2.月曜日・尾道

 翌日。美郷が出勤した数時間後にようやく起き出した怜路は、ブランチと称して菓子パンをひとつ齧ったのち、部屋に作り付けの戸棚から一抱えほどの大きさの紙袋を取り出した。

「コイツも白太さんのオヤツにしちまおうと思ってたんだが……禁止されちまったからなァ」

 怜路の元へは、存外遠方からも依頼が舞い込む。大抵がオンラインを介しての依頼で、その都合上、祓う対象は人物や場所ではなく、宅配便でやりとりができる大きさの物品がメインだ。怜路自身、個人で依頼を受けている――いわゆる一般人相手の呪術者の中では腕の良い方であり、コツコツと実績と信頼を積み上げた甲斐あって、仕事を紹介してくれる同業者も多い。

 ちなみに、個人ではなく組織の人間となれば、怜路よりもはるかに高い専門教育を受け(といって天狗から直接指導された怜路の知識は、偏っているだけで少ないものではないのだが)、更には血筋――持って生まれる呪力がレベル違いの連中も存在する。狩野家の家賃滞納下宿人、宮澤美郷などはその典型で、彼は先に挙げた二つ……つまり血筋と受けた教育の両方ともが、国内トップクラスというエリートだ。普段当人を見ていて、サッパリそう見えないのはご愛敬である。

 その、実はエリートな貧乏下宿人殿が使役する妖魔、傍目には食いしん坊のコンパニオンアニマルにしか見えない(と、怜路は思っている)「白太さん」は、旺盛な食欲が大変にこの「宅配便サイズの物品のお祓い」に有用なのだ。それ気付いた怜路は、先頃より「白太さんのおやつ」にすることを前提とした依頼をいくつか引き受けていた。

 怜路が思いついた、三者得をする――依頼主は問題を解決し、怜路は事務手続きだけで報酬を得、白蛇は美味しいおやつが食べられるという、実にWin-Win-Winと思われた取引は、結局五件もこなさぬうちに白蛇の飼い主に禁じられてしまった。

「まあ、最初に美郷にお伺い立ててなかったからな。俺が悪ィっちゃ、そうだ」

 他人のペットに、勝手に餌をやってはいけない。それも高カロリーおやつをホイホイと与えられては、愛蛇の健康管理に関わる――などと思ったわけではなさそうだが、とにかく飼い主の意向に沿わなかったのだから仕方がない。既に預かっていた荷物のうち、二つまではどうにか白蛇に処分してもらえたのだが、最後のひとつ――今、怜路が抱えている紙袋の中身は、怜路が自分で始末することになった。

 起床時のまま乱れている掛け布団を足で蹴散らし、座る場所を作った。傍らのコタツテーブルの上に散らかったままの、菓子パンの袋や飲料の空きボトルを脇へ寄せる。この連休中にコタツ布団も仕舞ってしまえばよいかもしれないが、まだまだ五月初旬の巴の朝は冷える。

「けど、連休中に片付けるフリすりゃあ、美郷が掃除手伝ってくれるかもな」

 フリ、などと本人の前で言えば、細い眉を吊り上げて怒るに違いないが。怜路よりも遙かに綺麗好きで几帳面で、存外世話焼きの下宿人は、この部屋に入るたびに「片付けろ」とのたまうし、言われて仕方なく物を寄せ始めれば、その場で手伝ってくれる。

「野菜苗買って、植えて、コタツ上げて、行楽に出て……へっへっへ、忙しい連休だねェ」

 人との予定で日々が埋まっている。それが苦ではない、楽しみだと感じる毎日に、怜路は少々浮かれていた――もっと言えば、たるんでいたのである。

 無造作に置いた紙袋。中身はたしか、霊符で封印をされた棗――抹茶を入れる手のひら大の漆器だ。怜路が始末を依頼されたのは棗の中身だが、中に何が入っているのかは未確認である。

 ひとまず、紙袋を開けねばなるまい。そう怜路は、袋の封に手を掛けた。頑丈さだけが取り柄といった風情の、分厚いクラフト紙の袋がきっちり糊で封じてある。指で開けられるかと思ったが思いのほか糊が強力で、ハサミやカッターを探そうにも部屋の中は散らかり放題だ。

「クッソ、開けっつーの!!」

 ばりっ。無理矢理に破いた紙袋は無残に縦に裂け、中から無防備な棗がコロリと転がり出た。

「げっ……!」

 まさか、緩衝材も何も使わず、棗がそのまま紙袋に入れられていたのか。そう慌てる暇もない。

 紙札で封をされ、蓋をされた棗の口が、コタツテーブルの天板の角にクリーンヒットする。ぱかん、と間抜けな音を立てながら、あえなく紙札は破れて棗の口は開いた。中に入っていたモノが、怜路の布団にぶちまけられる。

 ざわわわわっ!

 棗の中から飛び出た細かな紐状の物体が、赤黒く細かく蠢いた。――大量のヤスデだ。

「ギャ――――!!」

 身も世もなく悲鳴を上げて怜路は飛び退く。これでも山野で寝泊まりしながら修行をした身だ、今更害虫の一匹や二匹で騒ぐほど怜路もヤワではないが、どうにも細かな節足動物の集団は苦手なのだ。おそらく、そういったモノと同衾した時の嫌な記憶が強烈なせいだろう。

「ちくしょ、やっちまった……!! 殺虫剤……じゃねえや、アレだアレするしか無ェ!!」

 妖魔らしきヤスデの大群は瞬く間に床へ散らばり、怜路が辺り一面に散らかしているゴミや衣服、通販の箱類の下へ潜ってしまった。こうなっては一匹一匹始末するなど不可能である。

「今日いちんち、家に居らんねーけどしょうが無ェな。封じ符は……先月美郷の作ったヤツがまだ……よしよし、これだけありゃァどうにかなる」

 戸棚の上段から、家賃延滞料代わりに美郷から巻き上げている霊符を取り出す。更に、棚の奥に手を突っ込んだ怜路は、目的の「アレ」を取り出した。

「よっしゃ――モノノケ把婁散バルサン! まだ使用期限内!!」

 モノノケ把婁散。商標権的にグレーなネーミングをしているそれは、拝み屋プロユースの会員制通販サイトで販売されている、もののけ専用の燻煙剤である。焚いている間は人間も立ち入れないし、燻煙する建物を外側から封じておく必要もあるが、敷地浄化用の最終兵器だった。――無論、通用するのは小物限定なので、間違って美郷の白蛇が煙を吸ったところで多少喉が痛くなる程度だろう。

「あーちくしょう、これで全部片付けンの決定だわ……」

 一般の燻煙殺虫剤同様、この把婁散の煙を浴びた衣類や布団、食器類は必ず綺麗に洗浄しろと注意書きがある。無論食品類を煙の当たる場所に出しておくこともできない。大急ぎで辺りの煙に当てたくない物品を棚に仕舞った怜路は、まず棚を封じ、外出の身支度と家の戸締まりを行って把婁散をセッティングした。煙が充満し始める前に家を出て、外側から家の戸に封じ符を貼る。

 外は晴天。見上げる荒れ放題の裏山には、辺り一面にはびこった山藤が、今が盛りとポンポンのように房の短い花を咲かせている。その奥では、人間、猪、鹿のいずれにも見つからず背を伸ばすことに成功した筍が、なかば竹になって青々とした肌を見せ始めていた。

「あーーー……ドコ行って時間潰すかなァ……あ、美郷にも連絡しとかねえと……」

 田舎街の巴市に、丸一日怜路が時間を潰せるような遊び場はない。いっそ、広島市方面へ出ようか……などと思案しながら、怜路は車の鍵片手にスマホをポケットから取り出した。



 五月二日・月曜日、夕刻――本来平日であるその日、比坂恵子は大阪にある己の職場ではなく、他県の観光地にいた。会社カレンダーは今日も休日であり、四月二十九日の金曜日から始まった七連休のちょうど中日である。これがほんの、ただの観光旅行の最中であれば、きっと羽根を伸ばしきって自由を満喫していたであろう。だが、現在の恵子は普段よりも値札のゼロがひとつ多いワンピースに身を包み、ヒールが二センチほども高いパンプスの中で足の指をもぞもぞとさせていた。

 恵子と同伴者――大学卒業の際に告白をされ、交際を始めた男性を乗せたタクシーが、結構な勾配の石畳の道を上っている。男性の名は笠原浩一。恵子とは同学部の同期生で、互いのゼミの教授同士の仲が良かったため、在学中、ゼミの飲み会を共にしたのが知り合ったきっかけだ。

 今、恵子と浩一が居るのは、広島県尾道市である。天然の良港として古代より海上交易で栄え、また、奇岩のそそりたつ山肌がいにしえの仏道修行の地として尊ばれた、交易と信仰の街だ。古刹を擁する三つの山に囲まれ、瀬戸内海の真ん中どころに位置する海峡部、尾道水道を眼前にした狭隘で傾斜の急な市街地は、家屋、商店、そして多くの寺社仏閣がひしめき合っている。その様子は坂の街、寺社の街として独特の景観を醸し、中四国屈指の観光名所になっていた。

(尾道……ほんとにお寺と坂の街ね。――そういえば、宮澤君が就職したのも広島県だって聞いた気がするけど、なんて所だったっけ……)

 日中はもう少し歩きやすい格好で、尾道随一の観光名所である千光寺公園と、麓の商店街を浩一と共に歩いた。千光寺の本堂では蝋燭を供え、正面に掲げてある千手観世音菩薩の真言を唱えて手を合わせたのだが、久しぶりに目にした真言に、ふと大学時代に出会った恩人を思い出したのだ。

 恵子は生まれつき、いわゆる「もののけ」と呼ばれる類のモノに好かれやすい体質をしている。もののけと呼ばれるモノたちにも良し悪しあるのかもしれないが、恵子の人生において、この特殊体質がプラスに作用した記憶はない。体質の改善や制御もままならならず、相談相手も見付からないまま、息を潜めるように生きていた恵子が大学で出会い、救ってもらった相手が彼――宮澤美郷だった。

 無闇やたらにもののけを引き付けてしまい、しかも自分ではそれを感知できなかった恵子に、宮澤はそれらが一体「何」なのか、どう捉え、どう心の中で処理すれば良いのか教えてくれた。もののけを引き寄せる体質ながら、全くそれらを感知できなかった――精神を守るために、それらへの感受性を遮断していた恵子に、彼は「感知しながら距離を置き、やりすごす方法」を教えてくれたのだ。

 宮澤から貰った「お守り」と知識を手に、恵子はこれまでどうにか己の体質と折り合いをつけて生きて来た。大学も三年になった頃には、宮澤に連絡することもなくなっていたのだが、大学の卒業式で久々に顔を合わせた時の、真っ直ぐな黒髪を背の半ばまで伸ばし、綺麗に梳ってひとつに括った姿が印象に残っている。「貸衣装だ」と苦笑いしていた紋付袴姿にその長い髪は何の違和感もなく、恵子はぼんやりと「これが彼の本来の姿だ」と納得したものだ。

(このお守りに、ずっと守って貰ってる……こういう古い街で外したくはなかったんだけど……)

 そう、こっそりとハンドバッグから取り出して握ったのは、親指の頭ほどもある大ぶりな勾玉のペンダントだ。黒曜石で出来た勾玉には、蝋引きされた五色の細い麻紐が通されている。青・赤・黄・白・黒の五色の紐は勾玉を絡め取るように装飾的に編まれ、最後には縒り合わさってペンダントのチェーンとなっていた。

 石も大きく、麻紐も派手でいかにもエスニックな雰囲気は、年配の目上と会うつもりで小綺麗にまとめた、今の服装とは絶望的に合わない。デコルテの大きく開いたワンピースではペンダントを隠すこともできないため外しているのだが、宮澤から貰って以降、それこそ肌身離さず身につけてきたこのお守りのありがたみもよくよく知っているだけに、外していると不安で仕方がなかった。

(でもなあ……浩一さんの前でずっと着けてて、理由を訊かれると説明し辛いし……)

 恵子はまだ、浩一に己の体質について説明できていない。

 ペンダントさえあれば浩一に何か悟られるような異変が起きることもなく、異変がなければ説明も難しく――どんな状況でどう説明すれば、こんな胡散臭い話を本気で聞いて貰えるのか、恵子には分からずにいるのだ。

(浩一さんを信頼できてないってことになるのかな……でも……)

 恵子は宮澤と出会うまで、理解者に恵まれず生きてきた。家族、友人、学校の教師など周囲の大人、誰ひとり恵子の言うことをまともに聞いてくれたことはない。宮澤は彼自身が「視える」人物だったからこそ、当然そこに在るモノとして恵子を苛むもののけたちを肯定し、対処法を教えてくれたのだ。

(浩一さんは、全然霊感がないんだから。視えないモノのことは多分、伝わらない。それに今夜は浩一さんだけじゃなくて――)

 彼の両親と、今から一緒に食事をするのだ。予約時間は午後十八時。恵子は緊張に、ペンダントをぎゅっと握り締めた。

 恵子らを乗せたタクシーの目的地は、尾道三山のひとつ、愛宕山に建つ西國寺の仁王門前だ。十七時五十分頃、予定通りの時刻にタクシーは、仁王門前の広場下へ停まった。精算をし、タクシーを降りる。恵子は握っていたペンダントを、慌てて小さなハンドバッグへ押し込んだ。

 日没にはまだ早いため見上げる空は綺麗な青だが、西側にそそり立つ山の影が夕日を遮っている。連休中といっても平日だからか、あるいは、既に時間帯が遅いのか、恵子と浩一の他に辺りに観光客らしき人影はない。

 広場の正面には立派な仁王門が建ち、左右の仁王像を覆うように、大きな藁の塊が掲げられていた。送り届けてくれたタクシーの運転手が、道すがら教えてくれた大草鞋だ。古びた風情のそれに気圧されながら、ほんの二、三段の石段を上って仁王門前の広場に立つ。辺りは静かな住宅街といった雰囲気で、公園や展望台を擁する千光寺の賑々しさはない。以前は店舗であった様子の家屋の前に、飲料自販機だけが明かりを灯していた。

「この左手の階段を奥に……ああ、看板がある。こっちだよ」

 スマホに表示させた地図と現在地を確認しながら、広場の左端へ歩いた浩一が恵子を振り返った。彼の指す先には、タクシーが上ってきた坂道の比ではない急傾斜をした細い路地に、段差の大きなコンクリート階段が設えられている。ヒールとスカートで上るのは躊躇われるレベルのそれに内心悲鳴を洩らしながら、恵子は硬く頷いて浩一の方へ向かった。浩一も恵子の方へ引き返し、手を取ってくれる。

「絶景ポイントにある、隠れ家的古民家ホテル……とは言ってたけど、ちょっと隠れ家過ぎるな。大丈夫かい? 少しこの階段を上るようだけど……」

 浩一も、呆れと恵子への心配が入り交じった苦笑いで小首を傾げる。「大丈夫、平気!」とは即答できない急階段に、恵子も力ない笑いを返すことしかできない。

「無理そうなら言って。僕が背負うから」

「そんな! 大丈夫!!」

 恵子の表情を見るや、すぐにでも恵子を背負おうと背中を差し出しかけた浩一に、恵子は慌てて首を振る。浩一は教育学部のスポーツ系学科卒、大学の部活は空手道部だ。春用ジャケット越しでも隆起の分かる逞しい筋肉は身を預けるのに不安などないが、ここですぐさま甘えられるような性格を恵子はしていなかった。

 浩一が見つけた看板は、紺地に白で装飾的な英字ロゴが書かれただけの、シンプルなものだ。よく見れば店名らしき英字の下に、Hotel&Restaurantと小さく書かれている。古民家を改装して昨年オープンした飲食店兼宿泊施設で、オーナーは浩一の従兄だそうだ。

 浩一の実家は尾道市の、観光地となっている市街地からは離れた山間部だという。

 二人とも関西の企業に就職し、互いの家まで電車で三十分の距離で交際を始めて、丸一年と数ヶ月。旅行に誘われた恵子は、喜んでそれを了承した。日程は三泊四日、小豆島や尾道など、瀬戸内の観光地をぐるりと回る予定だ。

 その二泊目の夜、浩一の従兄が経営する古民家ホテルで一泊し――「甥の店を見に来た」という名目の、浩一の両親と食事をするのが今夜のメインイベントだった。つまり実質、先方の家族との顔合わせである。めかし込んで慣れない格好をしているのはそのためだ。

「もし動けなくなったら、その時はお願い」

 己が背負われる様子を想像して、気恥ずかしさに頬を赤らめながら恵子は小さく言った。「まかせて」と微笑んで、優しく手を引いてくれる浩一に恵子も笑み返す。

(浩一さん、素敵だなあ……)

 ああ、大好きだ、と心から思う。それは、恵子が浩一と出会って初めて知った幸福な感覚だった。

(ちゃんと言わなきゃ……こうやって、ご両親を紹介してもらえるんだもの。『これから先』があるってことなんだから、そろそろきちんと向き合わないと……)

 期待と、不安と、恐怖と、幸福感と。様々なものに胸を高鳴らせながら、地に足の着かない足取りで歩き始めた恵子は気付かなかった。

 小さなバッグの浅いポケットに押し込んだ黒曜石のペンダント。その麻紐でできたチェーンがバッグからはみ出し、ひらひらとそよいでいることに。そして、狭い狭い階段を、浩一と手を繋ぎ、肩を窄めながら上がっている最中、そのチェーンが路地横の空き家の敷地から突き出た小枝に引っかかったことに。

 ――かつ、かつん。

 小石がコンクリートにぶつかる、軽い音がわずかに響いたことに。

 

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