6.ホテル

 浩一が目を覚ました時、彼は広いダブルベッドに一人で埋まっていた。

 外は既に明るく、小鳥たちの声が響いている。爽やかで静かな朝だった。旅先特有の、見知らぬ寝床で目覚める新鮮な感触は心地よいが――あまりに静か過ぎる。隣に眠っているはずの大切な女性ひとはおらず、その気配すら室内にない。

 手洗いか、あるいは一足先に起きて身支度か、と最初思ったが、ふたつ寝返りを打つ間も全くその気配を見付けられず、浩一はとうとう起き上がった。サイドテーブルに置いたスマートフォンを確認すると、時刻は午前七時を少し回ったところである。そして、未読メッセージを示す通知が画面中央に表示されていた。メッセージの送り主は恵子だ。浩一は慌ててスマートフォンのロックを解除する。

 メッセージは、簡潔なものだった。落とし物を捜してくる。それだけだ。

(でも、こんな朝早くから……? 僕に何も言わず一人で?)

 胸の辺りが不安に曇るのを浩一は感じた。慣れない寝床では熟睡できなかったのか――頑丈さが自慢の浩一がそんな経験をすることは今までなかったのだが、酷くまだ疲れが残っていて頭も重い。浩一は霊感など全くないし、直感やら第六感が鋭い方でもない。「嫌な予感」を信じて騒いだ経験もこれまでなかったが、今回は酷く胸騒ぎがする。

 心身に残る重怠さを振り払うように、勢いよくベッドから降りて着替える。最低限身なりを整えて、財布とスマートフォンだけをポケットに突っ込み一階へと下りた。まずは、朝食の支度をしてくれているホテルのオーナー夫人(つまりは浩一の従兄の妻である)に挨拶をする。次いで、恵子を見なかったか問うてみれば、こう返ってきた。

「なんか、黒い勾玉のペンダントを落とした言うて、捜しよったよ。ホテルの前と、レストランの中と捜して見つからんくて、また道の方捜してみます言うて……はああれから、三十分ども経っとるかねぇ……」

 心配そうに首を捻るオーナー夫人に頭を下げて、浩一はホテルを飛び出す。

(黒い勾玉のペンダント……)

 その存在は、浩一も知っていた。恵子が大切に、肌身離さず持っているものだ。以前、チラリと尋ねた時は「厄除けの御守り」だと説明された。

 厄除けや御守りといった、スピリチュアルなものを大切にする人間は男女問わず居るものだ。浩一は子供の頃より空手道を修めてきたが、試合や勝負事の近くに身を置けば、験担ぎや厄払いなどの俗信も身近なる。恵子の他にも、天然石のブレスレットを常に身につけている先輩などを見てきたので、当初それほど不自然には思っていなかった。

 だが、恵子にとってそのペンダントは、浩一がそれまで見知っていた「御守り」よりもずっと重要な――シリアスなものだと、彼女との親交が深まるにつれ気付いた。

(そう、多分あれは『彼』から貰ったものだ)

 ホテルの前庭は小さい。ぐるりと見回して人影がないことを確認した浩一は、急いで階段を下りた。段差が大きく、くねくねと折れ曲がった急階段の見通しは悪いが、タクシーを停めた広場からホテルまでに分かれ道もなく、道の両脇に入り込むような場所もない。何軒か空き家の前を通りはするが、門扉を閉ざすそれらに彼女が入るとは考えづらかった。

 結果、あっという間に浩一は仁王門前まで辿り着いてしまう。そこから先は、緩やかに下る大きな参道だ。タクシーに乗って来たため、その先を彼女が捜すとは考えづらい。だが、恵子の姿は気配すらなかった。

「いない……」

 浩一は嫌な感触の胸騒ぎに、顔をしかめて地面を睨む。

 ――ある日突然、世界に溶けて消えてしまいそうな女性。

 彼女の魅力を問われてそう返し、笑われたことが何度かあった。浩一の属してきたコミュニティにおいて、浩一はあまり多数派扱いしてもらえない。大抵、夢見がち過ぎるだとか、ロマンチスト過ぎるだとか笑われ、悪くすれば女々しいと諫められることもある。だが、浩一にとってその印象は間違いのないものであった。

 彼は恵子のそういった神秘性ミステリアスさに、彼女と知り合ってどうしようもなく惹かれたのだ。彼女の視線は、たまに浩一の世界には存在しないモノを撫でる。何が見えているのか、問うたことはない。無理に踏み込めば逃げられてしまいそうな予感がしていた。いつか彼女が浩一に心を許してくれたら、教えて貰えると信じていた。

(どうしたら――そうだ、携帯!)

 焦りすぎていて忘れていた。仁王門前広場の端で、浩一は慌ててスマートフォンをポケットから取り出す。電話を掛ければよかったのだ。己の慌てぶりを自嘲しながら、恵子の番号を呼び出して発信ボタンをタップする。――しかし。酷く無情なことに、聞き慣れた恵子のスマートフォンの着信メロディは、すぐ近くから聞こえてきた。

「なっ……!」

 よく知るスマートフォンが、仁王門の柱にそっと立て掛けられてメロディを奏でている。浩一の「嫌な予感」は「確信」に変わった。これは、とても良くないことが起こっていると。

 通話終了ボタンをタップし、仁王門へ駆け寄る。先程まで鳴動していたスマートフォンの、持ち主の影は見当たらない。半ば呆然と門前にしゃがみ込み、浩一は恵子のスマートフォンを拾い上げた。

 恵子へ繋がる糸が、途切れてしまったような気がした。

(警察、一旦ホテルへ帰る、いやどれも違う気がする……僕は、どうすれば……)

 暗証番号は、いざという時のため交換している。浩一は拾い上げたスマートフォンのロックを解除した。ホーム画面に並ぶアイコンを眺める。

 ――不意に、耳元で風が唸った気がした。

 驚いて空を見上げる。雲ひとつない、穏やかな五月晴れの空だ。植込みの葉すら揺れぬ、朝凪の只中だった。空耳か、と不思議に思いながら、再び手元に視線を落とす。

 ――今度は、低い地鳴りか、あるいは遠雷が腹に響いた気がした。

 再び顔を上げるが、相変わらず周囲の景色はなにひとつ変わらず穏やかだ。ぽっぽっぽ……と一羽の鳩が、首を前後に揺らしながら浩一の前を横切る。人慣れした様子の鳩の、真っ赤な目としばし見つめ合った。

「君、ここに若い女性が来なかったかい?」

 思わず、鳩に尋ねていた。鳩は答えるはずもなく、飛び立ってしまう。それを視線で追い掛けて天を仰ぎ、浩一は目を閉じて眉間をほぐした。まだ観光客がやってくるには早いが、朝の散歩やジョギングをする足音や、周囲の家の住人が動き回る気配を感じる。

(――連絡を)

 カラッポにした頭に、ふとそんな言葉が浮かんだ。どこへ連絡しようと思ったのか、自分でも分からず目を開ける。手元にあるのは恵子のスマートフォンだ。

(――彼に)

 こんな時に、頼れそうな相手を一人だけ思い出した。といって、『彼』と浩一は、一度挨拶を交わしたことがある程度の他人だ。

『あっ、この人は宮澤君。一年の頃、入ったサークルが一緒で知り合ったの。宮澤君、この人が――私の、恋人です』

 うふふ、と照れたように紹介してくれたのは、他ならぬ恵子だ。場所は大学の卒業式会場、恵子と付き合い始めて間のなかった浩一は、その紹介文句に心が浮き立たせたのをよく覚えている。その時の彼――宮澤は、少し驚いたように浩一を見て、穏やかに微笑んだ。

 リクルートスーツを着ていた浩一とは違い、宮澤は羽織袴姿だった。そして、背の半ばまで届く、丁寧に梳られた黒髪をひとつに括っていた。まさか、かつらではないだろう。だが彼のつるりと日本人形のように整った白い顔と、美しい黒髪、そして日本の伝統衣装は、彼が別の時代の人間だと紹介されても信じてしまいそうな調和を見せていた。

 その隣に、袴姿の恵子が並ぶ。

 交わされる視線や言葉に、友人以上の熱や甘さがないことを、その時の浩一は注意深く観察した。恵子が友人であると言うのなら、疑うのは失礼だ。分かってはいたが、不安だった。なぜなら宮澤は、おおよそ美的感性が一般的な人間であれば、誰もが賛美するであろう美貌の持ち主だったからだ。当然、同年代の女性受けが悪いわけがない。

 それに比して浩一はと言えば、いかにも体育会系の体躯と容姿が暑苦しいとかむさ苦しいと評されることもあったし、逆にその容姿に反して内面が女々しいと言われることもあった。無論、恵子は浩一との交際に頷いてくれた女性だ。浩一の外見や内面も、そのギャップも好ましいと微笑んでくれる。

 それでも、宮澤の美々しさと清潔感が同居する様に浩一が勝てるとは思えなかったし、何よりも――彼の空を撫でる視線に、恵子が持つのと同種の神秘性を感じたのだ。

 実際に浩一が宮澤の姿を見たのはその一度きりで、後々に恵子が彼を話題に出すこともほとんどなかった。説明は、ただ「ほんの友人」とだけだ。だが、決して恵子が言うほど浅い付き合いでなかったことも、時間を経るうちに確信した。恵子が隠しているモノを、彼は知っている。それが恋人同士という意味で深い仲ではなかったかも知れないが、彼はおそらく、浩一が知り得ぬ恵子を知っているのだ。

 恵子の「秘密」を、いつか本人の口から聞きたいという思いと同じくらい、浩一は彼女の口から宮澤の名が出る日を恐れていた。

(恵子さんを疑ってるわけじゃない……僕に自信が足りないだけだ)

 浩一が恵子に愛を乞うたびに、彼女の魅力や、共に過ごす幸福を伝えるたびに、恵子はまるで、厳冬を越えてはじめて春の花を見つけた者のように、柔らかく顔を綻ばせた。彼女に愛の雪解雨を降らせ、その凍えた心が解ける様子を見つめる時間は、浩一にとっても満ち足りた瞬間だ。そんな時に恵子が口にする「浩一さんが初めて」という言葉を、疑うつもりはない。

「よし……今は、僕のビビり心にかまけてる場合じゃない」

 自分に言い聞かせて、画面オフになってしまった恵子のスマートフォンを再び開く。いつも連絡に使っているSNSアプリを開いて、連絡先一覧を呼び出した。「宮澤美郷」を選択する。メッセージ履歴は開かず、音声通話ボタンをタップした。履歴を見るのは失礼に思えたし、メッセージに相手が気付くまでのタイムラグが惜しい。

 アプリが呼び出し画面に変わる。コールはほんの二、三回だった。

『あっ、もしもし、宮澤です。比坂さん……?』

 なぜ突然連絡が、という驚きに満ちた声音の向こうでは、ラジオらしき遠いお喋りと重低音のノイズが聞こえる。おそらくは車の中だ。

「いえ、比坂恵子さんのスマホをお借りしています。笠原浩一と申します。今、大丈夫ですか?」

 運転中だったらまずいだろう。そう確認した浩一に、宮澤は「大丈夫ですよ」と返した。しかし、「はあ、笠原……さん?」という小さな呟きが漏れ聞こえた様子からして、どうやら相手は浩一の存在を忘れている。

「ありがとうございます。恵子さんの……交際相手です」

 なんと名乗るのが一番格好がつくか分からないまま、浩一はそう名乗った。途端、「ああ!」と納得と親しみの混じる明るい声が電話向こうで上がる。直接挨拶した時もそうであったが、宮澤が浩一を特別に意識した様子はない。そのことに、ほんの少しの安堵とばつの悪さを感じる。

「え、で、比坂さんの彼氏さんが、どう……あっ、もしかして比坂さんに何かトラブルですか!?」

 言いながら思い至った、という様子で、宮澤の声が途中から深刻さを帯びる。

「そうです。変な話なんですが……宮澤さんに頼るしかないと思って」

 口にすれば本当に妙な話だった。浩一自身、自分の言葉が本気とは思えない。にもかかわらず、何かに急かされるように、浩一は宮澤に縋っていた。――先ほどから、そういえばまた風の唸りがうるさい気がする。

『わかりました。お伺いします。……ところで、今どちらにいらっしゃいますか?』

「尾道です。西國寺っていうお寺の前で――」

(しまった。頼るって言っても、彼が今どこにいるかも知らな――)

 言いながら、悔いる間もなかった。

『尾道!?』『うぇーい、ビンゴじゃねーかァ!?』

 同時に二つの声が、電話口から飛び込んで来る。ひとつは宮澤の、心底驚いた声。もうひとつは、そちらも年若い男性らしき、はしゃいだ声だった。

『西國寺ですね。ちょっと待っててください……あと三十分もあれば到着しますから。あっ、すみません、このままご事情を伺っていいですか? 連れがいるんで、スピーカー通話にしたいんですけど……』

 浩一は戸惑った。なんの脈絡もなく連絡した相手が、すでにこちらに向かっている。戸惑いと同時に背筋を這い上ったのは、底知れぬ恐怖だ。何か、浩一には全く理解も感知もできない力が浩一の周囲を取り巻いている。そんな気がしたのだ。

「は、はい。大丈夫です」

 どうにか、恐怖を圧し殺して頷く。

 この恐怖はきっと、恵子を守るために打ち勝たねばならないものだ。



 早朝、平日よりも少し早めに起きた美郷は、朝食の前に水垢離を行い、白蛇の居場所を占った。美郷は呪術と同時に占術も学んでいる。専門の占術師には及ばずとも、失せ物や失せ人を捜す手がかり程度は占えた。今回も、白蛇のいる方角とおおまかな距離、場所の特徴程度は分かると期待して占い、結果として「白蛇がいるのは尾道」という結論を得たのだ。

 尾道のどこに居るのか、それはもう行ってから捜し方を考えるしかあるまい。そう結論に達して、美郷と怜路は朝食を素早く腹に詰め込み、怜路の車に乗って家を出た。美郷の中古軽を出さなかった理由は、単純に怜路のセダンの方が乗り心地もよくスピードも出るからである。二人で外出する時は、大抵怜路が車を出すことになっていた。ガソリン代と高速代は出さねばなるまい、と美郷は助手席からチラリと燃料メーターを見ていた。――そんな時だった。

 聞きなれない着信音で、美郷のスマートフォンが鳴動した。見れば、普段メッセージ機能しか使わないSNSアプリが音声着信を示している。相手は先日話題に出した、比坂恵子だ。

 不思議に思いながら、美郷は電話に出た。そして、笠原浩一と名乗る男性と会話することになったのである。

 着信元が比坂であるのを見た瞬間から、予感めいたものはあった。その予感は、笠原の居場所を聞いて確信に変わる。と同時に、笠原の声の向こうで、もうひとつ遠く、何か男の声が聞こえていた。

 ――あんたじゃ、あんたじゃ。ここへ来んさい。あんたァ、あの白大蛇と縁のあるもんじゃろう。はようここへ来んさい。

 おいおいと喚ぶ、遠雷の轟きにも似た低い声だった。笠原にそれが聞こえている様子はない。常人の耳には届かぬ声――妖異の類の声だ。

(悪いモノじゃなさそうだな……お寺の前らしいし……)

 そう判断した美郷は、多少騒がしいのには目を瞑りそのまま電話口で笠原から事情を聞き取った。笠原自身は霊感も、心霊経験もなく、恵子は己の体質についてまだ明かしていないらしい。その状態で、よくぞ美郷に連絡を入れる気になったものだと驚いたが、おそらくは背後で騒いでいる低い声が、笠原には聞こえぬまでも彼の心に作用したのであろう。

 自動車専用道路、尾道松江線を南下して山陽自動車道をひと区間だけ走る。幸いにも混雑に巻き込まれることなく、八時半を回る頃には目的地――西國寺へ上る石畳敷きの坂道を、怜路のセダンはゆるゆる走っていた。

「しっかし、西國寺の仁王像ってことか、さっきのオッサン声どもは。うるせー連中だったな」

「話し好きって言ってあげなよ……。すごく心配してくれてるみたいだったし、着いたら笠原さんもだけど、彼らから聞き取れることは多そうだからね」

 笠原との通話を終えたのち、美郷は西國寺やその周辺にまつわる逸話伝承を調べてみた。結果、どうやら西國寺の仁王像は様々な伝説のある、霊力の強い者たちのようだった。夜な夜な遊びに出歩いた、否、街を見回り守っていた。歩き回り過ぎて山が低くなった、健脚のご利益がある、夜に寝ずにいる子供を叱りに来る等々。敬われ、親しまれ、街の人々と共に時代を重ねて霊力を蓄えた、街の守護神であるようだ。

「まあ、電話越しで仁王様の声が聞こえたなんて、おれも初めてだけどね」

「やっぱコッテコテの広島弁なんだな」

「威厳を出そう、って感じじゃなさそうだったねぇ」

 笠原からの情報だけでは、恵子が守り石を紛失したこと、そして石を捜しに出て姿を消したことしか分からない。だが、後ろの仁王像たちが白蛇の話をしていたことから、恵子が姿を消した場所と、白蛇が辿り着いた場所は恐らく重なっている。何が起きたのかは、これから確かめねばならない。

「さて、到着だぜ」

 参道脇にあった、小さな駐車場に入る。車を停めた怜路がニヤリと笑った。

「ササッと解決して、尾道観光して帰ろうや」

 あの食いしん坊白蛇を連れて、こういった歴史文化の濃密な街を歩くのは、気苦労が多い気はするが。今回は美郷にも非があるのは承知している、多少、白蛇にも観光をさせてやるしかないだろう。

「そうだね、行こう」

 車を出て、仁王門を目指す。目的地には、大柄な男性が一人立ってこちらを見ていた。


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