潮騒の呼び声 11(終)
11.
「ンでェ、美郷ォ。魚全部オッサンにやっちまったのかよ」
翌日、日が中天を越して傾き始める頃。干潮で陸続きになった斎木島へと干潟を歩きながら怜路はぼやいた。目が覚めたのは昼を過ぎてから、見知らぬ家の客間の布団の中だった。よく生きていたものだと驚いたが、そこは美郷が相当に頑張ってくれたらしい。
「だって、その日の内に帰れないのに生魚が一杯あっても……」
釣りに慣れていない美郷一人では、どうしたものか判断がつかなかったらしい。
「クーラーボックス入ってンだから今朝くらいまでもっただろ。あとは氷入れるなり冷蔵庫借りるなり……」
昨夜の釣果は全て、隣を歩く厳ついオッサン――もとい、暁海の腹に収まったという。かなり型の良いアジが多くあった。全く惜しいことである。
「こら怜路! 釣りに来たつもりでまんまと釣られて海に溺れた痴れ者がぐずるでないわ! 骨を折ってやった儂へ奉納したつもりでおらんか」
ごつ、と後ろ頭を小突かれ、怜路は小さく舌打ちした。言われていることは正論なのだが、どうもこの顔を相手に殊勝になれない。暁海のもとへは子供の頃から定期的に養父より預けられ、徹底的にしごかれてきた。怜路に幾人かいる「師」の一人だが、中でも一等酷い目に遭わされてきた相手だ。
ふふっ、と横で美郷が笑いを漏らす。「怜路、小学生みたいだねえ」と感慨深げに言われて一気に羞恥で顔に血が集まった。空は快晴、風もなく穏やかな海も秋の日差しを照り返す。気温は歩けば汗ばむほどだ。服の下に籠る熱を逃がそうと、襟元を緩めて手で扇いだ怜路に、暁海と美郷が爆笑した。
「ちょっと! なんしよるん!? はよ来んさいや!!」
先頭を前のめりに歩いていた八重香と言う名の少女が、振り返って眉を吊り上げた。「斎木神」としての千夏の巫女だという。昨夜、
殿に残った怜路は、同じくのんびり歩く暁海をちらりと見遣った。もう背は並んでいるのだが、つい斜め上にその顔を探してしまう。怜路にとっての暁海はそういう相手だ。
「――なァ。アンタが天狗だってことは、他の奴等もだったのか?」
怜路の養父は天狗を名乗っていた。実際妖術のようなものも見たし、それは信じていた。だが、他にも人外の者が混じっていたとは気付いていなかったのだ。
「まあ、全員ではないがな。
養父の綜玄がふらりとどこかへ消える時、まだ小さかった頃の怜路をよく引き受けてくれた男がいた。塾講師だというその男に、怜路は中学卒業までの概ねの一般教養を教わったのだ。xだのyだのが何だったかはもうほぼ覚えていないし当時理解していたとも思わないが、その存在は知っている。存在を知っていることが、社会に溶け込む上で役に立った。
「ふーん。……あと、親父が俺を惜しんだ、ってアンタ昨日言わなかったか?」
その文脈は、ただ行きずりで川に流された子供を拾ったことを指しているようには思えなかった。意図を探るように怜路は、暁海の目を覗き込む。その間を隔てるサングラスは今はない。晴れやかな秋の、これぞ行楽日和といった明るい光景が眩しく怜路の視界を埋め尽くしている。
(こうやって、異形にゃ視えねえんだもんなあ)
天狗眼と養父が呼んだこの眼は、よりにもよってその天狗を見分けられないらしい。考えてみれば間抜けな話である。
「おお、言ったぞ。覚えておったか。――綜玄は、お主に己の跡を継がせようとしてお主を拾い、親許にも返さず育てたのじゃ。まあ二親は一緒に流されたようじゃが、祖父母はまだ生きておったであろう?」
確かに、怜路の祖父母は件の事故の後も十年近くあの狩野の家に暮らしていた。記憶を喪っていた怜路には当然与り知らぬことだったが、今さら言われてみれば確かに、ただ人助けであれば家に帰せばよかったのだ。複雑な気持ちで頷いた怜路に、うむ、と腕を組んで暁海が続けた。
「儂ら天狗にも寿命がある。綜玄は相当に古い天狗でな、遥か昔に山へ分け入り修行をし、通力を得て天狗になった。生きながら異形と相成った者ゆえ肉体がある。肉体があれば、こうして難なく人に紛れ、祀る者が居らずとも形を保って己の山を離れ、ふらりふらりと歩き回れる。じゃが、どれだけの通力を得ようと肉の体はいつか滅びるものじゃ。ゆえに、時折天狗は代替わりをする。かつてはそれぞれの山に講があり、中でも最も験力の強い行者が後を継いだものじゃが、もうそのような講も途絶えた山が多い。綜玄の山もそうじゃった。ゆえに、綜玄は己が跡継ぎとして、お主を拾い育てて鍛えた」
何から何まで初耳である。綜玄は、「自称・天狗」という以上のことを全く怜路に語らなかった。その「綜玄の山」なるものが何処にあるのかすら、全く怜路は知らない。ぽかんと話を聞く怜路を面白そうに見遣り、暁海は語る。
「時間にして、六年そこそこか。天狗はおのおの自由に出歩けるゆえ、昔から互いに行き来して連絡を取り合うものじゃ。新幹線などない時代でも、我らの翼ならばここから関東まででも苦も無く行けたからのう。皆、綜玄の寿命が近いことは了解しておった。お主を跡目として育てておることもな。じゃから、あやつがお主を東京に置いて、一人で消えた時は皆目を剥いたものよ」
はっはっは、と懐かしむように笑いながら暁海が明かす。確かに怜路の養父は、怜路を拾って六年後、怜路がどうにか一人で食って行けそうになった頃合いに姿を消した。それまでも怜路を置いてふらりと数日から数か月消えることがあったので、その延長線上のどこかで野垂れ死んだのだと思っていた。――それが、寿命だったのか。
「じゃあ、俺の命を惜しんだっつーのは……」
どこか呆然と尋ねた怜路に、暁海が頷く。いつの間にか、二人の足は止まっていた。
「人間としてのお主を惜しんだ。儂らはそれを、あやつの山に残された書き置きで知ったのじゃ。お主にも伏せろと書いてあったのう。まあもう知っても良い頃合いだったのじゃろう。お主を人として遺すは綜玄坊最期の頼みとして、我らにも助けを乞う遺言書であったよ。よほどお主が可愛かったのじゃろう――天狗として、人の理から外れ何百年も永らえるを強いるに忍びなかったようじゃ。あやつは最後の最期で、人の親になりおった」
故人を懐かしむ声音に、口元が震えた。どうして、何も、と頭の中に向ける先のない疑問が渦巻き混乱する。
「――ッで、ンなこと……! あンのクソ親父ッ……!」
拳を握り締める。今更知って何になる。もう居ない相手には何も聞けないし、何も届かない。――置いて行かれて、恨んだのだ。仕方がない、どうせそんな奴だったと言いながらも帰りを待って、待って、いつしか諦めた。
「はっはっは、言うてやるな。あやつが面倒臭い男じゃったのはお主が一番よく知っておろう。お主に、背負わせたくなかったのよ。それで奴一人で背負って消えた。お主は実の血など繋がってもおらぬのによくよくあやつの性を継いだようじゃが、そういう所だけは似るでないぞ」
ニヤリと人の悪い笑みで釘を刺され、「しねーよ」と怜路は返す。居心地悪く視線を逸らし、眩い水平線に目を細めて怜路は呟いた。
「俺が消えたら日干しになりそうな下宿人が居るからな。野郎のお世話しなきゃなんねーの」
潮騒にかき消されそうなほど小さな呟きを、それでも耳聡く拾ったらしい暁海が高らかと笑った。
美郷らが辿り着いた洞窟の中は、老翁の作り出した高波でごっそりと洗い流されていた。洞窟入口の潮溜まりに、祠だったものの残骸が浮いている。洞窟は神来島から見て背側にあったが、干潮の間ならば苦も無く回り込むことができた。八重香は普段こうして、潮の引いた時間に足繁く「ちーちゃん」――千夏の元へ通っていたという。
洞窟に辿り着き、その有様を見た八重香は呆然と立ち尽くしていた。美郷はそれを追い越し、中に入って様子を見る。何の気配もない。
「ウソじゃ……こんなん……」
ハンドライトで洞窟内を照らしながら、あまり広くはない洞内を探し回った八重香が呟く。
千夏の本体は、一抱えほどの
「ウソつき!! 大丈夫じゃ言うたじゃん! なんでなんこんな……」
言って詮無いことなのは、八重香自身も分かっているのだろう。暁海坊への八つ当たりも尻すぼみに、八重香は俯いて黙り込んだ。洞内にわんわんと反響していた八重香の声が消えた頃、暁海坊が八重香の前に立ってひとつ頭を撫でた。
「すまなんだな。じゃが、上手い具合に――とお主の前でいうのも何じゃが、千夏を封じておる甕が割れておれば、千夏もそのままあちらへ還れるじゃろう。しかし、甕が割れぬまま海底に転がっておれば、千夏は一人で迷うことになる。何か方法を考えて探してやらねばな」
暁海坊の言葉に、怜路が拳を握る。八重香にとっては帰って来て欲しい相手、怜路にとっては必ずしもそうではないだろうが、千夏が一人迷うのは嫌だろう。
(――そういえば迷うって言ったら、白太さんどこだ……?)
一度は美郷と八重香を救い、暁海坊のもとへ運んでくれた。その後、美郷は八重香の救命や暁海坊の相手などで手一杯となり、思い返せば白蛇を身体に戻した記憶がない。和紙の水引を使う式神は水中でそう長くはもたない。美郷が捜索の役に立てるとしたら白蛇が一番だろうと思ったのだが。
(白太さん! どこにいる!?)
沈痛な空気の中で一人大声を上げるのも憚られ、美郷は心の中で半身の白蛇を呼ばわった。どこか遠くで僅かに応答がある。目を閉じ、更に集中して呼びかけると、どんどん応答は近づいて来た。
――美郷!
ざぱん、と派手に波が立って、巨大な白蛇が洞窟に頭を突っ込んできた。――昨晩から、この尋常でないサイズだのだ。普段から大蛇大蛇と言っているが、確実に通常より二回りは大きい。
「きゃあぁっ!?」
流石に八重香は悲鳴を上げる。怜路も「なんだこのサイズ!?」と声を上げた。暁海坊が愉快そうに笑う。様々な声の反響が混じりあって実に騒がしい。四人はおのおの、白蛇の方へ洞窟の入り口へと引き返す。
「おお、帰って来たか! 何処に行っておったのだお主!」
「つか何でこんなデケェんだ白太さん!?」
たまらず突っ込んだ風情の怜路に、暁海坊が得意げに腕を組んだ。
「儂の力をちと分けてやったのよ。老翁の波に流されて儂の浜へ漂着したのでな。お主を助けると言うので助力しようと思ってな」
その話は、美郷も昨晩のうちに暁海坊から聞いていた。美郷自身も海に落ちたにも関わらず、負荷の高い魂結びの術や、神を斬るなどと大暴れできたのも白蛇を通じて暁海坊の力を得られたからだ。しかし、元に戻してもらわねば美郷の中に帰って来れるか心配である。
「白太さん、そろそろ……」
一人、白蛇が何なのか分からず混乱している八重香は暁海坊に任せ、美郷は白蛇に近づいた。鼻先に触れて会話する。
――白太さん、ぺっ、する?
「は?」
何か呑み込んでいるのか。だとしたら吐き出せ、と美郷は命じた。白蛇の太い首が下からうねり、首から口にかけてが膨らむ。
ぺっ。と白蛇が吐き出したのは、まさに今探す方法を考えていた甕だ。
――落ちてた。おいしそう。白太さん食べていい? おやつ?
美郷にすりすりと懐きながら、白蛇はおねだりするように問うた。
「待て待て待て待て!! 駄目だッ! 食べちゃ駄目!!」
慌てて美郷は、白蛇が岩床に転がした甕を拾い上げて抱きしめた。怜路が「おいまさか、」と近づいて来る。その腕に甕を押し付け、美郷は怜路と白蛇の間に立ちふさがった。
「アレは絶対に駄目だ」
――怜路しってる? 怜路大切?
「そうだよ、怜路の大切な人が入ってるんだ。だから食べちゃ駄目」
一応、その辺りはちゃんと気付いて、ゆえにその場で完全に呑み込まず、美郷の許可を得るため持ち帰ったようだ。一応、褒めるべき所だろう。多分。つまらなさそうにした白蛇は、もうひとつ首をくねらせて何か吐き出した。かしゃん、と軽い音をたててそれは岩の上に転がる。
――怜路、大切?
見慣れたサングラスだった。怜路が再び声を上げる。
「……お前、分かってて言ってるな?」
美郷は認識を改めた。おそらく美郷の意を汲んで、代わりに一晩海に潜っていたのだ。たまにこうして白蛇は、美郷が命令せずともその願望を共有して勝手に動く。
「うおお白太ッッさんッッ!!」
甕を美郷に返した怜路が、感極まったような奇声を上げて横合いから白蛇に抱き付いた。幸か不幸か、怜路に今の白蛇の「おやつ」発言は聞こえていない。
「お前探し出してくれたのかーっ! 可愛い! 尊い!! 愛してる!!」
――怜路おやついっぱい。白太さんすき。おやつちょうだい!
餌付けされている。多分、
「八重香さん、暁海坊。千夏さんはウチのペットが発見したみたいです。姿はないですが、大丈夫でしょうか……」
気配はきちんとあるので、海底か白蛇の腹の中に驚いて中に閉じこもっているのだろう。甕を抱えて暁海坊の元まで行き、暁海坊と共にそれを確認した美郷は怜路を振り返った。白蛇の首に抱き付いたままの怜路が頷く。
「八重香さん」
まだ目を白黒させている八重香の前に立ち、甕を持った美郷はその名を呼んだ。
「八重香さんは今後一生、千夏さんと共にこの島で生きますか? それとも、ここでお別れしますか?」
美郷の問いに八重香が目を見開く。白蛇から離れて、それでも少し離れた場所から怜路が言った。
「俺は、肉親の立場としちゃあ姉さんを送ってやりたい。俺にとっちゃ姉さんは死んだ肉親――故人だからな。だがお前にとっちゃあ違う。お前にとっての『ちーちゃん』は、巫女として一生を捧げ共にする神だ。その形を強いていた老翁は消えた。だが、お前さんと姉さんが合意の上で、その関係を続けようと思うなら、ここにもう一度社を作って、その甕を安置すりゃあいい。どうする」
戸惑った様子で両手を胸元で握り合わせ、八重香が視線をさまよわせた。
「ウチは……そりゃあ……でもちーちゃんは? ちーちゃんはどうしたいん?」
「ソイツを聞くのは、お前がお前の結論を出してからだ。まず自分がどうしたいか考えな」
ぴしゃりと返した怜路に八重香は一瞬迷い、ぎゅっと胸元の両手を握った。
「ウチは、一緒におりたい!」
「生涯だぞ。お前が最後の一人になっても、島を捨てないと誓えるか」
「誓える」
その年齢ゆえの向こう見ずさだ、と言ってしまうのは簡単だ。だが彼女は生まれた時から斎木神の巫女であり、千夏は八重香にとっての神であり、姉のような存在であり、友である。その関係は、他人の基準と都合で奪ってしまえるものではない。
今度は怜路が迷うように目を逸らした。怜路の方はこんな問答はせず、狩野の家に連れて帰って弔ってやりたいだろう。だがこうして八重香と千夏に意思を尋ねてから決めることを、事前に怜路と美郷は確認していた。たった一人、荒れた夜の海に出た無謀は褒められたことではないが、そこまでした八重香の強い思いは汲んでやりたいと思ったのだ。
「――千夏さん。聞こえていたら出て来てください。怜路は、貴女を巴で弔うことを望んでいます。八重香さんは、貴女と共にここで生きることを。千夏さんは、何を望みますか?」
(結局、ロクでもないのは変わらないよな)
呪術の世界が作り出す歪みだ。人の命が、死と共に終わらないことは不幸だと美郷は思う。
『ウチは……』
甕からくぐもった声が響き、ふわりと千夏の姿が現れた。美郷の背後を振り返り、怜路をじっと見る。怜路は見詰め返し、「姉ちゃん」と呼んだ。そして、千夏が今度は前を見る。美郷の正面で両手を握り合わせている八重香と相対した。
「八重香ちゃん、大きゅうなったよね。ウチともう変わらんくらい?」
その言葉に、びくりと八重香が竦む。おずおずと頷いた八重香に、千夏が微笑んだ。
「ウチはもう、大きくならんのん。ここからも動かれん。もし八重香ちゃんがやりたいことができたり、好きな人ができたりして島を出たくなった時、ウチが枷になってしまう」
ぶんぶんと八重香が首を振る。そんなことはない。そんなものを望む日は来ない、と。
「老翁はおらんなった。八重香ちゃんも自由なんよ。自由な、普通の女の子」
「ちがう!」
悲鳴のように八重香が千夏の言葉を遮った。
「ちがう、普通になりたいんじゃない! ウチは、ちーちゃんと一緒におりたいんじゃ!」
言われて、今度は千夏が黙り込んだ。その細い肩がわずかに震え始め、俯き加減になった顔がそっと美郷と怜路の方を窺った。その目元には、いまにも溢れそうな涙が光っている。口元をわななかせて、千夏が声を絞った。
「う、うちも……ッ」
それきり黙り込んでしまう。まだ一緒に居たい。消えたくはない。だがそれは、八重香の未来を縛るのは悪いことだ。そう考えているのだろう。
「――姉さんにも、友達ができたんだろ? そいつが」
「りょうちゃん?」
「ごめんな、姉さん。俺もあん時記憶喪失になって、まだ全部が全部思い出せたわけじゃねーんだ。姉さんは? 俺のこと、どのくらい覚えてる?」
問われて、千夏がごめんね、と呟いた。「りょうちゃん」という呼び名と、守らなければいけない弟だったこと。千夏が覚えているのはほとんどそれで全部だという。
「俺も姉さんも、これ以上はもう何も思い出せねえのかもしんねえ。俺の故郷は東京で、姉さんの居場所はここで、もう、それでいいのかもしれねえ。巴の家は――まあ、俺とコイツの、今の家だな」
言って怜路が、美郷の肩を抱く。
「その人が、りょうちゃんの友達?」
そうだ、と怜路が頷くと、千夏は嬉しそうに笑った。笑って、少し俯き加減に後ろに手を組んで言った。
「ウチもね、友達ができたんよ。――八重香ちゃんっていうん。ねえ、八重香ちゃん、もっとずっと友達でおってもいい?」
躊躇いがちに八重香を振り向き尋ねた千夏に、八重香が「勿論!」と大声を上げる。二人分、泣き笑いの眩しい笑顔がはじけた。こうしていると、当たり前の女子高生の親友同士のようだ。
(それでも二人の時間は、残酷に隔たっている……)
だからどうするのが一番良いのか。正しい答えは元からないだろう。それは二人が今と、これから一生をかけて決めることだ。
「最初の約束通り、八重香ちゃんがおる間だけウチもここにおりたい。八重香ちゃんが居なくなる時は、ウチも海に還して」
美郷は頷く。美郷自身がそれをしてやれるわけではないが、神来島の者にそれを約束させてどこかに残しておかねばならない。
レジャーに来たつもりが随分働くことになったなあ、と美郷は内心溜息をついた。
――おやつ! おやつちょうだい!
暁海坊に頼んで、通常サイズに戻してもらった白蛇が怜路と美郷の間を行き来しながら騒ぐ。
「あーあー昨日釣ったアジがあればなあ!」
カナヅチ大家がわざとらしく答えた。ええいうるさい、と美郷はこめかみに青筋を浮かせる。それを愉快そうに眺めていた暁海坊が、美郷と白蛇を呼び止めた。
「これ、美郷。白太さん」
場所は神来白髭神社の駐車場、諸々がひと段落して、やっと巴に帰るため車に乗り込むところだ。幸い三連休だったので明日も休みだが、巴に帰り着く頃にはもう夜だろう。
お詫びの品々を貰い、大量になった荷物の積み込みは怜路に任せて、美郷は暁海坊を振り返った。
「何ですか?」
「白太さんのおやつにこれをやろうと思ってな。千夏とサングラスの礼じゃ」
言って暁海坊が差し出したのは、昨晩借りた刀だ。
「えっ!? ちょっ、待って……!」
と焦って止める間もない。おやつ、という単語に反応して素早く大蛇化し、暁海坊へ寄って行った白蛇の口に、いともあっけなく刀は呑み込まれた。唖然としている美郷の前で、暁海坊が白蛇の頭を撫でる。
「よしよし、どうじゃ美味いであろう。その刀の力を全て吸い取るのではないぞ。吸い取った分だけお主の力をその中に注いでみよ。そして、美郷の求めがあらばそれを柄から吐き出す」
べっ、と白蛇が器用に、暁海坊に指導されたとおり刀の柄を口から出した。
「これはお主の刀として使うが良い。白蛇に刀で相性も良さそうじゃ」
「しかし、これは暁海坊の神刀では……」
戸惑う美郷に暁海坊が「いやいや」と首を振った。
「儂のための刀ではないからのう。あれは何時だったか……そうじゃ、平家の都落ちで瀬戸内の海が騒がしかったそのすぐ後くらいであったかな。その平氏の京から持ち出した太刀の一振りがこの島に流れ着いて、儂のもとへ奉納された。それでまあ、一応今まで面倒を見ておったわけじゃが……良い機会じゃ、お主が持って帰れ」
いやそんな、と困惑しきりの美郷に、良いではないかと暁海坊が笑う。
「確かに手元に来た頃は、当時の太刀の刀身をしておったと思うのじゃが、今では随分と扱いやすそうな大きさになりおって……元から妖刀の類であったのか、儂の気で変化したのか分からぬが、面白い刀であろう。お主は上手くこれを使いこなした。武器はある方が良かろう」
「何故そこまで……そんなにして頂く理由がありません」
なおも食い下がる美郷に、暁海坊は「礼をさせてくれ」と言った。
「儂らは綜玄から怜路のことをよくよく頼まれておったのだが、うっかりあやつを見失ってなあ。儂らの正体を明かしていなかったのが仇となったらしい。狗神を憑けてしもうた時に、儂らも頼らずに姿を消してしもうた。もう十分独り立ちしてやっておったから油断したのもある。我らもずっとあれを見張っておるわけでもないし、ちょくちょくはこうして己の山に帰って休む必要があるからの。お主とこの蛇が救ってくれたのじゃろう。無用の遠慮はするな、今後もお主は、お主の守るもののために刃を必要とすることがあるじゃろう」
そこまで言われれば、受け取るより他になかった。銃刀法に引っ掛からず持ち歩ける刀だ。あれば心強いのは間違いない。ありがとうございます、と美郷は深々頭を下げた。
「こちらこそ世話になった。気を付けて帰れよ、また遊びに来いと怜路にも伝えておいてくれ」
わかりましたと頷き、美郷は既にエンジンのかかっている車へ向かった。空の端に、そろりそろりと薄暮が近寄っている。ライトをつけて車が発進した。
「オッサン何だって?」
「また遊びに来いってさ」
シートベルトを装着しながら返した美郷に、運転席の怜路が「ケッ」と顔を背けた。美郷はそれに苦笑いする。つるべ落としの秋の夕暮に、あっという間に辺りは薄暗い。
「どんな顔して、姉さんに会えばいいかわかんねぇよ」
運転しながら、ぼそりと怜路が漏らす。ほんの小さな島のフェリー発着場までの短い距離だ。海沿いを走る車の助手席からは斎木島も見えた。
「うん」
返す言葉もなく、美郷は頷く。
「つーか! もう俺の姉ちゃんじゃねーし。姉ちゃんアイツに取られちまったし」
ぼそぼそと言う怜路に、もう一度うん、と美郷は相槌を打つ。過去を取り戻すと同時に、決別の時が待っていた。思い出すことは同時に「もう帰れない」ことを確認することだった。過去はもうどこにもない。「今」しか存在しない。
車が港に入る。美郷が車を出て、乗船券を買う。フェリーがやってくるのを、待機場所で待つ。薄暮の海、薄紫色の空を海と島々が切り取った、切り絵のような世界に煌々と光を灯したフェリーが現れる。
「ウチに帰ろう。おれはお前のお姉さんにはなれないけど、一緒に酒を飲むことはできるよ」
美郷が思い付いた精一杯の言葉に、怜路が嬉しそうに破顔した。
了
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お付き合い、ありがとうございました!
「本編」は一旦ここで終了し、「鬼女の慟哭~クシナダ異聞~」へ続きます。
以下は古い物から新しい物まで、雑多なSSが連なっております。
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