5.尾道

 他方、一睡もできずに夜を明かし、障子の向こうが明るくなるや否や、物音を立てぬようひっそりと身支度を始めた者もいた。尾道の古民家ホテルでひと晩を過ごした恵子である。

 古民家ホテルは大変に洒落た内装だった。古く上質な木質を磨き上げた飴色の美しさと、シンプルでモダンな調度品の無機質な白が、極上の非日常を作り出している。元は和室であろう欄間や組子障子の美しい客室に据えられた、大きなダブルベッドが恵子と浩一の褥だった。

 この最上質なお洒落空間を、何の憂いもなく楽しめたらどんなに幸せだっただろう。恵子はそう、己の不用意さを心底呪う。

 恵子が守り石ペンダントの紛失に気付いたのは、ホテルに入ってすぐ、荷物をフロントに預ける時だった。二階建て古民家ホテルは一階がレストラン、二階が客室となっている。チェックインと同時にフロントに荷物を預けて、そのままレストランのテーブルへ……という流れの途中、もう会食相手――つまり、浩一の両親は到着しテーブルに着いている状態での発覚だ。無論、騒ぐことなどできなかった。

 恵子は必死に動揺を押し殺し、どうにかつつがなく会食を終えた。

 浩一の両親は、浩一の纏う雰囲気同様、おおらかで品があり、明るい人たちだった。おそらく恵子も、穏やかで可愛げのある、ごくごく一般的な家庭の子女を演じられたと思う。

(――そう、私は『演じた』だけ……)

 それが実態ではないということは、この一夜で嫌になるほど思い知らされた。

 会食はホテル経営者夫妻も交えてゆっくりと行われ、お開きになった頃には時計の短針が文字盤の9に近付いていた。家に帰るという浩一の両親を見送りホテルの周囲を見回せば、辺りは閑静な住宅街である。すぐ傍らの大きな寺院はライトアップされているが、人気はなかった。到底、ひとりで捜し物をしに出歩けるような足下でも雰囲気でもない。

 そこで思い切って浩一に事情を打ち明け、一緒に石を捜してもらう――などという度胸がなかった恵子は、どうにか心を落ち着けて一晩耐え忍ぶ決意をした。何が見えようが、何に構われようが、己が冷静に上手く立ち回ればよいのだと、そういう決意だった。

 ところが蓋を開けてみれば、恵子の決意は全く的外れなものであった。被害に遭ったのは、恵子ではなく、隣に眠る何も知らない浩一だったのだ。

 ペンダント紛失に内心真っ青のまま、どうにか客室に引き上げ風呂を済ませた恵子は、疲れたからと言って早めの就寝を提案した。浩一は「歩き疲れたし、最後は気疲れもしたよね」と恵子に気遣いと労いの言葉をかけながら頷き、二人は早々に就寝して部屋の灯りを落とした。

 翌日、つまり今日は、朝はホテルで八時に摂り、ゆっくりと身支度をして昼食時間頃に次の目的地へ行く予定だった。そして恵子は、早起きして石の捜索をする心積もりだったのだが。

 ――灯りを落としてしばらく経った客室内に、ソレは次々と入り込んできた。

 青白く熱のない、中を浮遊する丸い炎の塊だ。鬼火や狐火と呼ばれる怪異――あるいは、人魂か。

(まさかアレが、浩一さんを襲うなんて……!)

 引き寄せ体質なのは恵子の方だ。しかし昨夜、縁側と繋がる欄間から部屋に入り込んできた熱のない火の玉は、なぜか恵子ではなく、隣に眠る浩一へと群がった。顔へ、特に口元へ寄ろうとする――もしかしたら、浩一の体を乗っ取るため中へ入り込もうとしたのかもしれないそれらを、恵子は決死の覚悟で追い払った。

 怪異を前にやってはいけないこと、やるべきこと。宮澤に、多少の知識は与えてもらっていた。だがそれらは「いかに怪異を避けるか、やりすごすか」の方法論であり、怪異に対抗する、あるいは怪異を駆逐するための術は教えてもらっていない。人間相手の防犯・護身術と同じで、まず被害に遭う状況を作らないこと、いざという時は逃げることが最優先だと教えられた。よって恵子は、浩一を襲う火の玉を追い払う術を知らないのだ。――今までは、それで良かった。恵子一人の問題だった時には。

 闇雲に手で打ち払おうとしても、ひらりひらりと避けられるだけだった。だが、浩一の体に入り込まれることは回避できたのだと思う。そして浩一は、恵子が顔の前でどれだけブンブンと腕を振り回していても目覚めず、しかし火の玉の影響なのか酷く魘されていた。

 浩一を起こそうと試みもした。だが夜中魘されている間、浩一はどれだけ恵子が揺すっても目覚めない。――結局、浩一の寝息がようやく穏やかになったのは、障子の向こうが薄青い光に満たされ始め、不気味な火の玉が消えた後だった。つまり、つい先程である。恵子は浩一が安らかに眠っていることをしばらく確かめてから、そっと布団を抜け出したのだ。

 昨晩とは違う動きやすい服装に着替え、最低限身なりを整えた恵子は、そっとベッドに乗り上げ浩一の顔を覗き込んだ。魘されていた間は十分に休養できていなかったのか、浩一の眠りは深そうだ。恵子の「持病」にも似たトラブルに巻き込んでしまったことが申し訳なく、恵子はそっと、眠る浩一の髪を撫でた。

(ごめんなさい……浩一さん。私のせいで……)

 申し訳なさ、情けなさが胸の底を浸す。恵子などに関わらなければ、怪異に憑かれかけ、魘されるような目にも遭わずに済んだ。

 ――このことを知れば、浩一はどう思うのだろうか。

 不意に、かつて常に胸の奥を蝕んでいた恐怖が再び芽吹く。怪異を呼び寄せる体質を「分かって貰えない」恐怖と表裏一体の、「知られ、忌避される」恐怖だ。

(あっ、マズい……今わたし、すっごいネガティブだ……)

 逃げてしまおうか。不意にそう思ってしまった。――やはり無理なのだ。己には人並みの幸せ、誰かと共に人生を歩む幸福など得られないのでは、と。一晩中恐怖に耐え、必死で正体の分からぬ火の玉を追い払って、疲弊した恵子の心はそんな弱音を紡ぐ。

 体質を打ち明けて、信じて貰えず笑い飛ばされたら。逆に、信じて貰えても薄気味悪がられたり、トラブルメーカーとして嫌われたら。恵子は浩一のことがとても好きだ。その頼り甲斐のある容姿も、紳士的で穏やかな振る舞いや前向きで温和な性格も、とても愛おしく、ずっと傍で見ていたいと願っている。彼の視界の真ん中に立つ女性が自分であることは、幸せで誇らしい。

 だからこそ、その浩一の目に映る「恵子」が真実の姿でないことが今更、とても恐ろしかった。

 浩一の髪に触れていた手を引っ込め、体を起こす。絶妙な柔らかさと弾力を持つマットレスが、恵子の重心移動に揺れた。

「――けいこ、さん?」

 すっかり寝惚けた、萎えて舌っ足らずな声が恵子を呼ばわった。恵子の心臓がドキリと跳ねる。

「ごめんなさい浩一さん。起こしちゃった? まだ全然早いんだけど」

 部屋は薄暗い。それでも、外出着姿が少しでも見えないように、恵子は再びベッドの上に身を伏せた。

「お手洗いに立っただけなの。もう少し寝ましょう?」

 そっと眠りに誘うように囁く。まだ夢うつつな様子の浩一は、素直に「ん」と頷いた。

「……けいこさんも、ねむい?」

「うん、あんまり眠れなかったから」

「じゃ、ねぼうしよっか……ふたりで、ずっと。ひるまで……」

「うん…………」

 とろりと微笑む甘やかな浩一の表情に、胸を掴まれる思いがした。この旅行の行程は、ほとんど浩一が立ててくれた。恵子の希望も聞きながら過不足ないプランを組み、エスコートしてくれている。その準備には当然、結構な労力を費やしたことだろう。にもかかわらず、浩一はアッサリとプランを手放ような言葉も口にする。これまでもそうだった。恵子の体調や気持ちを最優先にして、「二人なら何でも楽しいよ」と言ってくれるのだ。

 今も、まだ半分夢の中ゆえか言葉は出てこないが、その目元が、表情が雄弁に語っている。きっと二人でならば、旅先のベッドでダラダラと寝坊するのも幸せだ、と。

(馬鹿、私。逃げたりなんかできない……。私の臆病さでこの男性ひとを傷付けるのなんて、絶対に駄目)

 嘲られるかもしれない、誹られるかもしれない、怯えられるかもしれない。それは、傷付くことへの恐怖、恵子の臆病心だ。

(この人を、傷付けたくない)

 恵子が何も言わずに逃げてしまえば、きっと傷付くのは浩一だ。それよりは、結果何を浴びせられて恵子が傷付くことになろうとも、全て晒け出す方がマシだった。受け入れてもらえなくとも、誠実でありたい。――心から、そう思えた。

 まだまだ休眠の足りていないらしい浩一が、再び睡魔の手に落ちる。その健やかな寝息を確かめて、恵子はもう一度、静かに体を起こした。

(でも、あのペンダントは一刻も早く探さないと……!)

 タクシーを降りた場所からホテルまでは、急階段ではあったが距離はあまりない。夜に人が歩く場所でもないため、早朝に探せば落ちた場所にあるはずだ。恵子の体質はこの後必ず告白するとして、まずはペンダントの確保が先決だった。そして、今の浩一をもう一度たたき起こして、捜索に付き合わせるのは余りに忍びない。

(ごめん、浩一さん。すぐ戻るから)

 心の中だけでそう声を掛け、恵子はそっと部屋を出た。

 


「ない……」

 数十分後。古民家ホテルと、タクシーを降りた広場を数往復した恵子は、足腰の疲労と失意にしゃがみ込んだ。

 捜索範囲は、距離にしてせいぜい三十メートル程度。狭い一本道で、滞在している古民家ホテルと広場の間にあるのは、門を閉ざした空き家ばかりだ。夜の間に誰かに拾われるとも思えず、大ぶりな勾玉型の天然石のペンダントが、そうそう突飛な場所へ転がったとも思えない。

 最初は路上を、次には両脇の側溝や家の敷地、庭木や塀の上などを、目を凝らして探した。しかし、見つからない。両脇をキョロキョロするのが良くないのかと思い、次は右手側だけをじっくり探しながら急階段を一段ずつ下り、広場で引き返して同様に一段ずつ上がった。それでも見つからない。

 もしかしたら、ホテルの敷地やレストランの中かもしれない。そう思い、もう今日の仕事を始めていたホテル経営者夫妻に挨拶して、敷地と一階を捜索する。しかし見つからず、今度は仁王門前広場を広範囲に捜索し――影も形も見当たらぬ現実を前に、とうとう気持ちが折れた。

「どうしよう……なんで…………」

 スニーカーを履いた足下に弱音をこぼす。白い麻のクロップドパンツに覆われた膝の上に、ぽたりぽたりと水滴が落ちた。疲労と情けなさと悲しさがごった煮になって、とうとう目から溢れたのだ。しばらくの間、ぐすぐすとしゃがみ込んだまま洟をすする。立ち上がるだけの気力が湧いてこなかった。

「――のう、そこなんそこの。のう」

 不意に、どこからか声が掛かった。キーは高いが音量は控えめで、嗄れ具合と口調はまるで中年男性のような、不思議な声だった。顔を上げて、周囲を見回す。広場は通路に敷かれた石畳の他は土が剥き出しながら、綺麗に整地され雑草の一本も見当たらない見通しの良い場所だ。周囲は土塀や石垣に囲まれ、所々に案内板や植込みなどが配置されている。

「のう、そこなァ、娘の子。あんたァ、いしゅぅ探しとるんじゃなァか?」

 その、植込みの下から声がした。

「はっ、はい! そうです!!」

 人間が入れる隙間のなさそうな場所から、人語がする。その違和感への恐怖よりも、捜し物の手掛かりへの期待が上回った。勢いよく答えた恵子に応えるように、植込みがガサガサと鳴って何かが姿を現す。それは――貧相な狸だった。

 ぽとり、と狸の両前足の間に、狸が銜えていたペンダントが落ちる。

「探しとるんは、この石か?」

 狸が人語で、恵子に問うた。人語ではあるが、間違いなく人間のものではない声質だ。

「そう……です……」

 ワンテンポ遅れて恐怖心がやってくる。あまりにも迂闊に、返事をしたかもしれない。

「ほうかほうか! そいなら、あんたァこの石ゅぅ返して欲しかろう」

 嬉しそうに、楽しそうに狸が言う。人間ならば、満面の笑みで手を叩いていそうな声色だった。恐る恐る恵子は頷く。狸の足元にあるのは、間違いなく宮澤からもらった守り石のペンダントだ。

「へェじゃが、こりゃあ儂が拾うたもんじゃけぇ、はァ儂ンじゃ。あんたァこれが欲しいんなら、何ぞお代をはろうて貰わんにゃのォ」

「お代、ですか?」

 元はと言えば恵子のもの――という抗弁が通じそうな雰囲気ではない。一方でその口調は、悪意もなさそうなカラリとしたものだ。払える程度のものならば払う心積もりで、いまだしゃがんだままの恵子は問い返した。

「おうよ。そんうでょう片へらほど、代わりにくれえや。したら返しちゃるけん。腕が不便なら脚でもかもわん。のう?」

 のそり、と狸が一歩前に出た。腕。脚。と、恵子は脳内で狸の要求を反芻する。一瞬、意味が取れなかった。

(腕を取るって? 脚を一本……? そんなことしたら――)

 四肢を獣の牙に引き千切られる己が、ぶわりと脳内に浮かんだ。ひっ、と悲鳴を漏らして恵子は立ち上がり、後ずさる。ほんの、「お前のポケットに入っている菓子が欲しい」程度のノリで、腕か脚を要求されてしまった。相手は人間の理屈が通じない。そのことへの恐怖が腹の底からわき上がる。

「む、むっ、無理です……! 腕とか、脚とか、取られちゃったら私、死んじゃいます」

 こんな人目のない場所で乱暴に引き毟られたら、失血死する未来しか想像できない。たとえ生き残れるとしても、対価としてはあまりにも重い。

「ほいなら、片目はどうじゃ」

「や、ちょ、そういう……体の一部は…………」

 不機嫌そうな沈黙が落ちた。次にどう動くべきか、恵子は必死に頭を巡らせる。

(逃げる、しかない……!)

 石の代わりは、きっとどうにかなる。宮澤の連絡先は、今ポケットに突っ込んであるスマートフォンにも入っていた。最悪代わりがなくとも、石が無ければ日常生活全てが困難というわけではない。だが、腕や脚、目の再生は現代の医療では無理だ。

「ほォ~ん。そんなら、こがなんこういうのはどうじゃ? 儂と鬼ごっこしようや。わしゃあこの石を銜えて、巣穴まで帰る。あんたァ儂を追いかけて、儂が巣穴ん中へ戻るまでに儂を捕まえられりゃあ、あんたの勝ちじゃ。したら、何もうても石を返しちゃろう。どうよ?」

 怪しい提案だった。提案に乗って、もし捕まえるのに失敗した場合は恵子の丸損、という予感がする。

「もし、私があなたを捕まえられなかったら?」

「そん時ゃあ、石を諦めんさい」

 ――予想に反し、実にあっさりと狸が答えた。

「石を諦めて、帰ればいいだけ?」

「ほうよ」

 それならば、最悪の場合途中で引き返せばよい。恵子はそう、判断に迷った。チャンスに乗って損はないのでは、と。

 このまま石を諦めてホテルに帰った場合、引き寄せ体質を制御できない状態で浩一に全てを告白することになる。そうなれば、どう転んでも旅行はここで終わりだ。たとえ浩一が理解を示してくれたとして、彼の前で宮澤に連絡を取ることになる。

 実は、いつも鷹揚で恵子に甘い浩一が唯一、恵子が名を口にするだけで顔を強張らせる存在――それが宮澤だった。

 事情を説明していないせいで「過去に親密だった」ということだけ認識されているせいだろう。態度に丸出ししない程度には、浩一は紳士的で大人だ。だが、逆に言えば日頃とても紳士的な浩一が、それでも不快感、否、不安感を誤魔化しきれないのだ。

(もし上手く狸を捕まえられたら、そういう事態は避けられる……)

 上手くやり過ごしたい、という欲が恵子の理性を炙った。浩一に嫌われる要素を、ひとつでも潰したい。

「……わかった。それなら、試してみましょう。もしあなたが巣穴に戻るまでに追い付けなかったら、私は石を諦めて帰る。それでいいのね?」

 胸元で拳を握りながら、恐る恐る恵子は言った。それに狸が「よっしゃ決まりじゃ!」と歓喜の声を上げる。

そがにそんなに、すぐすぐ諦めんさんなよ。わしゃァ足が遅いんじゃけえ。せっかく勝負するんじゃ、本気でやらんにゃ面白うない。――へェじゃあ、行くで!」

 言って、ペンダントを銜え直した狸が身を翻す。

 狸が駆け出す先は、麓側――寺院からは離れるように、石畳の参道を街の方へ駆け下り始めた。恵子もそれを追いかけようとする。しかし、

 ――バサバサバサッ!!

「きゃあっ!?」

 突然、後ろから鳥が襲いかかってきた。脈絡もなにもあったものではない。鳩の両足が、後頭部の髪を引っ掴んだ。たまらず恵子は頭を庇い、悲鳴を上げてしゃがみ込む。当然、狸の姿はアッサリと見失った。

「えっ、ちょ、何……!?」

 ただ混乱する恵子に、背後からどろどろと重く、轟くような声がかかった。

『待ちんさい』

 恵子は後ろを振り返る。人影はない。ただ、早朝の静けさに包まれて仁王門があるだけだ。

『本気になって追うちゃあいけんだめよ。できるだけ時間を稼ぎんさい』

 遠雷のようにも、風の唸りのようにも聞こえる低音が人語を紡いでいる。これもまた、間違いなく人外の声だった。その出所は――仁王門を覆う、大わら草履の奥だ。

「え……」

 あそこに在る、否、居るのは、この寺院を守護している一対の仁王像のはずだった。

『あの狸は、どうでもどうしてもあんたの体を食いたい思うとるんじゃ。どうにかして、あんたを自分の巣穴に連れ込んじゃろう思うとる。巣穴まで連れ込まれたら、逃げられんけんな』

 本当に、喋っているのは仁王像か、確かめるべきか。迷いながら、恵子はふらふらと仁王門の前まで歩を進めた。頭が対応しきれていない。今まで、恵子は怪異から逃げてきた。こうして言葉を交わし、向き合ったことなどない。何にならば耳を貸してもよくて、何を信じてはいけないのかも分からない。

(でも、仁王様だし。お寺の関係者? だもの、人間の味方をしてくれる……よね?)

「じゃあ、追いかけずに諦めた方が……いいですか……?」

 こわごわと恵子は問うた。恵子が諦める場合には、石の紛失以上のことは起こらない。その言質だけはどうにか取ってある。それとも、全く捜すそぶりもせずにゲームを降りたら、何かペナルティが生じるのだろうか。

『ほうじゃのォ……あの狸を恐ろしい思うんなら、止めときんさい。あんたが恐ろしいと思やあ思うほど、あの狸の力も増すじゃろう。せぇじゃがそれだが、あの石がどうしてもしい思うんなら、わざとゆっくりゆっくり追い掛けてみんさい。狸はあんたが欲しいんじゃ。あんたが遅う行きゃあ、引き返してでも顔を出して、巣穴まであんたを案内するじゃろう。できるだけ、できるだけ時間を稼いでみんさい。これ以上は無理じゃ思うところまで、粘ってみんさい。――必ず、救けは来るけん』

 語ってくれているのは、阿形の仁王像だった。優しい声音だ。遠雷のようにも風の唸りのようにも聞こえる人外の声を、恵子はそれでも優しいと、慈愛深いと感じた。

「――はい!」

 決意を込めて頷く。手足や目を代償にはできなくとも、あの石は恵子にとって。大切な大切なものだ。逃げ回るだけでない人生をくれた。誰かに愛され、愛することを知るための勇気をくれた。

『そいなら、ポケットの……携帯言うんじゃったかの、それをここへ置いて行きんさい』

 静かに言ったのは、吽形の仁王像だった。

「スマホですか……?」

『そう。それを持って行っても、狸があんたを呼び込む先じゃあ通じんじゃろうけえな。ここへ置いて行きんさい。しるべになるけえ』

『そう言やあ、連れにはちゃんと言うて出て来たんか? もしまだなら、一言送っときんさい』

 吽形よりは喋り好きな印象の阿形が口を挟む。まるで、近所の親切なおじさんたちだ。ふと、心の奥が安堵に緩むのを恵子は感じた。

(信じてみよう……)

 頷いて、スマートフォンをポケットから取り出す。時刻はいつのまにか、もう少しで午前七時になる頃だった。七時になれば、浩一のスマートフォンの夜間マナーモードが終了するのだが、今ならまだ、通知音で浩一を起こす心配はない。

(『昨日、落とし物をしたので捜してきます。すぐ戻ります』と。よし、これで)

 メッセージアプリの送信ボタンをタップした。スマートフォンは、仁王門の柱に立てかけておく。

「それじゃあ、行ってきます!」

『牛歩作戦で。忘れんさんな』

「はい!!」

 仁王像たちに見送られ、恵子はそれでも早足に参道を下って行った。


 

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