1.日曜日・狩野家

『おれが、何とかするよ。比坂さんが海でも山でも自由に行けるように、方法を考えるから』

 サークル仲間だった「引き寄せ体質」の女子学生にそう宣言した日、大学一年生だった美郷は決意した。もう一度、自身が生まれ持った「普通ではない力」と向き合い、共に生きることを。

 しかしながら当時の美郷は、高校までに――正確に言えば、蛇蠱を食らうまでに培ってきた呪力の大半を喪失していた。視る、感じるといった「受信」は変わらなかったが、霊的なモノを弾く、操るための「出力」が、一般人に多少毛が生えた程度まで落ちていたのだ。

 よって、美郷はまず力を回復することから始めなければならなかった。――蛇蟲の呪詛を返した時。相手に投げつけたまま失われてしまった、己の呪力を。



「普通ではない力」の存在をもう一度受け入れ、取り戻したいと望むようになった日から、美郷は繰り返し同じ夢を見るようになった。

 夢で、美郷は何処とも知れぬ靄の中にいる。足下すら定まらぬ、白い闇の中だ。

 見下ろす足元どころか、己の足や手すら見えない。

(ああ、このままじゃ消えてしまう……)

 夢の中の美郷は、そのことをいた。

 このままでは、――に呼んで貰えなければ、自分はこの靄の中に散り、溶け消えてしまうのだと。

(呼んで貰わなくちゃ……はやく……呼び戻して……)

 夢の中でそう願っているのは、他ならぬ美郷だ。だが意識が覚醒へ浮き上がる瞬間、「ああ、違うな」と毎回感じる。自分は、だと確信するのだ。

(呼んでやらなくちゃ。でないと消えてしまう)

 そう焦るが、一体「何」を呼べばよいのか分からない。

 そして、最後の焦燥感だけを瞼の裏に残して一日が始まる生活を、数日の間過ごしていた。

「――多分、あの夢が鍵なんだよな」

 大学の敷地内にある男子寮の一室。ルームメイトの上級生が泊まり込みの実習とやらで不在の夜を狙い、美郷はベッドの上に座禅を組んで目を閉じる。覚醒したまま、「呼び戻せ」と己に語りかけてくる存在と接触するためだ。

 呼吸を、深く深くしてゆく。同時に精神も、無意識の奥へ奥へと潜る。

(あれは、『おれ』だ……今ここにない、おれの一部……)

 それは、すなわち美郷が今求めているもの――失われてしまった「美郷の呪力」である公算は大きい。

 蛇蠱を返した時、美郷は蛇蠱を敵の支配から切り離すため、蛇蠱を一度身の内に取り込んだ。蛇蠱を作り上げた蠱毒の壺の中での喰い合い、その延長戦のように、蛇蠱と生への執着心で勝負して勝ったのだ。結果、蛇蠱は美郷の支配下に降った。

 そして美郷はその蛇を敵へ――蛇蠱を作り上げた呪術者の元へと送り返したのだが、その夜を境に、美郷自身の持っていた呪力、あるいは霊力と呼ぶべき力は、ほとんど失われてしまったのだ。

(蠱毒の蟲は、共食いによって相手の呪力を取り込んで強大になる。おれと蛇蠱の勝負もその延長戦だったなら……おれが「蛇蠱だ」と思って叩き返したあの蛇が、おれ自身の呪力も持って行ってしまったのかもしれない……というか、「上乗せしてやる!」って思った記憶があるもんなあ……)

 あの時、美郷は明確に念じた。敵がぶつけてきた恨み、呪い、憎しみを、倍にして返してやると。

 敵の負の情念に己の怒りと苛立ちを上乗せして送り返し、叩きのめすビジョンを明確に脳裏に描いた。つまりその「上乗せ分」がイコール美郷の持っていた呪力であり、蛇蠱に持たせて送り返したそれが、美郷から失われてしまったのが今の状態であると推測できる。

 肉体からは離れていても、美郷の力だ。現に毎夜夢に見るということは、まだ完全に切り離されてはいないのだろう。ならば、残る繋がりをたぐり寄せればよい。

(どこだ……戻ってこい! おれの、呪力)

 心の中で呼びかけながら、閉じた瞼の裏に「力」を想念する。姿形など存在しない、己の呪力をだ。それはなかなか上手く行かなかったが、根気強く呼びかけながら脳裏に白い光の塊のようなものを思い浮かべていると、不意に光の塊が動き始めた。

 あやふやで、不定形で、ただ美郷が思い浮かべているだけの幻だったそれが、ぐにゃりと大きくたわむ。丸い塊と思っていた白い光が、紐状に大きく伸び、とぐろを巻いた。

(ちょ、待って、これってまさか……!)

 その形に刺激され、連想された生物の名と姿が頭の隅を閃くと同時、瞬く間に美郷の観想する光の塊は「それ」に変わった。

(――蛇!!)

 精神世界の奥深く。美郷は、白い大蛇と相対していた。

 ――呼。

 白蛇の思念らしきものが、美郷の頭の中に響く。

(呼べ、って、なんて……)

 ――名。

(名前……? そんなの知らないんだけど)

 ――否。

 脳裏に響く白蛇の思念は、非常に簡素だ。言葉ですらない。ただ、単語が脳裏にぽかりと浮かぶ。

(おれが、名前を知ってる……? そんなわけない。おれの名前……じゃないよな)

 ――否。

(じゃあいっそ、つけろってことか?)

 ――是。

 名を与えろ、ということらしい。

(名前……名前……そんな、ええと…………白蛇……シロ、じゃ流石に……犬猫じゃないんだし……うっ、と……白、しろ……白太! ……さん!!」

 どうにか絞り出したその「名前」を心の中で念じた瞬間。白蛇の形をした美郷の呪力は勢いよく美郷へ跳びかかり、胸元から体の中に潜り込む。

「――ッ、うわっ!?」

 ぞりり、と体の内側を鱗で撫でられる、えも言われぬ不快感が美郷を襲う。悲鳴と共に目を開け、座禅を解いた美郷は、息も荒くベッドの上に蹲った――。



 ***


「――っていう感じで、その場で慌ててつけたからさ。なんか、ほんと『白太さん』としか浮かばなかったんだよね」

「いや、だからなんで『サン』付けだ!」

 正座で両腕を組み、感慨深く頷いた美貌の貧乏下宿人、宮澤美郷みやざわみさとにすかさず突っ込んだのは、その大家――築百五十年程度の古民家を所有する、金髪グラサンのチンピラ山伏、狩野怜路かりのりょうじだ。

 場所は狩野家の共用リビング、時は五月初旬の連休を目前にした日曜日の昼下がりである。月曜日のみ平日で、火曜日から祝日が続くという今年のカレンダー上、美郷は明日出勤だ。一方の怜路はアルバイト先である居酒屋店主の意向により、定休日である本日から木曜日までベッタリ五連休だそうだ。曰く、「仕事帰りのジジイを食わす店を、連休中に開けておいても仕方がない」らしい。

「や~、なんか……ちょっと呼び捨ては憚られるカンジの雰囲気……? みたいな……」

 出会った当時(再会した当時、という方が正しいかもしれないが)の白蛇は純粋な呪力の化身のようであり、その簡潔な口調(?)も相俟って、威厳ある神秘的な存在に見えた。

 ちなみにその白蛇――己の名を「白太さん」だと認識してしまった「美郷の呪力と蛇蠱の融合体」は現在、美郷の代わりに巨大ビーズクッションを占拠して昼寝を決め込んでいる。その渦巻くとぐろの真ん中には、紙製の小箱が抱き込まれていた。

 小箱の中身は、怜路が先日、拝み屋業ほんぎょうの依頼主から預かって帰ってきた柘植櫛だ。櫛には魔物が封じられているという。

「そんで結局、つけた名前が『白太さん』か。すっかり名が体を表しちまってンなァ」

 心底呆れたように言った怜路が、食器類が置かれたままのローテーブルに片肘を突いた体勢で、白蛇に手を伸ばす。気配を察知した白蛇が頭を持ち上げ、ぴるる、ぴるる、と舌を出した。

「名が体って……どういう意味?」

「すっかりゆるキャラっつー意味だ」

 ゆるキャラ、と美郷は復唱し、改めて己のクッションを奪っている白蛇を見遣った。白蛇の姿は、真っ白なアオダイショウで固定されてしまった。「蛇蠱」であった時には、毒の滴る牙を持った真っ黒な毒蛇であった気がするが、確かに往事の禍々しさは欠片もない。ついでに威厳も行方不明だが、威厳を示さねばならぬ機会もないので構わないだろう。

「まあ、怖がられるよりはいいかな……」

 白蛇をいたく気に入った様子だった、五歳下の弟の顔を思い出す。この春より広島県内の国立大学へ進学した美郷の異母弟は、顔を合わせるたびに白蛇を見たがっては「可愛い」と褒めそやすのだ。美郷と意識の繋がっている白蛇は、美郷の知識を介してその褒め言葉の意味も理解しているらしい。最近ではすっかり「己は可愛い存在」だと得意になっている。

 蛇は美郷にとって、喰った――喰らわされた呪詛の象徴だ。白蛇の帰還によって呪力の回復は果たせたが、同時に余計な物も多く背負い込むことになった。熱さや乾燥が極端に苦手になったり、背中の一部に鱗が出来たり、そして、たとえば今白蛇が抱えているような呪物が近くにあると、普段は体内で眠っている白蛇が騒いだりする。

 呪力と同時にこの蛇を得て以降、美郷の大学生活はとびきり困難さを増した。なんと言っても、今眼前で白蛇の頬をつついているチンピラ大家と知り合うまで、白蛇のことを明かし、話題にできる相手が四年間いなかったのである。美郷は四年間、たった独りで人とは違うことわりに生きる存在――妖魔の蛇を抱えて生きてきた。ほんの一年前まで、この白蛇を「可愛らしい」「ゆるキャラ」などと評される日が来ようとは、夢にも思っていなかったのだ。

 白蛇は怜路にされるがまま、額や頬をつつかれている。ぴるる、ぴるる、と舌を出す白蛇から流れ込んでくる思念は、至極ご機嫌なものだ。

 ――おやつ! 怜路、おやつ!

「おー、おやつおやつ。美味いといいなァそれ」

 大切に櫛を抱えて機嫌良く「おやつ」と連呼する白蛇に、にこにこと怜路が答える。ちなみに、美郷以外の人間は、白蛇の体に触れていないと白蛇の声は聞こえないそうだ。まるっきりペットと飼い主のようなやりとりに、美郷は溜息を吐いて額を押さえた。

「あんまり沢山、そういう変な……っていうか、力の強そうなモノやらないでよ」

 白蛇は、もののけの類いを「おやつ」にする。

 おやつ、と呼ばわっているのはつまり、白蛇の存在を維持するために必須ではなく、単に白蛇自身が「美味しいから食べたい」と欲する嗜好品のような扱いのものだからだ。白蛇は普段、狩野家の荒れた裏山に出る山霊・精霊を夜な夜な狩って食べている。多少の好き嫌いがあり、殊に生きた人間の精気に近いものは好まないようだが(実に幸いなことである)、それ以外の神魔、精霊の類いは総じて「おやつ」と見えるらしく、その気配を感じると騒いで騒いで仕方がない。

「ンでェ、肥えるってのか?」

 むに。白蛇のほっぺた……が蛇にあるのかは知らないが、顔の横から首辺りの皮をつまみながら、怜路が眉根を寄せる。

「わかんないけど、もし肥えたら……っていうか、巨大化し始めたら困るだろ! 今でも十分でかいのに」

 今、目の前のクッションでとぐろを巻いている白蛇は、常識的なアオダイショウの大きさをしている。だがこの蛇は最大、胴回りが大人の太股サイズになるまで巨大化できる。美郷は便宜上それを「捕食モードの最大サイズ」と呼んでいるが、最初の瞑想で相対した白蛇があの大きさだったので、あちらが本来のサイズなのだろう。

 あれほどの大蛇が己の体の中に入っていると思うだけでぞっとしないし、それが他のもののけを食らって、さらに巨大化するなど想像するだに恐ろしい。

「だから、もうこれっきりにしてよね。白太さんを当て込んで仕事引き受けるのは……」

 怜路はこの白蛇を全く忌んだり恐れたりしない。それは彼が天狗に育てられ、山野での厳しい修行に耐え抜いた人物だからでもあろうし、彼にとって白蛇が、一度は命を捨てる覚悟で背負い込んだ、狗神という特上に厄介な妖魔を「ごっくん」して始末してくれた――恩人ならぬだからでもあるだろう。そうして、白蛇を恐れず接してくれるのは大変有り難いのだが、「あの狗神をおやつにしたのだから」と言って、更に余所から魔物を貰って帰ってこられては困るのだ。

 へーへー、と白蛇から離れ、そっぽを向きながらチンピラ拝み屋が肩を竦める。それに「頼むよ、」と返して、美郷は食器を回収するため膝立ちになった。

「そ言やあ、その、白太さん呼び戻してまで助けてやろうとした相手はどうなったんだ、色男」

 ふと思い出したように、座り込んだままの怜路が美顔を上げる。二人で食事をする場合、大抵調理が怜路の仕事、片付けが美郷の仕事だ。

「ええ……色男ってなに。いや、普通にできるだけのことはしたよ。彼女の場合、本人の『気』がもの凄くもののけを惹き付けやすいものだったから、その気を封じる御守りと……あとは、心の防衛反応的なやつで、本来視えるはずのもののけが全然視えてなかったから、見鬼の方法と、除け方。基礎的な呼吸法と隠形とか結界とか、あとは禹歩みたいな。その辺を覚えてもらって、向こうの生活が安定し始めたら……なんか疎遠になったなあ」

 なんだそりゃ、と、実に残念そうな声を怜路が上げる。

「普通そこは、イイ感じにならねえか!?」

「いや、別に……。男女だったら必ずくっつくって話でもないだろ……なんと言うか、おれはあの女性ひとの守備範囲? じゃなかったみたいだし」

 同い年の理解者として、あるいは、未熟ながらも心霊と呪術のいろはを指導する教師と生徒として、それなりに良好な関係であったが、彼女――比坂恵子は、常に美郷とは一定距離を保っていた。美郷の方は恵子を意識しないわけでもなかったのだが、踏み込んで来ない相手に自分からアプローチするには、当時背負い込んだもの――まさしく、目の前で怜路に貰ったおやつを抱えている白蛇が厄介過ぎたのだ。

 意識していた、と言ったところで、せいぜい「人生で初めて出来た、年頃の女性の友人」にどぎまぎしていた程度である。卒業式の日、久々に顔を合わせた比坂から、彼女の隣を歩く男性を恋人と紹介された時も、特にショックなどは受けなかった。

「まあお互い、余計な無理をせずに生きてられればいいなあと思ってるよ」

 関西の一般企業に就職した比坂とは、卒業式以降会っていない。学生時代に交換した連絡先はまだスマホに残っているが、やりとりをする機会はもうないだろう。否、もし今後なにか彼女の生活に霊的トラブルが発生したら、その時は頼って貰えれば嬉しいと思う。

「お人好しか」

「そういうんじゃないと思うけど……なんて言うか、もう一度自分と向き合うきっかけをくれた人だからね」

 遅かれ早かれ、美郷は呪術界に戻って来ただろう。鳴神家という足場を失い、身ひとつになって自問自答した「宮澤美郷とは何者なのか」という問いの答えは結局、「この力」でしかなかった。ただ、その結論を得るまでに、この力を以て「誰かを助けたい」「誰かの役に立ちたい」と思えたこと、そして実際、努力が実を結んで感謝されたことは美郷の大きな自信となり、大学卒業後の進路を選ぶ決め手になった。

 ローテーブルに広げられた、空食器を重ねて盆の上に置く。盆を持って立ち上がった美郷は、開けられた障子の向こう、縁側越しに見える庭の畑へ視線を移した。

「連休は、夏野菜植えるんだっけ?」

「おー。明後日にでもホムセンに苗買いに行こうぜ」

 つい昨年の秋まで、ただの荒れた庭だったはずの場所は、今や端正に整えられた家庭菜園である。狗神から解放され、この家に生まれ育った「狩野怜路」としての戸籍を取り戻した怜路は晩秋、突然庭に畑を作り始めた。

 結局、大根や白菜といった定番の冬野菜は作付けが間に合わず、苗で越冬する豆類や、春先に苗を買ったキャベツとレタスが畑の約半分を占拠している。そしてもう半分の場所は、今から夏野菜を植えるべく綺麗に畝が立ててあった。トマトを植える予定の畝には、既にビニール屋根までついている。――トマトは乾燥気味に育てる方が甘くなり、更に果実が雨に当たると弾けてしまうため、トマト用の雨除けなるものが売られているのだ。

「ん。連休中はずっと晴れみたいだしね。どこか行楽も行きたいなあ」

 美郷の白蛇は暑さを嫌う。五月の晴天を逃し、梅雨を抜けた頃には例年、暑気に負けて晴天下の外出など望めなくなる。巴一年目だった去年は全く余裕がなかったが、今年は気候のよい間にドライブくらいしてみたいものだ。

「おー、そうだなあ。この時期っつーたら何だ、花か?」

「藤園とかいいねえ。好きなんだ、藤」

 のんびりと会話しながら食器を下げる。連休まであと一日、仕事はそれなりに繁忙期だが、無事に済んでくれますように――。

 そんな美郷のささやかな願いは残念ながら叶わず、巴市二年目のゴールデンウィークは波乱の幕開けとなることを、この時美郷はまだ知らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る