4.月曜夜・狩野家

 その日の夜。どうにか残りの業務をこなし、青息吐息で家に帰り着いた美郷は、玄関の土間から板張りの廊下に上がり込んで開口一番、怜路にこう訊ねた。

「怜路! 白太さん帰ってない!?」

 珍しくも部屋の中を片付けていたらしい怜路が「はァ?」と気の抜けた返事を寄越してくる。全開だった引戸から茶の間を覗き込んだ美郷に、怪訝げな表情をしたままの怜路が「いいや」と首を横に振った。何故か野良着姿である。

「白太さんだけ先に帰って来るってなァ、どういう状況だ? 何かあったのか」

 問われて、美郷はウッ、と言葉に詰まった。起きたことをそのまま述べれば、呆れられた上に美郷が説教されるに違いない。怜路は白蛇にばかり甘いのだ。

「いや、その……まあ」

「俺ァ七時過ぎに帰って来たが、白太さんは見てねーぞ。俺が帰るまで白太さんもウチん中にゃ入れなかったろうし、一旦帰って山に遊びに出てりゃ知らねえが」

 口ごもる美郷を問い詰めるでもなく、怜路は状況を教えてくれた。しかし、

「つか、お前俺の入れてたメッセージ見たか? いつまで経っても既読付かねえから、何やってんのかと思ったぜ」

 そう言われ、ここまでスマホの通知をゆっくり確認していなかった美郷は「しまった」と内心天を仰いだ。言い逃れは不可能そうだ。慌ててスマートフォンを取り出し、画面を点灯させる。

「……把婁散……?」

 なんだそれは、と、今度はメッセージを読んだ美郷が首を傾げ、怜路に事の次第を聞かせて貰う。思わず「なんだよそれ」と大きく呆れ声が出かけたが、言えばおそらく、自分の側の事情を説明した時、倍以上になって返って来る。そう気付いてぐっと我慢した。ちなみに野良着姿なのは、燻煙剤に触れたゴミを片付ける時の注意事項として「肌を露出するな」とあるかららしい。

「ンな訳だから、俺ァ夕方まで出てたし、家封じてたから白太さんも入れやしなかっただろ。お前ら何かテレパシーみてーなのなかったか? 直接呼べねェのかよ」

 巴市指定のプラごみ袋を手首に引っかけた怜路が、片付けの手を止め腰を伸ばしながら首を傾げる。たしかに、ある程度ならば距離があっても美郷は白蛇と呼び合える。だがそれが可能になったのは存外最近――去年の終わり頃だ。それまでは、美郷が活動する間の白蛇は微睡んでおり、もののけの気配などに反応した時だけ起きて騒ぐ状態だった。

「それが……呼んでみても応答がなくてさ」

 白蛇と積極的に意思疎通を始めたこと自体が最近であるため、どの程度の距離までならば遠隔交信できるのかも分かっていない。サッサと家に帰って不貞寝していてくれたら、という甘い期待は打ち砕かれてしまった。がっくりと肩を落とす美郷に、いまだ飲み込めない顔のまま怜路が返す。

「……また迷子か?」

 去年の夏にも、白蛇は迷子になった。だが、美郷は力なく首を振る。

「ううん、もしかしたら、いや、多分……迷子っていうより…………家出」

「はァ!? 家出ッ……!?」

 怜路の頓狂な声が、宵闇に沈む土間まで響き渡る。ケココ、と、裏の池から蛙がそれに返事をした。

「――いや、そら無ェだろ」

 一拍の間を置いて、呆れた声音で怜路が言う。

「家出っつーて、一体どこへだよ」

「わかんないけど……でも、なんか今回はホント、愛想尽かされた感じでさ……」

 車を飛び出す白蛇が残して行ったのは、「もう嫌だ」という強い念だ。無理矢理仕事に付き合わせた美郷に、心底辟易した様子だった。呼び掛けて応答がないのも、白蛇側が意図的にシャットアウトしているのかもしれない。

「愛想尽かしたっつーて、一体それでドコ行くってんだ。つかオメーら、そんな離れてて大丈夫なのかよ」

「分からない……前に白太さんが迷子になった時は、炎天下を迷っちゃっておれもキツかったけど……白太さんが安全な場所にいるならダメージは来ないだろうし、長期間離れることで何が起きるのかまでは正直……」

 初めて白蛇を呼び出した時、恐らく白蛇――の形を取った美郷の呪力の塊は、今にも霧散しそうな状態であった。美郷という本体を離れ、名も姿も与えられないまま、ただの呪力の塊のままでは長期間存在を保つことが出来なかったのであろう。

 では名と姿を持ち、自分で「おやつ」を獲って食べる今の白蛇はどうなのか。それは美郷にも分からない。

 ――そんな話を、美郷が最初に白蛇を呼び出した時の経緯まで含めて怜路に説明する。ゴミ袋を放り出し、途中で煙草を銜えながら一通り話を聞いた怜路は、で、と腕を組んで難しい顔をした。

「てこたァお前、白太さんが中にいねーと術もマトモに使えねぇんじゃねーのか」

 いまだ足下は可燃ゴミだらけの室内で煙をくゆらす様に若干不安を覚えながら、美郷はいいや、と首を振る。

「今のところ、それは無い……んじゃないかな。今日も、あの後問題なく仕事はできたし……」

 普段も、白蛇はよく夜の散歩に出ているし、意図的に別行動をしたこともある。その際、美郷側に変調があった記憶はない。ただし、長期間となれば話は別かもしれないが。

「とりあえず……家出先になりそうな場所に連絡してみるよ」

「家出先? どっかあンのか」

「ああ、うん。克樹のとこ」

 言った瞬間、美郷の活発な異母弟とは反りが合わないらしいチンピラ大家が、あからさまに苦い顔をした。

「前にも一回あったんだ。入学祝いに行った時、白太さんが克樹のコートのポケットにコッソリ潜り込んじゃってさ」

 まだ克樹は運転免許を取得していないため、兄弟が顔を合わせる時は、美郷が克樹の暮らす街まで出掛けている。何不自由ない額の仕送りを貰っている弟と違って兄は貧乏人なので、ショッピングセンターの敷地にあるファミレスで奢るのが精一杯だ。迎えも送りも美郷の小さく薄っぺらい中古軽自動車で、背丈がニョキニョキと伸びているらしい弟はいささか窮屈そうであった。しかし彼くらいに上流階級のお育ちだとファミレスも軽自動車も物珍しいらしく、非常に喜んでくれた。

 そんな慎ましい祝宴の後、マンションの前まで送り届けた時のことだった。白蛇は克樹が着ていたスプリングコートのポケットに潜み、克樹について行こうとしたのだ。どうやら克樹は助手席を立った瞬間に気付いたらしいのだが、白蛇可愛さ余ってオートロック付の玄関まで白蛇を連れ込み――物凄い勢いで回れ右をして、白蛇を美郷に返しに来た。

 どんどん大人になっていく背中を感慨深く見守っていた美郷は、思い詰めた顔で引き返してきた克樹に驚いた。昨年会った時よりもかなり長くなった柔らかい癖毛が、荒い息と共に揺れていた。

『申し訳ありません! 兄上!! 私は白太さんを……!』

 連れ去ろうとしました。深刻な表情で罪を懺悔した克樹を当然笑顔で宥め、美郷は返された白蛇をしこたま叱ったのである。よほど、可愛がってくれる克樹と離れ難かったらしい。

 ――克樹の側には「実家との連絡係」という名目で、付き人のような人物が新たに配置されているが、幸いにして若竹の後釜たるその人物は、克樹の意向を尊重しているようだ。克樹が鳴神の人間と美郷の対面に反対しているため、まだ直接会話をしたことはない。克樹が美郷と会う時は、「迦倶良山で世話になった巴の呪術者に会う」という名目で押し通しているようで、鳴神家側がそれをどの程度鵜呑みにしているのか――はたまた、克樹には言わないまま裏を取りつつ見て見ぬ振りをしているのかは、美郷にも分からなかった。

「とにかく、じゃあまず克樹に電話してみるよ。掃除、がんばって」

 言い置いて、怜路の部屋を離れる。おー、と気のない返事が美郷の背中に投げられた。

 美郷は通勤鞄を探ってスマートフォンを取り出しながら、白熱灯を点した廊下を奥へ歩く。怜路の巣である茶の間の傍らには、二階へと続く急な階段あった。怜路がこの家を預かった時には既に、二階の部屋は使われなくなって随分経つ様子だったという。美郷はまだ上ったことがない。

 すぐ突き当たりにさしかかった板張りの廊下を、左へ折れる。

 母屋の北側を走る廊下の右手は、古びた木枠のガラス戸に雨戸が掛けてある。その向こうは荒れ放題の裏庭で、廊下の中程には別棟になっている風呂・トイレの入口があった。左手は小さな納戸や、本来は家主、家人の寝室となる部屋がいくつか連なっているが、現在は南側の客間同様に閉め切られている。廊下の一番奥は、内蔵うちぐらへの扉だ。そのひとつ手前の引戸を入れば、美郷が寝起きしている離れの和室だった。

 昼間は上着の要らない気温だが、夜になればまだファンヒーターが欲しい季節だ。北側で背後は狭い藪のような裏庭、さらにその向こうは裏山と、家のなかでも一等日当たりが悪い北側廊下は寒い。ソックス越しでも指先を冷やす床板を静かに踏みながら、美郷は薄暗い廊下では目を射るような、スマートフォンの液晶画面に視線を落とした。電話帳から弟の名を呼び出し通話ボタンをタップする。

 コール音は二回半。すぐに元気な声が『兄上!』と美郷を呼ぶ。時刻は午後九時にさしかかる頃合いで、アルバイトや部活などを楽しんでいれば外出中の可能性もあった。しかし幸い、電話の向こうに克樹の声以外は聞こえない。自室にいるのだろう。

「ゴメン、急に。ちょっと慌ててて……」

(べつに電話じゃなくてもメッセージ入れれば良かったんだよな)

 相手が弟だからと油断している。否、それ以上に、美郷は自覚するよりも慌てているのだ。

『いえ! どうかなさいましたか?』

 対する弟は、突然の電話にもかかわらず朗らかな声音で返してくれる。その屈託のなさがむしろ、白蛇の不在を端的に表していた。

「うん、ちょっと確認してみるんだけど……白太さん、お前の所に行ってないかな?」

 いいえ? と返ってくる、心底不思議そうな声。続く、心配そうで気遣わしげな問いに、美郷は力なく笑いを返した。自室へ繋がる引戸を開ける。大の白蛇党になってしまっている弟をどう誤魔化すか、美郷は疲れた頭をフル回転させ始めた。

 


『白、しろ……白太! ……さん!!』

 美郷に呼ばれたその瞬間に、ソレは「白太さん」になったのだ。

 ――白太さん、帰る。

 微睡みの中、白蛇は想いを馳せる。思う存分身体を伸ばして眠り、何に怯えることもなく庭を散策できる、白蛇の「ねぐら」に。



 ソレは白蛇の姿になって、美郷の元へと戻った。以降、ソレはずっと白蛇として美郷の中で過ごしていたが、長らく一人と一匹の生活はとても窮屈なものだった。

『白太さん、駄目だ。だ』

 白蛇が外に出て、美味しそうな気配の在処を探したい時。美郷はそう言って止めた。

『こら、白太さん。いい子にしてろ……だ』

 白蛇が外に出て、涼しそうな清流に身を浸したい時も、美郷はそう言って止めた。

 も、も、ずっと白蛇にはなく、美郷は白蛇が動くたびに制止して厳しく叱った。

 白蛇は辛かった。だが、美郷を恨むことはなかった。なぜなら、白蛇の辛さはイコール美郷の辛さであり、白蛇の苦しさもイコール美郷の苦しさだったからだ。辛さと苦しさは白蛇のものであると同時に、美郷自身のものだった。

 それがガラリと変わったのは、美郷が巴に――狩野の家に引っ越して、しばらく経ってからだ。

 狩野の家はそれまで暮らしていた場所と違い、美郷と白蛇の他には、家主の怜路しか人間の気配がしなかった。美郷は少しだけ、白蛇が夜出歩くことへの警戒心を緩めた。白蛇が出歩いても、それを見る人間が怜路しか居ないからだ。

 そして、怜路は出くわした白蛇を受け入れた。

『変なモン喰って腹壊すな、だってさ』

 苦笑い気味の伝言は、柔らかな安堵感と共に届いた。白蛇が真夏に迷子になった時も、怜路は白蛇が帰って来るのを見守っていた。それ以降――徐々に徐々に美郷は、狩野の家で白蛇が出歩くこと自体を禁じなくなった。

 まず、毎夜白蛇を美郷に封じ込めていた符がなくなり、次に部屋に張られていた結界が消えた。それまで全て無視されていた白蛇の「行きたい」も聞き届けられ、ずっと気になっていた怜路を呼ぶ気配――人形たちを発見できた。そのことと、人形が案内した先の「おやつ」を食べたことが白蛇の功績として称えられ、以降白蛇は、完全に自由な夜を得たのだ。

 白蛇は、辛くも苦しくもなくなった。無論、昼間の仕事中は騒げば怒られる。だが美郷はそれまでと違い、白蛇の主張に耳を貸すようになった。夜は「おやつ」の気配に満ちた山野を散策できる。怜路は白蛇を見掛ければ声をかけ、たまにおやつまでくれるようになった。

 白蛇は幸せだった。白蛇は狩野の家が大好きだ。そこは白蛇にとって、生まれて初めて得られた安心できる居場所――だった。

 ――白太さん、帰る……。

 帰りたい。帰って、縁側にのびのび身体を伸ばしたり、裏庭のおやつを追いかけたり、怜路に会って撫でられたりしたい。



 ――帰りたい。

 悲しくて寂しい、締め付けるような想いが美郷の胸を満たしていた。

 肌に触れるのは、慣れた布団の感触。耳に届くのは昨日までと変わらず賑やかな、初夏の朝の小鳥たちの囀りだ。つ、と目尻からこめかみを温い液体が濡らす。

 徐々に覚醒を始めた意識で理解する。美郷は夢を見ていた。美郷の夢ではなく、白蛇の見ている夢を。

「帰りたい……かぁ」

 どうやら家出はなく、今回も迷子らしい。まだ目覚め切っていない喉で呟いた声は、力なく擦れている。のろりと体を起こし、美郷は鳩尾に手を当てた。寝乱れた髪が肩を流れる。

「うん、なんかちょっと、疲れが抜けないな……」

 探しに行ってやらなければ。

 まだ冬仕様の布団から這い出し、美郷はひとつ伸びをした。


 

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