9.終幕

 突然恵子の眼前に現れた派手な格好の青年は、丁字路をちらりと見遣ってから恵子を振り返って言った。

「ところで、だ。迎えの足音が二つあるっつーことは、あんたの彼氏サンがもうすぐ到着するってこった。はもうチョイ返してやれねェし、この状況じゃ効きもしねえだろ。覚悟はいいかい?」

 サングラスに覆われた目元は見えない。だが、口元の笑みに嫌味さはなかった。

「はい。大丈夫です」

 ひらりとペンダントを掲げての問いに、迷いなく頷く。青年が言うように、誤魔化しの利く状況ではない。それでも迎えに来てくれたのならば、恵子は浩一のどんな問いにも答える覚悟だ。

 それにしても、と思う。この金髪にサングラスの青年は、宮澤の大家だと名乗った。ただの大家にしてはあまりに気安く宮澤の名を呼び、彼の「ペット」をよく知った風だ。

(ペットかあ……『しろたさん』は白蛇だったのね)

 その名を宮澤が呼んでいるのを、かつて一度聞いたことがある。だが恵子には何の名であるか分からなかったし、宮澤は恵子に説明しなかった。問うた時のやんわりとした拒絶に、彼我の立場は対等でないと再認識したことを、鮮烈に覚えている。

(この人は、宮澤君と同じ世界に生きている)

 控えめで優しく、生真面目な性格だった宮澤とは正反対に見える青年だ。だが、それが存外良いのかも知れなかった。出で立ちの柄の悪さに反して、青年――狩野の口調や態度には、横柄さがない。呪術者として腕を磨き、職を得たと聞く宮澤と、拝み屋を名乗る狩野は同じ目線で物事を見られる仲間なのだろう。

「あーーー、ところでさあ。変なコト訊くようだが」

 迷うように明後日の方向に顔を逸らし、決まり悪そうに右手を胸元や顔の周りで彷徨わせながら、狩野が口を開いた。はい、と恵子は軽く返事する。

「あの、なんだ。『美郷でいっか~』みてーなコトは、思ったりしなかったワケ?」

 非常に婉曲な問いを、脳内で咀嚼する。意味を把握した恵子は、きっぱりと首を振った。

「そう思って彼に甘えてしまうと、自分も彼も駄目にしてしまうと思ったので。――自分で自分を騙さないように、気を付けてました」

 恵子の中に、若い男女としての甘やかな感情はなかったが――宮澤の方もそんな意識などしていなかったと思うが、周りには「年頃の男女」として見えてしまう。周囲からそう扱われることで、恵子自身が自分を誤魔化して、宮澤に依存する言い訳に使ってしまいそうな時も、確かにあった。

 だが、「普通の世界」を望んだ恵子は、宮澤の「しろたさん」が何であるか訊くことができない。彼が独りで背負うソレを、分かち合える場所を恵子は選ばなかったのだ。

 そのことを思い知った時、ハッと目が覚めた心地がした。恵子が甘えれば、人の好い宮澤は応えてくれたかもしれない。だが、恵子が自分の望みを優先する限り――普通の世界を望みながら、都合良く宮澤の力を借りるため彼の傍に居る限り、宮澤と恵子の関係は対等になり得ない。恵子は、宮澤に自身の苦しみを理解して貰えるが、彼の苦しみを一緒に背負うことはできないのだ。

「――そっか。あんた凄いな」

 ぽかんとした様子で恵子の答えを聞いた狩野が、結局右手を宙に浮かせたまま、つるりと言った。更には、

「なるほどな~~~!!」

 と大きく伸びをしながら感嘆する。思い切り天へ伸ばされた両手がゆるゆると金髪頭に着地し、セットしたヘアスタイルであろうツンツン頭を掻き回した。

「イヤ、ほんとマジ変なコト訊いて悪かった。ちょうどこないだ、美郷からアンタの話をチラッと聞いたとこだったモンでね。――けど、そうか。じゃあある意味、アンタのその英断のお陰で、俺ァまだ生きてンのかもしんねーなあ!」

 やー、すごいすごい。命の恩人だ! と、突然感慨に耽り始めた狩野に、恵子はどう反応したらよいか分からない。「命の恩人、ですか?」と、どうにかそれだけ返した。

「そ、俺ァ美郷に命拾って貰った人間なんでね。あいつが巴に来てなけりゃ、俺はもうこの世にいねーはずだ。あいつがアンタとくっついてりゃ、多分単身で巴みてーな縁もゆかりもない片田舎にゃ来なかったろうし、いくら物件ダブルブッキングしたからって、俺みてーな得体の知れねえ拝み屋んちに、下宿しようとも思わなかっただろ」

 あっはっは、と笑いながら狩野が述懐する。随分な奇縁によって、宮澤とこの青年は巡り会ったらしい。狩野の言う「命の恩人」がどの程度シリアスなものなのかは分からないが、たしかに、その奇縁の糸車を回した中には、恵子も入っているのだろう。

「そうなんですね。私も――宮澤君と出会えて……それから、よかった。ありがとうございます、聞いてもらえてスッキリしました」

 宮澤への個人的な感情は、誰に相談することもなく一人で整理し、決断してきた。初対面とはいえ――むしろ、お互いこれ以上深く関わる機会のないであろう、その決断を歓迎してくれる相手と共有できたことは、恵子の心を軽くする。

 ほんの少しにも、随分長い間にも思えた間を経て、足音がいよいよ鮮明になる。狩野の後ろに座り込んでいた狸が丁字路へ振り向き、身構えた。

 ひら、ひら、ひら。

 狸の上を、大きな白い蝶が通り過ぎる。恵子へ近寄ってきたそれを、狩野が片手で捕まえた。

「――怜路! 状況は!?」

 続いて、柔らかく涼やかな声が聞こえた。宮澤だ。丁字路の右側から駆け下りてきた細身の青年が、後ろで括った長い黒髪を弾ませながら走り寄ってくる。

「おう、一件落着。狸そこな」

 言って、狩野が狸の居る足下を指差した。足を止めた宮澤がその先を確かめ、身構えていた狸を見つけて「おお、」と声を漏らす。

「落着、ってことは……」

「狸は諦めた。白太さんはココ。比坂サンはほらコッチ」

 ペンダントを掲げて見せた狩野が、恵子を振り返る。道幅が狭く見通しの悪い小路であるため、恵子は狩野の背に隠れて目に入らなかったのだろう。覗き込むように体を傾けた宮澤が、恵子をみとめて目を丸くする。

「比坂さん! 良かった!!」

 破顔一笑。軽やかな笑顔が恵子に向けられ、すぐさま後ろを振り返る。

(あ。なんかちょっと、感じ変わったなぁ)

 ほんのひとつ向けられた笑顔でそう気付く程度には、恵子はかつての宮澤をよく見ていたのだ。笑顔が明るく、屈託や陰りがない。彼は辿り着いたのだろう。自分が望む居場所、暮らしてゆく世界へ。

「笠原さん!」

 宮澤が浩一を呼ばわる声が響いた。ドキリと恵子の心臓が跳ねる。思わず、右手でぎゅっと自分の胸元を掴んだ。宮澤よりも重い足音が、急いだ様子で近付いてくる。狩野と宮澤、成人男性二人を挟んだ向こう側に、彼等よりも大きく逞しい人影が見えた。

「浩一さん――」

 いざとなると、何からどう言葉にしたらよいのか分からない。お礼か、謝罪か、それすらも。浩一の表情を確かめるのが恐ろしい。それと同じくらい、彼を再び目の前にできたことが嬉しい。

 立ち竦む恵子の前に、一直線に浩一が歩いてくる。落ち着いた、しかし大股で早い歩調だ。狸、宮澤、狩野、と次々に浩一に道を譲り、団子になって浩一の背後から様子を窺っている。

(ああ、本当に。間違えなくてよかった)

 こんなにも込み上げる愛おしい気持ちを知ることができた。ただ一緒に居たい。目の前で眺めていられて幸せだ。そして同じくらい、目の前の男性ひとの幸福と笑顔を、心から願える。――その気持ちが、恵子自身の勇気を奮い立たせてくれる。

 恵子は背筋を伸ばし、真っ直ぐ目の前の浩一を見上げた。逞しい体つきに相応しい男性的な容貌が、真摯な表情で恵子を見詰め返す。

「恵子さん」

 真剣な声が恵子の名を呼んだ。はい。と答える。その声が己の名を紡ぐだけで、こんなにも嬉しい。

「貴女の全てを教えてください。僕は、貴女の全てが知りたい」

 真剣な、真剣な声音だった。

 遠く小さく、「ヒャー」と抜けた悲鳴が聞こえたが、恵子は満面の笑みでこう答えた。

「はい! 私も浩一さんに、私の全てを知って欲しい!!」

 浩一の顔がほころび、その長い両腕が緩く広げられる。開かれた、広い胸元へ。

 恵子は迷いなく飛び込んだ。



 ふぁー、と間の抜けた声を漏らして、美郷は思わずしゃがみ込んだ。恵子と浩一の足音が、頭上へと遠のいて行く。

「なーにお前が照れ倒してンだ。ウブっ子め」

 くけけ、と笑う怜路もまた、先程「ヒョア~」などと呻いていたのは、しっかりと美郷の耳に届いている。

「いやだって、眩しすぎない?」

 ウブだオクテだと言われて反論の余地はないのだが、それを差し引いても十分な熱波だったであろう。そう同意を求めようと見上げた先では、怜路が煙草に火を点けるところだった。

「……やっぱお前も当てられたんじゃん」

 煙を好まぬ白蛇のため、このチンピラは美郷の前では極力煙草を吸わない。それがこうしてライターを鳴らしたというのは、要するに動揺しているのだ。煙草は精神安定のためのおしゃぶりである。

「うるせー!」

 紫煙を吐きながらチンピラががなった。

「どっちもウブじゃのォ……ゲホッ、ゴホッ!」

 ニヤついた声音で混ぜっ返そうとした狸が、煙を吸い込んで咳き込む。ばつの悪そうな顔で怜路が、煙草を持つ手を高くした瞬間――周囲の景色が変わった。

「あー、異界から抜けちゃったね。煙草なんか点けるから」

「いや、べつにそれはよくね?」

 緑に囲まれた廃小路が、住宅地の間を縫う煉瓦敷きの路地に変わる。突然太陽が真上から照りつけ、春蝉の声が周囲を満たした。連休中の観光地、季節は初夏。人の気配が五感に流れ込んでくる。

「まあいいけど。ここ、怜路が縄目に入った近くだね。比坂さんと笠原さんは、おれが固定した出入り口から出れたと思う。千光寺公園の麓だったから、ちょっと合流にはかかるかな。先に狸を仁王門に連れて行こうか」

 怜路と別れた後、美郷が見つけた二つ目の縄目が、千光寺公園の麓だったのだ。式神を使ってその縄目を出入り口として固定し、さらに隠形を掛けて人が迷い込まないようにしてあった。

「それよっか、ホイこれ。白太さん中だぜ。どうやったら出て来ンだ?」

 ほんのひと吸いしただけの煙草をサッサと携帯灰皿に押し込み、怜路が美郷に守り石を差し出す。手のひらでそれを受け取り、美郷は懐かしい勾玉をつるりと指先で撫でた。

 この守り石は、恵子をもののけトラブルから守るために作ったものだ。彼女の引き寄せ体質――漏れ出てしまう彼女自身の呪力を封じ、煙幕をかけてもののけの目に留まりにくくする。このまま恵子が伴侶を持てば、そのうち恵子自身の体質は落ち着いてゆくだろう。俗世で年齢を重ね、うつし世の人々に紛れて暮らしていれば、そのうち呪力そのものが変質しもののけを引き寄せ辛くなるのだ。だが、彼女がもし家庭を持ち子供を持てば、この性質は遺伝する可能性があった。生涯の伴侶になりそうな男性もちょうど一緒であるし、今日のうちにそんな話もしておいた方がよいだろう。

「あー、寝ちゃってるねコレ。おーい、白太さん、起きて~~」

 石本体は、恵子の呪力を吸収して発散を弱めつつ、吸収した呪力で煙幕……対もののけに特化した隠形術を発動させるための、蓄電池のようなものだ。術式を構成しているのは、主に周囲の緑・赤・黄・白・黒という五色の麻紐で編まれたネックレスチェーンだった。石に「呪力を吸い込む」という特性を持たせていたこと、そのネックレスの術式を組み上げ、発動させるために美郷自身の呪力――つまりは白蛇の力を使ったこと、ふたつ合わさって、たまたま近寄った白蛇を吸い込んでしまったのだろう。

「だめだな……なんかもうゴソゴソしてる気配はするのに……」

 触れていれば、なにやら寝言のような思念が漏れ聞こえてくる。「おやつ」とか「帰る」とか「寝る」などと、子供が甘えてぐずる時のような単語ばかりだ。

「うーん……えいっ!」

 ばちん! と、美郷は右の手のひらに載せた守り石を左の手のひらで叩いた。

「ぅおい!?」

 ――きゃー!?

 怜路の驚きの声と同時に、手の隙間からしゅるりと白い紐状のモノが飛び出す。着地と同時に巨大な白蛇となったソレに、足下にいた狸が飛び上がった。

「ギャー!! 蛇じゃぁアア!」

 ――おやつー!?

「うわっ、白太さん、めっ!!」

 狸に飛びかかろうとした白蛇を、美郷は慌てて止める。咄嗟にしゃがんで胴を掴み、地面に押さえつけた美郷に、白蛇が不満の声を上げた。

 ――いやー!

 シャー! と白蛇に威嚇される。だが、仁王像が気に掛けていた狸を、ここで白蛇のおやつにすることもできない。

「待って白太さん、昨日のは謝るから!」

 言いながらも、押さえ込む手を緩めることはできない。咄嗟に狸へ、西國寺へ繋がる方向を示してあっちへ逃げろと伝える。初夏の太陽に熱された赤い煉瓦の舗装が、白蛇の腹をじわじわ焦がしているのが美郷にも分かった。狸は一目散に路地を駆け去る。

 ――美郷、きらい!!

 当然と言うべきか、まだ昨日の分のお怒りも解けてはいないらしい。べしんべしんと尻尾で地面を叩いて怒りを顕わにする白蛇を、どう宥めたものか。既にここはうつし世の只中である。近隣住民や通りがかりの観光客に見られたらコトだ。困り果てながら、ようやく美郷が拘束を解くと同時、何を思ったか怜路もしゃがみ込んで、白蛇の首辺りに触れた。

「白太さん、何ともねえか? 痛いとかしんどいとか。ビックリしたなあ、ウチ帰ろう、な?」

 ――怜路ー!!

 びょん、と白蛇が跳ねる。途端、その身が縮んで、常識的なアオダイショウの大きさになった。白蛇は宙を舞い、怜路の首元に飛びつく。予想外の動きに、美郷は悲鳴を上げた。

「白太さん!?」

 突然飛びかかり、巻き付いてきた白蛇に対して、怜路は慌てた様子もない。目を丸くした後「おーよしよし」と言いながら、白蛇を襟巻きにしている。

 ――美郷、いや!

「そっかそっか~。オメーの飼い主、厳し過ぎンだよなあ。かあいそーにな白太さん。美郷んトコ嫌んなったか? じゃーどうすっかな~」

 何故かご機嫌のチンピラ大家が、白蛇を巻き付けたまま立ち上がる。鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気で、ちらりと美郷を見遣った。一体どうする気だ、と思いながら、美郷は見守ることにする。厳しくし過ぎて白蛇の機嫌を損ねたことは否定できない。美郷の代わりにご機嫌を取ってくれる怜路が、この場の救世主なのもおそらく相違ない。

「なあ白太さん。そんなに美郷んトコが嫌んなったんなら――母屋おれんちしねえ? おやつ食べ放題だぞ~」

 ――うん!! 白太さん家出、する!

 ニヤッと笑った怜路の提案に、白蛇がご機嫌で頷いた。

「ちょっ……!」

 おやつ食べ放題は聞き捨てならない。止めようとした美郷に背を向けて、白蛇を乗せたままの怜路が歩き出す。

「よし、決まり決まり。じゃ、俺と帰ろうな~。ポッケに入るまで縮めるか? おーよしよし、上手上手。ないない完了!」

 すっかり怜路が蛇遣いである。白蛇は従順に縮んで怜路のオーバーサイズデニムのポケットに収まり、小さくなった頭だけ出してぴるる、と美郷に舌を出した。

「ちょ、え、ええーっ!?」

 その白蛇は美郷のものだ。――そんな主張を誰かにする日が来るなどと、夢にも思っていなかった。チンピラ大家に攫われていく白蛇を、美郷は呆然と見詰める。

「なーに突っ立ってんだ、行くぞ。まだやるコトあんだろが」

 呆れた様子で振り向いた怜路が、そう美郷を促す。たしかにまだこれから、狸と仁王像たちの様子を確認したり、恵子らと話をしたりと忙しい。狸の毛皮が、季節に反して貧相だったのも気になっている。化けの皮を取り上げられた影響かもしれないが、冬毛がないのでは、尾道がいくら穏やかな瀬戸内気候だとしても寒いだろう。

「ささっと終わらせて、観光して帰ろうぜ」

「えっ、観光?」

「せっかく尾道まで来たんだからよ。その辺歩いて、美味いモン食って帰りてえじゃん。あー、帰りの運転お前な! 俺ァ飲む!! んで、尾道ラーメン食って、八朔大福食って、レモンケーキ買って帰る!!」

 満喫する気満々である。力説の合間に、白蛇の「おやつー!」という合いの手が聞こえ、美郷は一気に脱力した。深く深く溜息を吐き、よっこらせ、と立ち上がる。

「――じゃあ白太さん、気が済んだら帰ってきてよね」

 白蛇を外に出したまま街中を歩くのは気分が落ち着かないが、白蛇の気が済むまで怜路に任せるしかあるまい。願わくば、連休の間に帰ってきて欲しいものである。

 そう諦めて、美郷も白蛇の「家出」に付き合うことにした。



おしまい。

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