3.月曜日・巴市南部

 西國寺の仁王門前に、小さな音を立ててペンダントが転がり落ちたのは、千光寺の六時の鐘が鳴る少し前だった。

 人気のない広場の石畳を、小石の打つ音が響く。

『――ありゃりゃぁ』

 その、かすかな音に気付いたモノが小さく声を漏らした。

 常人には聞こえぬ――聞こえたとして、低い風の唸りのようにしか聞き取れぬその声は、仁王門にかかる大わら草履をから震わせた。

『落としてしもうたか……』

『こりゃいけんのう……』

 阿形と吽形の仁王像が、それぞれに呟く。彼等は、厳重に鳥除けの金網を張られた仁王門の中から、掛けられた草鞋越しにいつも通行人や拝観者を眺めていた。今時は、声を掛けても気付いて貰えぬことの方が多いため「文化財」に徹しているが、かつては夜な夜な二体で門を抜け出し、月下の尾道を散歩――もとい、見回りしたという逸話の残る、力のある仁王像たちである。

『あの娘、はよう落としたんに気付きゃァええが』

ようにすっかり舞い上がっとたけぇ、今晩は無理じゃろうのォ』

 どうこう言ったところで、現在の仁王像たちはしっかりと金網の中に籠められている。――厳重な金網は、仁王像たちが出歩かぬように設置されたものでもあるのだ。

『明日ん朝まで、何も無ァとエエがのう』

 阿形の呟きに、吽形も重々しく同意の吐息を漏らした。



 同じ頃、巴市の南端にて。既に市役所の定時は回っているにもかかわらず、美郷は山中へ分け入る道に公用車を走らせていた。平成の大合併の折、一市四町三村が合併した巴市の面積は広い。その南端ともなれば、市役所本庁から車で小一時間はかかる――つまり、ここから回れ右をして帰っても、一時間は残業になる場所だ。

 ――いやー!

「何、白太さん……あともう二箇所、それだけ終わらせたら明日から休みだから…………もうちょい大人しくしててくれよ……」

 途中、腹の中で騒ぎ始めた白蛇を、美郷は疲労にヨレた声で宥めすかす。ざらり、とはらわたを内側から撫でられるような、奇妙な感覚もお馴染みのものだ。

 巴で働き始めて、大学時代よりも格段に蛇が騒ぐ機会は増えた。白蛇が騒ぐのは、大抵はなにかおいしそうなもののけを見つけた時か、美郷に危険を知らせる時だ。だが、今回はどうも様子が違う。

 今日行っているのは、市内各所で霊的結界の機能を果たしている祠堂等の見回りだ。夏至に向けてどんどん日が長くなる時分のため、外はまだ明るい。新緑を眩しく照らしていた太陽は山の陰に隠れたが、まだヘッドライトを点けるほどではないだろう。

 これを乗り切れば連休の始まりである。長期休暇の前に、積み残しの仕事をどうにか片付けておきたい――そう気力を奮い立たせての行軍だった。ただ、朝から外勤出ずっぱりの美郷は、実は昼飯にすらありついておらず、精神的にも肉体的にも限界は近い。

「ホント、持田さんもなぁ……もうちょっとちゃんと指示してくれれば……」

 言っても仕方のない愚痴が漏れる。

 せめて、元よりその覚悟を決めて残業をしているなら気分も違うだろう。しかし、今美郷が昼も抜きのまま、定時を回っても公用車を転がしているのは、当初の予定では全くなかったことだった。本日美郷に割り振られた担当箇所は、午後三時くらいには全て終わっていたはずなのだ。休み前の繁忙期もいよいよ最終日、頑張れば早く切り上げられると思ったから、昼食を後回しにして仕事を詰めた。それなのに。

「あと二箇所、あと二箇所だから……場所、遠いけど…………」

 現在の場所からひとつ目の目的地である石塔まで、あと十分程度は山道を分け入る必要がある。二箇所目は、更に遠い。

 ――いや! 白太さん帰る!

 ぐずぐずと駄々をこねるように、腹の中の白蛇が暴れる。たまらず公用車を路側に寄せて、美郷はハザードランプを点灯させた。開けた窓から吹き込んでいた風が止まり、丸一日晴天に焦がされた車体の熱がじんわりと室内に籠る。

「我慢しろって言ってるだろ! そりゃおれだって、こんなの投げ出して帰りたいけど!」

 悲鳴半ばに蛇を叱りつける。今回組んでいる先輩職員の持田は、一番好意的に見て寡黙、控えめに表現して口下手、正直に言えば意志疎通の難しい人物だ。自分が言ったことの何割が伝わっているのかも分からないし、油断して、言葉足らずの指示を自己解釈すれば、こんな事態に見舞われる――己の担当分だと思っていなかった仕事が、定時直前に発覚することになる。

 べつに、生返事で指示を聞いたつもりはない。復唱だってした。確認は、取れたと思っていた。

 はあぁ、と深々溜息を吐く。持田と組んでこういった目に遭うのも、べつにこれが初めてではない。シャカイジンとやらをやっていれば、幾らでも出くわす類の理不尽のひとつだ――だが、そんなことは「妖魔」である白蛇の知ったことではないらしい。

 ――白太さん、帰る!!

『もう嫌だ』という強い拒絶の意思と共に、蛇が美郷から飛び出した。まるで空を滑るような素早さで、その白い蛇体は上部を細く開けたパワーウインドウの外へ飛び出す。

「えっ!? あっ、ちょッ……!」

 待て、と止める暇もない。場所は巴市南端の町の、美郷には全く土地勘のない地域の県道脇。唖然とする美郷を置いて、白蛇は盛りの山藤が雑木を覆う山の中へと消えていった。



 白蛇は腹が減っていた。

 白蛇は疲れており、安心できるねぐらでゆっくり眠りたかった。

 白蛇はもう、動きたくなかった。

 それでも、宿主である美郷が「望む」のであれば、仕方がないだろう。

 白蛇と美郷は同じ存在だ。

 一度は分かたれ、別々の形に変質してしまった。それゆえに白蛇は白蛇としての「自我」のようなものを持っているが、白蛇を形作る九割九分は「美郷」そのものである。

 よって、「美郷が望むこと」が、白蛇と食い違うことはない筈なのである。……本来ならば。もし多少の食い違いが起きたとしても、本当にそれが「美郷の望むこと」ならば、白蛇は従う。なぜなら、白蛇は美郷と同じ存在だからだ。

 だが今日の美郷は、自分が望んでもいない嫌なことに白蛇を付き合わせようとした。

 白蛇は、それがとても嫌だった。

 美郷はしばしば、白蛇の訴えに耳を貸さない時がある。白蛇は今、心底それが嫌になっていた。

 ――帰りたい。帰って、安心できる場所で腹を満たして眠りたい。

 抑え難い衝動のまま飛び出して、地を這う。

 おのれの気配が染み付いた「ねぐら」を目指して。

 ぴるる、と舌でその方向を探った白蛇は、異界の道へと身を滑らせた。

 ただ、白蛇にも全く計算外だったことがある。白蛇が目指した、安らげる「ねぐら」――狩野の家は、燻煙中により霊符で封鎖されていた。そして昼食を抜いて駆け回っていた美郷は、怜路から入っていたその連絡を確認していなかったのである。



 ――かくて白蛇は、再び迷子になった。



 異界の道――美郷が「縄目なまめ」と呼んでいるもののけの通り道を抜けると、白蛇は見知らぬ山中にいた。すっかり己のねぐらである狩野の家に着いたとばかり思っていた白蛇は、戸惑って辺りを見回す。ここはどこだろう、と不思議に思いながら舌で周囲の匂いをかき集めてみると、なんと潮の匂いがした。どうやら全く知らない場所に出てしまったようだ。

 だが近くに、己の気配が染み付いたモノの存在を感じる。きっと白蛇は、これをねぐらの気配と勘違いしたのだろう。

 山を下りてみると、まず広い空き地のような場所が二段程度あり、塀に囲まれ綺麗に砂利を敷き詰められた場所に出た。周囲には見慣れぬ建物と、大きな霊力の気配がひしめき合っている。普段白蛇が「おやつ」としているモノより少し質が違い、白蛇があまり好きではない煙の香を濃密に纏っているそれは、たしか「お寺」と呼ばれる場所に坐すモノの気配だ。

 どうして、こんな場所に出てしまったのだろう。

 あまり居心地のよろしくない敷地を抜けるため、大急ぎで階段を滑り下りる。幸い周囲に人影はないが、背後から大きな視線を感じた。「お寺」に「祀られて」いるモノの視線だ。それから逃げるように石段を下りた白蛇は、広場の石畳を這い、さらに少々の石段を下りて大きな木造の門から外へ飛び出した。その先に、己の気配が染み付いたモノの存在を感じたからだ。

 ――あった!

 白蛇の気配が染みついたモノ、それは黒い小石だった。白蛇も覚えている。美郷が作った「お守り」だ。

 白蛇は、このつやつや光る真っ黒な石ころに力を込めるため、美郷に呼ばれたのだ。

 ――なんで? 白太さん、どこ?

 この石は、もう美郷のものではないはずだ。なのになぜ、白蛇はこの石に引っ張られてしまったのか。事態を把握しきれぬまま、白蛇は小石に近づき、石を検分しに首を伸ばす。――と、

『『こりゃ!!』』

 地響きのような怒声が背後から響き渡った。

 驚いた白蛇は文字通り飛び上がる。

 ――!?

『それをかもうちゃいけんで!』

『それにさばりんさんな!!』

 雷鳴のような声が口々に白蛇を制止する。が、完全に逆効果だった。驚いて混乱した白蛇は、声から離れようと進行方向――小石の方へ猛ダッシュしたのだ。

 白蛇と小石、つまりは恵子の守り石ペンダントが接触する。瞬間。

 ――きゃー!

 白蛇は、小石に吸い込まれてしまったのである。

 小石は微動だにしないまま、跡形もなく白蛇を吸い込んでしまった。しん、とその場に沈黙が落ちる。小石は何事も起きなかったかのように、そこに転がったままだ。

『やれやれ、しもうた!』

『何が起きたんじゃ。あの大蛇、石に吸われてしもうたぞ』

 一瞬の後。思わぬ事態に慌てた仁王像たちの嘆きが響き渡った。



 日が沈み、ライトアップされた西國寺の伽藍が宵闇に浮かび上がる頃。今は夜桜の時期も過ぎ、酔客の声も遠い静かな山門前に、ひとつの小さな影が現れた。山の方から現れたそれは四つ足でフンフンと地面の匂いを嗅ぎながら、仁王門を照らす投光器の辺りに辿り着く。

「ふん、ふん、エエ匂いじゃ。エエ匂いじゃのォ。美味そうじゃ、美味そうじゃ」

 言いながら、恵子の守り石ペンダントの前に現れたのは、痩せて貧相な狸であった。

『おおい、おおい、そこな狸よ』

 狸の背後から、少し控えめな――それでもどろどろと遠雷の轟くような声がかかる。先ほど白蛇を相手に失敗し、いたく反省した阿形の仁王像だった。

「むっ、なんじゃい。金網籠めの仁王ども」

 声に振り返った狸は、柄悪く口元を歪めて答えた。

『そりゃあ、夕方に通った人間が落としたもんじゃ。大事なもんじゃろうけ、置いといちゃんさいてあげなさい

 促す仁王像に、ほおぉ、と後ろ足で立ち上がった狸が嬉しそうな声を上げる。

「あんたら、コレを落とした人間を見たんか! どがなどんな人間じゃった!? 男か、女か。若いか、年寄りか。ええのう、若い女ならええのう」

『それを知って、どがァどうするんじゃ』

「決まっとる、喰うんよ! したらわしゃァ、ようよう『化けの皮』を取り戻せるけんなあ!」

 言って狸は、見せつけるように己の胸の毛を引っ掻いた。その毛並は、季節に反して随分と薄い。山の獣はまだ、ようやく冬毛が抜け始めている頃のはずだが、その狸は完全な夏毛なのだ。その様子に、今まで黙っていた吽形の仁王像が、もしかして、と言った。

『あんたァ、杭に化けて悪さァしよった狸か』

「ほうよ! 街の若い衆に化けの皮ァひっぺがされてからに、なんにもよう化けんようになっとったが、こがァなこんな美味げな人間なら、うでょう一本もろやあ化けの皮ぐらいなこたァ、やすうに戻せらァ」

 杭に化けて悪さをした狸――その狸は元々、尾道の街からすこし離れた場所に暮らしていた。古狸となって力をつけ、「化けの皮」を得てからというもの、様々な物に化けては近くの村の人間を困らせて遊んでいたのだが、あらかたの物に化け飽きたある時、舟着き場で舟を繋ぐ「杭」に化けることを思いついた。

 村人たちが尾道の街へ繰り出す時は舟を出していたのだが、狸は街の舟着き場に先回りして、街に着いた村人たちが舟を繋ぐ杭に化け、まんまと己に舟を繋がせては盗んで逃げるようになったのである。この悪戯は大変に面白く、狸は夢中になって同じ悪戯を繰り返したのだが、これに困ったのが――舟を盗まれる村人は当然として――それが原因で村人が出控えるようになり、客が減ってしまった尾道の街の人間だった。

 街の若い衆は狸を懲らしめようと一計を案じた。狸に気付かれぬよう早い時刻に沖に舟で出ておき、宵の頃になってから、さも街にやってきた村人のような風情で港に入ったのである。当時、村人が出控えてしまいなかなか悪戯ができず退屈していた狸は、その舟を見て大いに喜んだ。早速杭に化け、まんまと村人の舟を捕えたと思ったが――実際に捕えられたのは、狸のほうだったのである。

 もやい綱できつく縛られ、街の若い衆によって陸へ引っ張り上げられ、散々に叩きのめされた狸は、化けの皮を引っ剥がされて山へ逃げ帰った。その後、化けの皮を再び得ることはできず、今まで山で細々と暮らしてきたのである。

「へェじゃが、はァそがな惨めったらしい暮らしも今日で終わりじゃ!」

めェ、止めェ。お前が街の衆にぶち回されたんは、気の毒なことたァ思うが、元はお前があんまりに悪さをしよったけん、あがァな目に遭わされたんよ。化けの皮を取り上げられてしもうたんも、お前が反省して暮らしぶりを改めるエエ機会になるじゃろう思うとったが……』

 ひとしきり、己が不幸な身の上を嘆いた狸が気を吐く。それを諫め、宥めるように阿形の仁王像が言葉を掛けるが、狸は一顧だにしない。

「匂いを辿って探しに行ってもエエし、持って待ち伏せとりゃァ、探しに来るかもしれんのォ」

 うきうきと言って、狸は口でペンダントを拾おうとする。阿形よりも無口な吽形が、それを止めようと言葉を発した。

『触りんさんな。その石にゃァ、随分大けな白蛇が夕方入ったばっかりじゃ。お前も吸い込まれるかもしれん。触りんさんな』

 触れれば吸い込まれると言われ、一瞬、狸の動きが止まる。だが、狸はきっと仁王像を睨み付けた。

「そがァな大ボラで儂を騙そう思うても無駄で! 騙されんけんな!!」

 恐怖を振り払うように大きく叫ぶと、狸は勢いよくペンダントの紐を銜えて駆け去ってしまう。

『駄目じゃったか……どがァすりゃァええかのう……』

 植え込みに消えた狸を視線で追っていた阿形が嘆く。

『儂らァだけじゃあ、どねえしようも無ァのう……。如来様へ拝んでみるか……』

 吽形も困った様子で思案を巡らせた。

『ほうじゃのォ、薬師如来様なら何ぞお救いくださるかもしれん』

 頷き合った仁王像たちは、普段は背に守っている方角――金堂を見上げて祈る。すると、常人の目には映らぬほどわずかに、金堂がふんわりと瑠璃色に光った。

 ――大事ない。あの守り石には、良い縁が見えます。

 西國寺の本尊である薬師如来像の柔らかい言葉が、仁王像たちの周囲の空気全体を密やかに震わせた。

 ――あなた方は、ここで見守り導いてあげなさい。ここを訪れる、あの守り石に絡んだ縁を持つ者たちが、正しくそれを手繰れるように。

 薬師如来像の言葉に仁王像たちはほっと安堵の息を吐き、おのおの深く頷いた。

 

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