潮騒の呼び声 10


 10.


 塩土老翁オジの御神体である、赤子ほどの大きさの石の前に美郷は静かに正座した。左手に刀を持って真正面から石と相対し、そっと柄に右手を添える。

 目を伏せれば、わずかに老翁の気が石の周りを取り巻いて、最後の殻になっているのを感じる。だが、ここまで来れば八重香に頼むまでもない。頼んだところで気付かれるのは同じだろう。

 腰を上げながら素早く抜刀し、右膝を立てながら一閃横に薙ぐ。最後の殻が切り払われた。そのまま脇をたたんで、最短軌道で頭上に刀を振りかぶりながら、左手も柄を握る。

 刃が翻る。

 素早く、静かに。流れるように滞りなく。刃が鍔から滑り出た勢いを殺さぬまま、刀を身体の芯の真上に掲げた。ただ垂直に、天から地へ。

「破ッッ!!」

 己の体重と気魄も乗せて刀を振り下ろす。

 ――斬れる。神来山の霊力を宿して、ずしりと重いこの刀ならば。

 両目を見開き、石の頂に狙いを定め刀身を沈めた。豆腐でも切るように抵抗なく刀が石を両断し、切っ先が板張りの床を噛む。

 一拍の間を置いて、自身が斬られたことに気付いたように石がぱっくりと二つに割れた。

「ぎゃああああアアアァァァァァァァ――――ッッ!!」

 もの凄まじい悲鳴が響き渡る。

 空気そのものを引き裂くような断末魔が美郷の全身を襲う。それを払うように、袈裟がけに血振りの所作を行いながら美郷は静かに立ち上がった。左右に割れて転がった石が、ぼろりと崩れる。それは一瞬で、二つの礫の小山となった。

 作法どおり納刀しようとして、鞘は足元に落ちていると気付く。ほ、と息を吐いて、刀の柄を握ったままの右手を下ろした美郷の傍らで、八重香がぽつりと言った。

「……ホンマに、切れた……」

「はい。斬れました」

 返す美郷の声音には、安堵が滲んだ。本当に、高校卒業以来なのだ。八重香の手前でなければ、間違えて己の足を切る心配をしていたところだ。よっこらせと腰を落として鞘を拾い、納刀したところでにわかに騒がしい気配が下から近づいて来た。複数人の足音と、男の声だ。

「そこにるのは誰な!?」

 壮年の男の声が誰何する。お父さん! と八重香が悲鳴を上げた。さすがに老翁の断末魔が下まで響いたらしい。

 幣殿から廻り縁へ、どたどたと床板を踏み鳴らす幾人もの足音が、開け放たれたままの本殿の戸口からなだれ込んで来る。刀を持ったままの美郷は、ゆっくりと背後を振り向いた。幣殿を上ってきた男たちを睥睨する形で、美郷は口を開く。――自分のような貧相な人間でも、意識的に凄めば多少効果があるのだと美郷は最近気付いた。

「この島に友人と釣りに来ていた者です。友人が海に落ちたので海上保安庁を通じて、救助依頼をしていたはずですがどなたがご存知ありませんか」

 神や妖魔の類が人の命を軽んずるのは、是とは言わないが「そういう存在だ」と納得もする。納得する代わりに、美郷はそういった連中を容赦なく調伏もするし、斬るのだ。だが、生きた人間同士ならばまた話は変わってくる。

 低く響かせた声に、あからさまに男たちが怯む気配を見せた。わざと救助要請を無視しているのは、皆示し合わせた上でのことらしい。思わず拳に力が籠り、カチリと左手で鍔が鳴った。気付いたらしい数人が、チラリと美郷の手元を見る。

「――っ、し、知らん! 何の話や!」

 無理矢理首を横に振った男に、美郷の奥から八重香が食って掛かる。

「ウソじゃお父さん、知らんワケないじゃろ!」

「八重香! お前はそこで何をしよるんじゃ!?」

 その姿をみとめ、更に形相を険しくした男――八重香の父親が、足音も荒く美郷の脇を通って八重香の方へ向かう。対する八重香も真っ向から立ち向かうように肩を怒らせ数歩前に出た。父娘が美郷の真横で衝突する寸前、美郷は鞘に入ったままの刀を逆手に握って水平に胸元まで持ち上げた。鞘の尻が遮断機のように父と娘を隔てる。

「八重香さん、おれに話をさせてください。――貴方がこの神社の宮司殿ですか」

 宮司と呼ぶよりは海の男といった方がしっくりくる風体の、壮年の男が美郷の問いにぎくしゃくと頷いた。

「貴方がたの、神来白髭神社の御神体はおれが斬りました。理由は、ここの祭神、塩土老翁がおれの友人を殺し斎木神にしてしまうのを止めるためです」

 言って、鞘に覆われた切っ先を宮司の胸に向ける。気圧されるように一、二歩宮司が退いた。その分美郷は一歩、二歩と前に出る。

「かっ、刀なんぞどこからッ……!」

 のけ反って後ずさりながら、宮司が喘ぐ。美郷は軽く目を細めた。さて、何をどこまで説明し、どうこの場から撤退するべきか。怜路の方は暁海坊が回収していると信じたいが、あまり悠長にしていられる気分でもない。

 なんと答えるか思案していた美郷の頭上から、大きな羽ばたきの音と野太い声が降ってきた。

「そこまでじゃ! 美郷、怜路はここじゃ。そちらの娘にしたように、魂結たまむすびの処置をしてやってくれ。あまり悠長にはして居れぬぞ」

 ほぼ裸の怜路を肩に担いだ暁海坊が、美郷と宮司らの間に着地する。

「暁海坊! ――怜路!!」

 ぐったりと意識のない怜路の冷え切った体を受け取って、美郷は急いで本殿の奥へ入った。板の間に寝かせて脈を取る。その弱さにぞくりとした。黄ばんだ蛍光灯に照らされる顔が、別人のように白い。手早く髪を解いて数本を抜き、銜えて湿らせ纏めて怜路の手首に括りつける。両手を腹の上で組ませ、両の手首を髪で繋いだ。

 寝かせた怜路のすぐ横に正座て二礼し、大きく二つ柏手を鳴らす。

 両手を合わせたまま、美郷は神歌を唱えた。

「清く陽なるものは、かりそめにも穢るること無し。千早振る神の御末の吾なれば、祈りし事の叶わぬは無し。ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここの、たり!」

 腹の上で組まれた両手を握った。深く息を吸い、握った手から己の気を相手に流し込むように観想する。

「ふるえ! ゆらゆらとふるえ!!」

 魂を繋ぎ止めろ。死の眠りに就きかけた身体を奮い起こせ。

 びくん、とひとつ怜路の体が痙攣し、再び弛緩して深い呼吸を始めた。脈に力が戻ったのを確かめ、美郷はほっと息を吐く。下着一枚の姿になにか掛けてやろうと、己のシャツのボタンを外しかけたところで、八重香が上着を差し出してくれた。元々怜路のものである派手なスタジャンだ。

「ありがとう」

 別に、とそっぽを向いた八重香に笑って、ひとまず怜路にジャケットを掛けてやる。自分よりも大きく、筋肉質で重たそうな怜路を抱えて移動する自信はないな、と暁海坊を見上げると、暁海坊がうむ、と頷いた。そういえば、烏天狗の面をしていない。面の下にあったのは、ごく当たり前の人間と同じ男の顔だった。声から想像できるとおりの、雄々しく豪快そうな顔立ちだ。

「さて、塩土老翁の氏子どもよ。お主らの奉る神は、人間の命をひとつお主らの島の為に消そうとした。そしてこやつは、その命を生かす為にお主らの神を斬った。互いの言い分はともあれ、一人の命と島の未来とを賭けた勝負に、こやつが勝った。今夜ここで起きたのはそれだけのことじゃ。儂は神来山暁海坊と申す者。ゆえあって老翁ではなくこの若者に与した、まあ、この島の天辺に棲む天狗じゃのう!」

 誇示するように背中に生えた鳶の翼を羽ばたかせ、実はTシャツGパンとごく当たり前の服装をした天狗ががははははは、と豪快に笑った。呆気にとられる老翁の氏子らに、幾分優しい声音で諭すように言う。

「塩土老翁の神籠石は砕けたが、たとえこれが石塊いしころになろうと、砂粒になろうと、お主らに奉る気があればまたいずれ、神としての姿と力を取り戻すであろう。神が本当に死ぬのは、人に忘れられた時だけじゃ」

 暁海坊の姿と言葉にすっかり気勢を削がれ、男たちが戸惑ったように顔を見合わせる。その場に流れた微妙な空気を裂いて、「ああっ!」と悲鳴を上げた八重香が本殿を飛び出そうとした。すかさず暁海坊が止める。

「離して! ちーちゃん! ちーちゃんはどうなったん!?」

 己の目的を思い出した八重香が暴れるのを片腕で抑え込み、暁海坊が息を吐いた。

「儂も怜路を拾って帰るのに急いでおったからな、老翁に弾き飛ばされておったが、洞窟の奥の社に安置された本体が無事ならばすぐに戻って来るであろう。今日はもう休め、お主も限界じゃろう」

「でも! でも!!」

 びくともしない腕にかじりついて暴れる八重香に、仕方ないと暁海坊がゆるゆる首を振った。

「お主だけではない。美郷にももう、お主に付き合ってやれるほどの体力は残っておるまい。儂もそうじゃ。――今夜はもう、眠るが良い」

 暁海坊が優しく囁く。ずるり、と八重香の体が弛緩した。そのまま意識を失った八重香を、暁海坊が宮司に預ける。

「お主らは、今夜の間に今後のことでも話し合っておけ。老翁はお主らにとっては良い神であったろう。ただちと仕事熱心過ぎただけでのう。さきも少し言うたが、居付き神の方は祀られた社が無事であれば健在じゃ。巫女の意見も聞いて今後を決めてやれ。別に今更儂を祀れとも言わぬ。好きなようにするが良い。ああ、しかし今夜一晩は、そこの二人に温かい布団を用意してやってくれ。もう島を通る船はない時間であろう」

 言われて、美郷は時刻を確認しようと携帯をポケットから取り出した。が、どのボタンを何度押しても画面は真っ暗のままだ。

(――ッしまったあぁぁ!! 水没っ! しかも海水!!)

 美郷の携帯に防水機能などと高価なものがついているはずもない。一気にどっと疲労感が押し寄せ肩を落とした美郷を、色々と取り仕切ってくれた暁海坊の野太い声が呼ばわった。




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