってへらりと笑い、宮澤が手のひらを差し向けたのは、浩一の背後に建つ仁王門だ。

「電話越しでも、ずっとお話しして下さってたんですけど……流石に聞き取りづらくて。比坂さんのスマホがここに置いてあったとおり、彼女はこの門前にしばらく居たみたいです。『彼ら』が一部始終を見ていたと仰ってるので」

 では、と会釈をした宮澤が、浩一の隣をすり抜ける。彼は仁王門の真下まで行くと、丁寧に頭を下げた。

 不意に、腹の底を震わすような重低音を感じた。思わず周囲を見渡す。遠雷か、地鳴りか、風の唸り――そのどれでもない、耳には届かない「音」だ。ただ、どうしようもなく心がざわつく。びりびりと鳥肌の立った両腕を、思わず浩一はさすった。

「あー、流石にアンタも感じはするか。うっるせーよなァあのオッサンら」

 それを見ていた狩野がケラケラと笑った。おっさん、と呼ばれたのが誰か分からず眉根を寄せた浩一に、狩野はひょいと指で示す。

「美郷が相手してる仁王像だよ。アンタなんか格闘技とかやってる? 目や耳より肌感覚の方がキャッチしやすそうだな。あれだけ五月蝿けりゃ、集中すりゃあ何か掴めると思うぜ」

 言われて、浩一は改めて仁王門と、その正面に立つ宮澤の背を見た。宮澤は真っ直ぐ背筋を伸ばし、丁寧な口調で中空へと問いを投げている。その姿はまさに、目に見えない存在との語らいだ。そして、彼の問いかけに応じるように、未知の轟きが浩一の腹の底を震わす。

「んぁ、そう言や確かに人こねーな。もう観光客歩いてる時間なのに」

 その轟きが、隣の狩野にはたしかに言葉として聞こえるのだろう。言われて気付いた、といった風情で金髪頭が周囲を見回す。時間を確かめて、浩一も驚いた。辺りは全くの無人だ。朝方には歩いていた地元民らしき人々の、足音すらも聞こえてこない。

「ワヤワヤ人が歩いてっと面倒臭ェからって、人払いしてるらしい。なんつーか親身だなァ、ここの連中」

 のんびりと狩野が笑った。

 浩一にとっては、どれもが背筋を冷やすような現象だ。不自然に人気ひとけがなく静謐な寺院前も、絶え間なく襲う鳥肌も。だが狩野も宮澤も、それらを当たり前のものとして受け入れている。――そしてきっと、恵子も。

 しばらくして、再び深々と仁王門に頭を下げた宮澤が引き返してきて言った。

「お待たせ。比坂さんはちょっと今、守り石を取り返すために……あー、狸と追いかけっこしてるんだそうです」

 狸、と口にした宮澤は、いささか申し訳なさそうな視線を浩一に向けている。狩野は待っている間に何事かスマートフォンで調べていたが、「杭に化けたアホ狸なァ」と呆れたように肩を揺らした。ホラこいつだ、と狩野から差し出されたスマートフォンには、尾道の民話を紹介したWebサイトが表示されている。

「この、民話の狸が……恵子さんを……?」

 受け取った液晶画面を読みつつ、どうにか絞り出した問いはよほど渋く響いたのだろう。笑いとも嘆息ともつかない吐息が二人から漏れる。

「そうです。本当に狸が化けたり喋ったりするか、それが笠原さんに見えるかは、実際に比坂さんに追い付けば分かります。とにかく彼女を捜しましょう。狸は守り石を質にして比坂さんを巣穴に誘い込んで、彼女を喰う気でいます」

 喰う、という単語が一拍遅れて浩一の頭に意味を結ぶ。瞬間、ぞっと全身が震えた。日常の中でならば、あるいは笑い飛ばしたかもしれない。狸が人間を襲って喰うなど、常識に照らせば馬鹿げた話だ。だが浩一は今、人生で経験したことのない非日常の中に居る。

「で、どうやって追う? お前の探索型、使えそうか」

「うん。笠原さんに頼んで、比坂さんの私物とか髪とか借りれればと思ってたけど……」

 言いながら宮澤が見上げた先、仁王門の軒から、一羽の鳩が彼の差し伸べた右腕に舞い降りた。その、綿シャツの袖を掴む足に、宮澤がそっと左手を寄せる。

「手掛かりに、って。取っておいてくれたみたい」

 そう、宮澤が注意深く指先でつまんだのは、女性のものらしきセミロングの髪の毛だ。

「それが、まさか……」

「比坂さんのものだそうです」

 浩一は思わず低く呻いた。女性の長い髪もまた、ホラーの定番アイテムだ。

「それを、どうするんです?」

「おれの作る式神――使い魔のようなものに結んで、彼女の気配を辿ります」

 説明される全てが非現実的に過ぎて、浩一は一旦、理解と納得を諦めた。繰り出される単語を全く知らないわけではない。だが、それはあくまでフィクションとして、絵空事として知っている単語や理屈だ。目の前でやって見せると言われておいそれと信じるのは、成人した人間のすることではないだろう。

 だが、浩一はただ一言「お願いします」とだけ絞り出した。

 今は彼らを――ひいては、宮澤を恃んでいた恵子を信じる他ない。

(そうだ。恵子さんを……恵子さんと、彼女に惹かれた僕自身を今は信じよう)

 どうしようもなく浩一を囚えて離さない、恵子の纏う神秘性を。宙を彷徨う彼女の視線を傍らで追い続けた、浩一自身が重ねた時間を、浩一は信じると決めた。



 探索型の式神――蝶の形に結んだ水引に、美郷は恵子の髪を括り付ける。

「祓い給い、浄め給え。守り給い、幸い給え。神火清明、神水清明、神風清明、急々如律令!」

 手のひらに置いた蝶型の水引を、ぱん、ともう一方の手で叩く。重ねた手をそっと開くと、ひらりと白い蝶が舞い立った。モンシロチョウよりも一回り大きく、アゲハチョウよりは小さな純白の――自然界には存在しない蝶だ。

「追いましょう」

 硬い表情の笠原を促し、美郷は目線の高さをひらひら飛んで行く蝶の後を追い掛け始めた。怜路は美郷よりも二歩ほど先で、同じく蝶の行方を確かめながら早足に進んでいる。

 笠原は恵子から、未だ何も聞いていないという。彼自身は、ごく常識的で一般的な感性の持ち主であるらしく、美郷や怜路の話を簡単には呑み込めていない様子だ。思えば、広瀬辺りがすんなり納得したことの方が、実は驚くべきことではないか――などと、余計なことをチラリと考える。幸いなことに、笠原は冷静で紳士的な人物である。美郷や怜路の胡散臭い出で立ちに嫌な顔をすることも、一般常識に照らせば荒唐無稽な説明を頭ごなしに否定することもない。ついでに、美郷が間男扱いされる憂き目にも遭わずに済んだ。

(でも――比坂さんと再会するより前に、もう少しゆっくり話をしておきたいかもしれないな……)

 笠原は見るからに善良だ。そして、一般社会の中ではおそらく、優秀な部類に入るだろう。だからこそ――そんなにも「取り立てて欠点のない、善良で立派な人」の理解を得られなかった時、秘密を開示した側は深く傷付く恐れがあった。

 特に比坂は、周囲の無理解に苦しんできた女性だ。そして笠原とは恋人同士、それも、両親と挨拶をするような間柄だという。そんな中で、笠原が見せるほんの少しの困惑や戸惑い、拒絶反応が、比坂を追い詰める――状況によっては、いま起きている事態を悪い方向へ動かす可能性があるのだ。

 蝶は、西國寺参道の石畳を少し下ったところで細い路地へと入り込む。人がすれ違うにも譲り合わねばならないような、細い細い路地だ。足元は煉瓦が敷いてあり、各所に案内板や石柱があった。道の両脇は、ほとんど住宅の壁や塀だ。道は結構な上り坂になっており、海側の家々は坂を上るにつれて、路地よりも低い土地に建つものが増えた。

 しばらく怜路を先頭、笠原を殿にして無言で坂を上る。式神が、使役者である美郷を置いて行くことはないのだが、一分でも早く恵子を見つけたい。初夏の午前十時は爽やかな時間帯だが、早足で上り坂を歩いていれば息は上がった。

(怜路もだけど、笠原さんも運動部系だもんな……! おれだけゼエハア言ってるのダッサ……!!)

 もう少し鍛えよう。そんな決意を美郷がした時だ。

「――おっ。あったぜ、縄目だ」

 前を行っていた怜路が立ち止まり、サングラスを外した天狗眼で、路地脇を見下ろして言った。そこは神社の敷地の裏手らしく、社叢しゃそうの木々が十数メートル下から枝を伸ばし、美郷らの頭上を覆っている。

「降り口は……なさそうだね」

 怜路に並び、美郷も場所を確認する。道の横には転落防止の柵が設けられ、神社へと下りられそうな階段は見当たらない。式神の蝶はというと、怜路の指し示す社叢の他に、どこか気配の流れてくる方向があるのだろう。ゆるゆると楕円を描くように舞ってその場に留まっている。

 狸は己の巣穴に恵子を誘導したという。式神が縄目を指すとはつまり、彼女は既になにがしかの異界に足を踏み入れた後ということだ。

「ちっせえ上に、木の枝から飛び込まなけりゃ無理な位置だな。他を当たるか――」

 怜路が指さす中空を、美郷も凝視する。確かに、異界の妖気が流れ出ている場所がある。美郷や笠原は諦めるしかない場所だが、怜路ならばあるいは、木の枝伝いに飛び移れるかもしれない場所だった。

「怜路、お前行けそう?」

「んァ? 俺ァ余裕だぜ?」

「じゃあ――先に行ってて貰っていいかな。おれは、笠原さんと一緒に別ルートを探してみるよ」

 恵子のことを怜路に任せられれば、美郷は笠原と落ち着いて話をしながら移動できる。ちらりと笠原を流し見た視線に乗せた意図に、怜路が気付いたかは分からないが、気のいいチンピラ大家は「確かにそれが早ェな」と大きく頷いた。

「よろしく――って、何ニヤついてんの?」

「いや、お前、指摘されたコトは修正できる秀才君なんだなと」

 へっへっへ。その緩んだ笑いが何を指してのものか一瞬分からず、本気で美郷は眉根を寄せた。「何を――」と問いかけて、気が付く。去年の冬、克樹を探して暴走した時のことだろう。

「言ってる場合か! とにかく、頼んだよ!」

 元々の焦燥感に気恥ずかしさが上乗せされ、思わず美郷は大きな声でツッコミを入れ、粗雑に怜路を社叢へ追い払うような仕草をした。それにケラケラと笑ったチンピラ山伏が「りょーかい」と片手を上げて身を翻す。

 一連のやりとりを、目を白黒させて見守っていた笠原に美郷は振り返る。軽く咳払いをして、声を掛けた。

「比坂さんの所へは、怜路がすぐに辿り着いてくれると思います。おれたちは――少し、お話をしながら行きましょう」

 狸は古いもののけではあるものの、簡単に恵子を加害できるような強力なモノではないらしい。それは仁王像たちの見立てであるし、狸の振る舞いからしても間違いないだろう。仮に狸が強大な妖力を持つもののけであれば――そもそも、化けの皮を取り戻しに恵子の四肢を欲しもしないだろうが、それは横に置いても、恵子に取引を持ちかけたり、勝負を持ちかけて巣穴まで連れ込んだりといった「工夫」をする必要がないはずなのだ。

 狸が恵子に取引や勝負を持ちかけたのは、それらの持つ「約束」の呪力に頼るためだ。

 人間よりも力の弱いもののけが人から何かを奪おうとする時、彼等は「人間自身の持つ呪力」で人間を縛ろうとする。それが、彼等が人に何かの取引や勝負――「約束事ルール」のある行為に、相手を参加させることなのだ。人間は、一旦自分が呑んでしまった約束事を簡単に破れない。それも、もののけという完全なの前で約束してしまったルールは、当人の無意識を強く縛る。

 逆にその性質を理解し、ルールの隙間をすり抜けてしまえば、狸のような小さなもののけにはどうすることもできないのだ。仁王像たちは「わざとゆっくり追え」とアドバイスをしたようだし、その法則は以前美郷も恵子に伝えていた。恵子はおそらく、仁王像たちのアドバイスの意図も正確に理解しただろう。

 比坂恵子は賢い人物で、美郷のアドバイスの呑み込みも早かった。かつては自身の精神を守るため、霊的なモノへの感受性を無意識のうちにシャットアウトしていたようだが、きちんと感知できるようなった彼女は実に見事にトラブルを回避するようになった。――いくらアドバイスしても、そもそも迂闊で油断した人間というのは、世の中居るものなのだ。恵子が今まで浩一に、特殊自然災害もののけトラブルとの関わりを一切気付かせずに居たならば、それは守り石だけの功績ではない。彼女自身の、努力と注意深さの賜物である。

 彼女は、注意深くトラブルを回避する。その姿勢はつまり、頭からもののけトラブルに突っ込む道を選んだ美郷とは、真逆のものだ。

 旋回していた蝶を一旦捕まえ、怜路が飛び込んだ縄目からは離れた場所で再び放す。蝶はふらふらと迷いながらも、別のルートを指し示して進み始めた。美郷が「ゆっくり歩こう」と思っているのを反映し、大きく上下動しながらゆるゆると進んでいく。

 笠原を促してその後を追い始めた美郷は、何から切り出したものか、数歩分思案してから口を開いた。

「――さっきは、比坂さんの秘密を僕が暴露はしない、って言いましたけど……少しだけ、笠原さんには知っておいて頂きたいことがあるんです」

 大人二人が並んで歩けるほどの道幅はない。美郷は数歩後ろを歩く浩一へと、首だけ振り向けながらゆっくりと歩く。足下は舗装されているが上り坂であるし、煉瓦敷ゆえの凹凸に足を取られかねない。笠原の表情を逐一観察するのは難しいが、できる限り目を合わせるように努力した。美郷と視線のぶつかった笠原が、少し緊張気味の声で「はい」と答える。

「比坂さんは生まれつきの体質として、を呼び込みやすい方です。それはご本人の話をお聞きする限り、比坂さんにとっては『困ったこと』でしかなかったようですが……ああ、当たり前ですよね――笠原さんからしたら、それで当然でしょう。でも……おれや怜路みたいに、の相手を生業にしてる人間目線だと、彼女は『才能がある』とか『生まれつき強い力を持っている』っていう話になるんです」

 美郷と笠原は、住んでいる世界が違う。

 美郷はうつし世と闇の境界にいる。笠原はうつし世のただ中、昼間の世界に暮らしている。住む世界が違えば、価値観も違う。

 蝶の行き先と、足下と、それから後ろを歩く笠原の顔と。視線を順繰りに巡らせながら、美郷は語った。恵子自身がどう捉えているかとは別に、呪術業界から見た彼女の体質は「才能」そのものだ。

「だけど比坂さんは、貴方と同じ場所を――貴方や職場の同僚と同じ世界を見て、生きることを望まれました。だから僕が彼女に教えたことのほとんどは、トラブルの『避け方』です。逃げ方とか、そもそも遭わない方法とか。戦う方法や利用する方法……『関わり方』はほとんど教えていません。あの守り石も、彼女が笠原さんたちの世界に暮らせるように、もののけトラブルを除けるものです」

 恵子は、美郷や怜路の居る世界には足を踏み入れなかった。恵子との出会いを経てもう一度、薄闇の境界を己の居場所と定めた美郷とは逆に、恵子は美郷の協力を得て「普通の生活」を手にすることを望んだのだ。美郷はその選択に同意したし、それを応援したいと思った。

「僕は、もののけトラブルと関わって生きる人間です。貴方とは違うモノを視て、言葉を交わして、彼等と関わりを持って生きている。でも比坂さんが彼等を視るのは、彼等を避けるため……貴方や、彼女の同僚や友人や、そういう『普通の人たち』の隣に居るためです。僕は、境界側にいる者として、彼女の背中をそちら側に押すことはできる。でも――彼女の手を握って『普通の世界』に引き留めること、彼女が、もののけたちの世界に取り込まれないよう繋ぎ止めることができるのは、『普通の世界』に住んでいる人だけなんです」

 今、恵子にとって最も心を許した相手であろう笠原が彼女の手を取り、繋ぎ止めれば、恵子がうつし世で生きるのはぐっと楽になるだろう。逆に、彼が何か拒絶を見せ、恵子を突き放すことがあれば、恵子の『普通の生活』はきっと脅かされる。少なくとも恵子の、それを続けていく自信は大きく損なわれるはずだ。

 だからどうか、全力で彼女の全てを受け止めて欲しい。その覚悟を持って、恵子との再会に臨んで欲しい。

 結局は足を止め、美郷は笠原を振り返って言った。

「僕は彼女の友人として……比坂さんが望む居場所に生きて欲しい。その居場所は、貴方にしか作れないものだと思います。だから――」

 結局は「他人」である美郷が、恵子と笠原の関係にどこまで踏み込んでもいいのか。迷いが邪魔をして、笠原への要求はハッキリと言葉にはならない。

 だが、もう一度しっかりと目線を合わせた笠原は、決意に満ちた目をしていた。

「うん。分かった。大丈夫だよ……僕は恵子さんの、きっとそういう部分に惹かれたんだ。彼女を護りたいと思ってる。――ありがとう、宮澤君。ずっと君に、少しコンプレックスというのかな、苦手意識があったんだ。君の方が彼女と近いんじゃないか、って」

 苦笑い気味に告白される。確かに、視える・視えないの差は大きいだろう。だが、重要なのは彼女自身が選んだ、彼女の生きる世界、生きる道だ。それはもう、美郷と交わることはない。緩く首を振った美郷に、笠原が頷く。

「でも、彼女が僕の隣を望んでくれるなら、僕が彼女の望む世界に必要なら、僕は全力を尽くすよ。どうすればいいかな――僕は恵子さんを護るために、何て言って、彼女を迎えればいい?」

 燦々と、初夏の若々しい陽光が、真上から笠原を照らしている。辺りの植込みも常緑の枝の先に初々しい若葉を芽吹かせ、世界は蒼く眩しい光に満ちている。その真ん中で、太陽の真下を歩んでいそうな逞しく優しげな男性が、真剣な眼差しで美郷に問うた。

 美郷は安堵感と共に微笑み、軽やかに返す。

「大丈夫! 今言ったそのまま、会ってすぐ彼女に伝えてあげてください!」

 その広い懐が彼女を迎え入れるなら、もう心配は要らないだろう。

 

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