②【分岐パート・怜路】異界の中

 怜路の後ろを付いて歩き始めてすぐ、地蔵の転がる四阿の前を横切った時だ。不意に、幼い子供のはしゃぎ声が風に乗って遠く響いた。

 全く人気ひとけのない廃集落の中である。驚いて立ち止まると、前を歩いていた怜路も周囲を見回していた。

「今の……子供の声、でしたよね」

 問うた夏生に、怜路が「ああ」と頷く。こんな場所で聞こえるはずのない声だ。ぞっとして、思わず己の二の腕をさする夏生の前で、怜路も「参ったな」と鼻の頭に皺を寄せた。

「おおい、美郷ォ、今の――って、オイ。マジかよ」

 更に前を歩いているはずの、美郷を呼び止めようと進行方向へ向き直った怜路が、そのツンツン撥ねた頭を掻き回した。何事かと夏生も視線を投げるが、そこへ美郷の赤い背中はない。そして――。

「あっ。あれ……! 桜が……!!」

 つい先程まで、ただ冬枯れた荒れ野が続いていたはずの場所に、堂々とした枝垂れ桜の巨木が立っている。それは、遠目にも幹が大人数人で抱えるだけありそうな、高さは三階建ての家屋にも及びそうな大変立派な樹であった。

「おおー……入っちまったか。俺らだけで」

 はーやれやれ、と、怜路が一本銜えかけていた煙草の紙箱をポケットに仕舞う。それを視線で追っていると、気づいた怜路が軽く肩を揺らした。

「異界に入った時は、煙草が効くんだぜ。苦手だったらすまねえ。ま、どうやら目的地が見えたみてえだし、出ちまうよりは行ってみた方がよさそうだな」

 言って、怜路は親指で桜を指した。

「大丈夫、なんですか?」

 まだ背筋がぞわぞわとしている。時間帯は真昼の只中、周囲は明るく晴れ渡っているが、もとより人気ひとけの全く無い場所だ。突然聞こえぬはずの声が響いたり、目の前に無かったものが突然現れたりすれば恐ろしい。さきほど怜路は「異界」と言ったか。そんな恐ろしげな場所を、ヒョイヒョイと歩き回ってもよいのだろうか。

 そう顔を歪めて訊ねた夏生に、少し目を見開いた怜路が明るく笑った。

「ヘーキヘーキ! こんくらい、どってこと無ェよ! さあ、花見だ花見だ!!」

 言って、怜路は桜の方へ歩き始めてしまう。仕方なく、夏生はその後を追った。

 道路を渡り、水路の土手へと緩やかな傾斜を登る。先程まで、周囲は田も畦も雑草まみれで藪を漕がねば何処へも行けなさそうな様子だったのに、歩く土手は綺麗に草を刈り込まれ、春の野花が緑に彩りを添えている。その穏やかさが、逆に薄気味悪い。

 それにしても、あの子供の声は何だったのか。ホラーな想像を拭い去れず、注意深く周囲を見回していた夏生の目に、また驚くものが飛び込んで来た。桜の樹の向こうに建つ、大きな屋敷だ。

「あれが花護の屋敷だな」

 怜路がそう教えてくれる。

「ここは――この桜が夢見る、懐かしい風景の中だ」

 言って、怜路は間近に迫った大きな枝垂れ桜の、目の前に垂れ下がる見事な枝を見上げた。ふわふわと、桜の香りが辺りに漂っている。春の日差しは暖かく、風のない中を蝶や蜂が舞い、遠くホトトギスが歌っていた。

「なんだか……あの世、みたいですね」

 思わず呟く。恐ろしげな異界というよりは、天上にある、懐かしい人々の暮らす場所のようだ。あの大きな屋敷の玄関を入れば、かつて大好きだった、既に鬼籍に入っている家族が出迎えてくれそうに思う。いつかは自分も、そこへ帰れるならば悪くないと思えるような。

「っはは、イイ感覚してるなアンタ。あながち間違っちゃいねえだろうよ。だから――俺達はここで花見だ。向こう側にゃ行かねえ方がいい」

 言って、怜路が目の前の一房にそっと触れる。同時に、ふわりと柔らかく風が吹いて辺りの枝を揺らし、花吹雪を舞わせた。

 暖かな春の日差しを、怜路の見事な金髪が目映く弾いている。

 少しずれたサングラスの奥で、艶やかな緑色の眼が宝石のように光っていた。

 ――思わず、目を奪われる。

 若々しい精悍さと、人懐こさとを併せ持つ目元が、ゆるりと日向の猫のように細まった。

「あー、佳い桜だなあ……!」

 満足げに桜を見上げ、怜路が感嘆する。なあ? と視線を合わせて同意を求められ、まさか桜よりも怜路を見ていたなどとは言えず、曖昧な返事を返す。それを気にした様子もなく、怜路は桜の幹へと歩み寄った。

「ンな桜、隠れっちまってるのは勿体無ェ。そうだろ? 思い出ン中に閉じこもらなくたって、今からいくらでも楽しい声くらいまた聞けらァな」

 優しく語りかける声音は、桜へと向けられたものだった。こんな所に閉じこもるなと、桜に言っているのだ。

 ――桜は、寂しかったのだろうか。こんな、荒れてただ朽ち行くばかりの集落に残されて。人を恋しんだのであろうか。

(だとしたら、なんて――)

 なんと、人間好きな桜なのだろう。なんと寂しがりの桜だろう。思わず夏生も幹へと近付く。脈打つように、力強い凹凸を持つその膚に、そっと触れた。

「俺らの家も、こーいう感じの場所にあンだ。ウチの周りはまだ、たまに帰って来て田んぼ作ってる家があるけどな。こうやって――人が居なくなりゃあ、そこは『こちら側』じゃなくなっちまう。思い出す奴が一人も居なくなれば、そこはもうんだ」

 この青年は、そうして潰え行く山里を惜しんでいるのだろうか。それとも、滅び行くものの美しさを愛でているのだろうか。どちらとも取れる表情と声音に、夏生はただ、「そうですか」と頷いた。

 怜路は、古民家の家主として、美郷を下宿させる形でひとつ屋根の下に暮らしているという。見た目は真反対ながら、和やかに会話する異能の青年二人組。彼らもまた、夏生から見ればこの桜と同じくらいに非日常的だ。

 ふわふわとした陽気に誘われて、夏生の好奇心が自制心の間をすり抜けた。普段ならば初対面の相手に問いなどせぬような、不躾な問いが口から滑り出る。

「狩野さんって、宮澤さんと……どんなご関係なんですか?」

 少し驚いた様子で、怜路が夏生を見遣った。

「あっ! 変な意味じゃなくて……その、ただの大家さんと下宿人さん、って感じでもないので……」

 つい、ポロリとこぼしてしまった問いを、慌てて取り繕う。下世話な勘ぐりをしたワケではないと、伝わって欲しかった。対する怜路は気を悪くした様子もなく、ひとつ鮮やかな色の目を瞬いたあと、思案するように顎をつまんで中空を睨んだ。

「そうだなァ……。ウーン、まあ……変な話するみてぇだけど、俺ァなに、天涯孤独っつーの? 持ち家は俺の実家なんだけど、ガキの頃に事故に遭っちまって、家族もいねーし、実家に暮らしてた頃の記憶もねーんだよ」

 あっけらかんと話された内容は、夏生の想像のはるか上を行くものだった。なんと相槌を打ったらよいか分からず、夏生はただ目を瞬かせる。

「だから……今の俺にとっちゃアイツが唯一、ンだろ、熱出してぶっ倒れた時に、飯持って来てもらえる相手っつーか。まあ、俺が飯作ってることの方が多いんだけどな~」

 そう語る怜路の口調は、内容とは裏腹に軽やかだ。その柔らかな眼差しの向こうには、きっと美郷の姿が見えているのだろう。

「そういう関係をさ、まあ世間じゃどう言うかなんて知らねえけど、アイツは『相棒』つってくれたんだよな」

「相棒ですか」

「そ。変かな?」

 夏生へ視線を戻しての問いは、思いのほか真っ直ぐで真剣だった。自然、夏生も背筋を伸ばして、真っ直ぐ怜路を見詰めて答える。

「いいえ。ぴったりだと思います」

 相方、あるいは、配偶者の意味に留まらない、広義の意味での伴侶。または人生、暮らしを共にしてゆく意味での相棒。短い時間の中ながら、夏生の目に映る二人の関係はそのように見えていた。単に仕事の同僚や、友人の括りでは収まらないのだろうと。

「そっかあ! あんがとな!」

 夏生の返事に、ぱちぱちとふたつ、大きく目を瞬いた怜路が鮮やかに笑った。つられて夏生も笑顔になる。春風にたなびく満開の枝垂れ桜を背景にした笑顔は、自分の宝物を褒められた少年のように、きらきらと眩しい。今日会ったばかりの夏生に、彼らの日常や人生がどんなものかは知るべくもないが、彼らのあり方に己が心から同意することで、彼らを勇気づけられるなら喜ばしいことだ。

「えーと、アンタは……夏生サン、だっけ? アンタもコイツに言ってやっちゃくれねえか。そうだな、できれば……誰か、一緒にコイツを見たいと思ってる相手を念じながら」

 怜路が桜を指してそう言った。

(狩野さんにとって、一緒に桜を見たい相手はきっと……)

 それは、この異界が消えて桜がうつし世に戻れば叶うことだ。夏生は「分かりました」と頷いて、もう一度、そっと桜の幹に手を触れた。



 夏生が桜の幹に手を触れ、共にこの桜を見たい相手を心に思い浮かべた瞬間。ざああ、と強く風が吹いて、周囲を桜吹雪が乱舞した。

 激しく揺れる枝垂れ桜の枝々と、散り舞う桜の花びらが夏生の周囲に夢幻世界を作り出す。それに酔って、くらりと一瞬、意識が遠のいた。

「おー、戻った戻った!」

 ノンビリとした怜路の声で、夏生は我に返る。周囲を見回せば、来た時と同じ無人の荒れ野だ。しかし、視界の正面には、堂々とした満開の枝垂れ桜が風に枝を揺らしている。

「ああ、良かった! 怜路、延原さん、おかえりなさい!」

 少し遠くから、心底安堵した声音で美郷が呼んだ。それに怜路が「おう」と返す。

「やっぱり、土地に縁のある人の方が呼ばれやすいんですね……お怪我はありませんか?」

 夏生らのもとへ駆け寄った美郷は、気遣わしげに夏生へと訊ねた。夏生はいいえ、と首を振る。それに「よかった」と頷いて、美郷がショルダーバッグを足下に降ろした。

「じゃあ、ひとまず作業を済ませてしまいましょうか。延原さんもぜひご協力ください。きっと、その方が上手く行きます」

 にこりと微笑む美郷に頷き、夏生は美郷が開けたショルダーバッグの中身を覗き込んだ。



おしまい。


(次ページは美郷Ver.)

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