③【分岐パート・美郷】異界の中

 美郷の後ろを付いて歩き始めてすぐ、地蔵の転がる四阿の前を横切った時だ。不意に、幼い子供のはしゃぎ声が風に乗って遠く響いた。

 全く人気ひとけのない廃集落の中である。驚いて立ち止まると、前を歩いていた美郷も周囲を見回していた。

「今の……子供の声、でしたよね」

 問うた夏生に、美郷が「そうですね……」と頷く。こんな場所で聞こえるはずのない声だ。ぞっとして、思わず己の二の腕をさする夏生の前で、美郷も「参ったなあ」と頭を掻いた。

「ねえ怜路、今の――って、あれっ? 怜路!?」

 更に前を歩いているはずの怜路を呼び止めようと、進行方向を振り返った美郷が「そんなあ」と声を上げた。何事かと夏生も視線を投げるが、そこへ怜路の派手な金色頭はない。そして――。

「あっ。あれ……! 桜が……!!」

 つい先程まで、ただ冬枯れた荒れ野が続いていたはずの場所に、堂々とした枝垂れ桜の巨木が立っている。それは、遠目にも幹が大人数人で抱えるだけありそうな、高さは三階建ての家屋にも及びそうな大変立派な樹であった。

「わー……。おれたちだけ、異界に入ってしまったみたいですね……」

 脱力した様子で、棒立ちの美郷が桜を見遣る。その頼りなげな様子に、夏生は少し不安になった。

「戻れますかね……?」

 思わず漏れ出た問いは、多分に不安を含んで揺れていた。それに気付いたらしい美郷が、慌てて夏生に視線を合わせ、にこりと微笑む。

「あはは、すみません。戻るのは難しくないと思いますよ。でも……せっかくですから、まず桜の方を確認しましょう」

 言って、美郷はショルダーバッグを担ぎ直した。

「大丈夫、なんですか?」

 まだ背筋がぞわぞわとしている。時間帯は真昼の只中、周囲は明るく晴れ渡っているが、もとより人気ひとけの全く無い場所だ。突然聞こえぬはずの声が響いたり、目の前に無かったものが突然現れたりすれば恐ろしい。さきほど美郷は「異界」と言ったか。そんな恐ろしげな場所を、ヒョイヒョイと歩き回ってもよいのだろうか。

 そう顔を歪めて訊ねた夏生に、少し目を見開いた美郷が「大丈夫です」と深々頷いた。

「あの桜が目的地ですから。おれたちだけでも、入れたからには対応しましょう」

 言って、美郷は桜の方へ歩き始めてしまう。仕方なく、夏生はその後を追った。

 道路を渡り、水路の土手へと緩やかな傾斜を登る。先程まで、周囲は田も畦も雑草まみれで藪を漕がねば何処へも行けなさそうな様子だったのに、歩く土手は綺麗に草を刈り込まれ、春の野花が緑に彩りを添えている。その穏やかさが、逆に薄気味悪い。

 それにしても、あの子供の声は何だったのか。ホラーな想像を拭い去れず、注意深く周囲を見回していた夏生の目に、また驚くものが飛び込んで来た。桜の樹の向こうに建つ、大きな屋敷だ。

「あれが花護の屋敷ですね」

 美郷がそう教えてくれる。

「ここは――この桜が夢見る、懐かしい風景の中でしょう。桜の周りに、まだ多く人の営みがあった頃の」

 言って、美郷は間近に迫った大きな枝垂れ桜の、目の前に垂れ下がる見事な枝を見上げた。ふわふわと、桜の香りが辺りに漂っている。春の日差しは暖かく、風のない中を蝶や蜂が舞い、遠くホトトギスが歌っていた。

「なんだか……あの世、みたいですね」

 思わず呟く。恐ろしげな異界というよりは、天上にある、懐かしい人々の暮らす場所のようだ。あの大きな屋敷の玄関を入れば、かつて大好きだった、既に鬼籍に入っている家族が出迎えてくれそうに思う。いつかは自分も、そこへ帰れるならば悪くないと思えるような。

「そうですね――きっと、それに近い場所だと思います。ここは異界……うつし世と幽世の狭間の空間ですから。みたところ、あの屋敷がこの『異界』のみたいですし。この桜より向こう側には、行かない方が良さそうです」

 言って、美郷が目の前の一房にそっと触れる。同時に、ふわりと柔らかく風が吹いて辺りの枝を揺らし、花吹雪を舞わせた。

 美郷の見事な黒髪も、さらりと一房風に舞う。

 その射干玉の髪を、淡い薄紅の花弁がいくつも飾った。

 ――思わず、目を奪われる。

 常人離れして整った顔が、ふわりと柔らかく微笑む。白磁のように滑らかな頬がまろく緩んだ様子は、まさに天人の如しだ。

「ああ、佳い桜ですねえ……!」

 うっとりと桜を見上げ、美郷が感嘆する。その心から桜を愛でる姿は、見ている夏生まで嬉しくなるものだ。しばし夢中で桜を鑑賞する、美郷のその姿を楽しんでいると、ふと我に返った美郷が慌てて夏生を振り向いた。

「あっ! すみません……お花大好きなので、つい見蕩れてしまいました……」

 恥ずかしそうに俯いて、首筋を掻く美郷に夏生は笑う。

「いえ、私も見蕩れてましたから」

 つるりと滑り出た夏生の言葉を、美郷は「桜に見蕩れていた」ものと思ったらしい。「そうですよね!」と嬉しそうに頷いて、軽い足取りで桜の幹へと近付いてゆく。

「こんな見事な桜、誰にも見られず散ってしまうのは勿体ないです。――ねえ、こんなところに隠れてないで、出て来てください。貴方の姿を見たい人間は、外に沢山いますよ」

 優しく語りかける声音は、桜へと向けられたものだった。こんな所に閉じこもるなと、桜に言っているのだ。

 ――桜は、寂しかったのだろうか。こんな、荒れてただ朽ち行くばかりの集落に残されて。人を恋しんだのであろうか。

(だとしたら、なんて――)

 なんと、人間好きな桜なのだろう。なんと寂しがりの桜だろう。思わず夏生も幹へと近付く。脈打つように、力強い凹凸を持つその膚に、そっと触れた。

「おれたちの家も、こんな風な場所にあるんです。ウチの周りは、ここまで荒れてはいませんけど……。でも、こうして人が居なくなってしまうと、その場所は『うつし世』ではなくなってしまうんですよね……誰にも思い出してもらえなければ、そこはうつし世に存在すらできない」

 この青年は、そうして潰え行く山里を惜しんでいるのだろうか。それとも、うつし世でなくなった場所に憩っているのだろうか。どちらとも取れる表情と声音に、夏生はただ、「そうですか」と頷いた。

 美郷は、怜路が所有する古民家の離れに下宿しているという。見た目は真反対ながら、和やかに会話する異能の青年二人組。彼らもまた、夏生から見ればこの桜と同じくらいに非日常的だ。

 ふわふわとした陽気に誘われて、夏生の好奇心が自制心の間をすり抜けた。普段ならば初対面の相手に問いなどせぬような、不躾な問いが口から滑り出る。

「宮澤さんって、狩野さんと……どんなご関係なんですか?」

 少し驚いた様子で、美郷が夏生を見遣った。

「あっ! 変な意味じゃなくて……その、ただの大家さんと下宿人さん、って感じでもないので……」

 つい、ポロリとこぼしてしまった問いを、慌てて取り繕う。下世話な勘ぐりをしたワケではないと、伝わって欲しかった。美郷もつられたのか「あっ、はい! いえいえ」と慌てた様子を見せた後、うーん、と中空を睨んで唸った。

「そうですねえ……。なんか、変な話しちゃうんですけど、おれって、実家との縁を切ってるんですよね。あっ、でも、家族と仲悪い~とかじゃないんですけど……って言うと、更に謎ですよねスミマセン……。けど、巴市に就職した時、ホントに誰も知り合いとか伝手とかなくて。ひとりぼっちでどうにかやってかなくちゃ、って思ってたんですけど」

 曖昧な微笑みと共に、宮澤はそっと己の肩の辺りに手を触れた。その口が紡ぐ内容は、夏生の想像のはるか上を行くものだ。なんと相槌を打ったらよいか分からず、夏生はただ目を瞬かせる。

「なんですけど、ちょっと引越しでトラブル起きちゃって、そもそも家がないーっ! ってなった時に、離れに下宿させてくれたのが怜路なんです。ちょっとおれ、事情っていうか体調っていうかあるんですけど、そっちの意味でも怜路の家は凄くいい場所で」

 少し目元を赤らめて、俯きがちの美郷がしどろもどろに語る。両手を胸の前で合わせ、右手で左手の指を弄りながらの様子に、夏生まで少し緊張してしまった。

「それから……アイツ自身も、すごくいい奴で。おれの事情とか何とかも、アイツの前だとなんか、ただの笑い事だったり、凄く普通のことっぽくなったりして。――アイツの隣は、すごく居心地が好いんです」

 あまり口にしたくない内容ならば、無理をすることはない。そう止めようかとも思ったが、目を伏せてはにかみ笑いする美郷は嬉しそうで、夏生は口を挟みあぐねる。もしかしたら、誰かに聞いてもらいたい気持ちが宮澤にもあったのかもしれない。

「だからおれは、何か状況が変わるまでは、ずっと同じようにアイツの隣に居たいな~とか思ってて……そういうの、何て言えばいいのか分からないんですけど。なんだろ、暮らしを共にする、って意味で『相棒』って呼んでみたら、怜路も結構気に入ってくれたみたいで」

「相棒ですか」

「はい。あっ、変……ですかね……?」

 おそるおそる、といった様子で、頬を赤くした美郷が訊ねる。ここで、己が水を差す真似などしたくはないと、夏生は背筋を伸ばし、真っ直ぐ美郷を見詰めて答えた。

「いいえ。ぴったりだと思います」

 相方、あるいは、配偶者の意味に留まらない、広義の意味での伴侶。または人生、暮らしを共にしてゆく意味での相棒。短い時間の中ながら、夏生の目に映る二人の関係はそのように見えていた。単に仕事の同僚や、友人の括りでは収まらないのだろうと。

「です、かね。……ありがとうございます!」

 夏生の答えに、少し眉間を歪ませて、くしゃりと美郷が笑った。火照った頬を恥ずかしそうに押さえて、美郷が枝垂れ桜を振り仰ぐ。その漆黒の双眸はきらきらと潤んで見えた。

 今日会ったばかりの夏生に、彼らの日常や人生がどんなものかは知るべくもないが、彼らのあり方に己が心から同意することで、彼らを勇気づけられるなら喜ばしいことだ。

「あっ、そうだ。延原さんは、この桜や土地の所有権を持たれてる……この桜が見守っていた人々の子孫ってことになります。延原さんからも、桜に語りかけてみて頂けませんか? できれば、どなたか一緒にこの桜を見たい方を思い浮かべて」

 顔の火照りをおさめた美郷が、桜を指してそう言った。

(宮澤さんにとって、一緒に桜を見たい相手はきっと……)

 それは、この異界が消えて桜がうつし世に戻れば叶うことだ。夏生は「分かりました」と頷いて、もう一度、そっと桜の幹に手を触れた。



 夏生が桜の幹に手を触れ、共にこの桜を見たい相手を心に思い浮かべた瞬間。ざああ、と強く風が吹いて、周囲を桜吹雪が乱舞した。

 激しく揺れる枝垂れ桜の枝々と、散り舞う桜の花びらが夏生の周囲に夢幻世界を作り出す。それに酔って、くらりと一瞬、意識が遠のいた。

「ああ、良かった。戻りましたね」

 心底安堵した美郷の声で、夏生は我に返る。周囲を見回せば、来た時と同じ無人の荒れ野だ。しかし、視界の正面には、堂々とした満開の枝垂れ桜が風に枝を揺らしている。

「おー! お前ら戻ったか。後ろ振り向いたら誰も居ねえんだもんなあ、参ったぜ」

 少し遠くから、少し呆れた声音で怜路が呼んだ。それに美郷が「ごめんごめん」と返す。

「やっぱ、土地に縁のある人間の方が呼ばれやすいみてぇだな。どっちも無事か?」

 銜え煙草をふかして、大股に歩み寄ってきた怜路が訊ねる。それにおのおの頷くと、「そいつは何より」と怜路は煙草を携帯灰皿に押し込んだ。

「じゃあ、ひとまず作業を済ませてしまいましょうか。延原さんもぜひご協力ください。きっと、その方が上手く行きます」

 にこりと微笑む美郷に頷き、夏生は美郷が開けたショルダーバッグの中身を覗き込んだ。



おしまい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る