潮騒の呼び声 9

9.


 大量に流れ込んで来る海水が、怜路の足元を浚おうとする。裸に裸足の怜路は千夏を庇いながらそれに抵抗して踏ん張った。あっという間に海水は洞窟の奥まで達し、更に水位を上げる。踝が浸かり、ふくらはぎが浸かり、膝裏が浸かった。動こうとして迂闊に片足を上げればすぐに流されそうな、圧倒的な波の力だ。腿が浸かり、腰まで達し、いよいよ胸元に海水が迫る。

「りょうちゃん、ウチのことはエエけ……! ウチは波で溺れたりせんけぇ!」

 腕の中で千夏が言う。だがもう、今更離して何か状況がよくなるわけでもなさそうだ。返事代わりに、千夏を見下ろしてにっ、と笑う。

「俺、姉ちゃんの背越したぜ。大丈夫、大丈夫だ――」

 何の根拠もなく言い聞かせる。千夏の肩が水に浸かった。水の勢いは緩やかになっていたが、今度は浮力で足元がおぼつかなくなってきた。

 白熱灯の暗い朱色を水面に反射しながら、漆黒がせり上がって来る。泳げる、せめて浮くことができる自信があればもう少し気持ちも違うだろう。

(海水、冷てェな……)

 脇腹や胸元が直接水に冷やされれば、どんどん体温は奪われて行く。

 とうとう体が浮いたらしい千夏が、怜路の背中を軽く叩いた。捕まえたまま水に沈めるわけにはいかないと、怜路は腕を緩める。――本当はもう、そんな心配もないのだろう。海水に浮いた千夏が、水面の上に立つオジを睨んだ。

「りょうちゃんを……死なせたりせん!」

 流れに逆らい、千夏がオジへと海水を蹴った。両腕で水面を叩き体を起こす。陸へ這い上がるように海面へと立ち上がって、千夏がオジへと走り寄った。その姿を追って、怜路は背後へ体を捻る。片足がふわりと浮いた。

『無駄なことを! ぬしは我が下僕しもべ。歯向えると思うてか!!』

 高鼻天狗の面にくぐもった声が、狭くなった空洞にうわん、うわんと響くのと、千夏の悲鳴がいっしょくたになって怜路の水没しかかった耳に届く。

 姉を呼ぶことすらできず怜路が水底に沈みかけたその時、突然一気に水が退き始めた。

 波に浚われる形で、怜路は海に放り出される。一度は波に飲まれたが、もがいていたら千夏が水面に引っ張り上げてくれた。ほんの僅かな明かりを頼りに、怜路は周囲を見回す。

『――貴様! 何故姿を現した!?』

 オジが吠えた。答えるように高らかと、鳶の鳴き声が天から降って来る。

「トンビ……?」

 空を見上げ、不思議そうに千夏が呟いた。同じく天を仰いだ怜路の目に、鈍く光る大きな双翼が映る。一度大きく羽ばたいたそれは鋭く滑空し、怜路の近くに舞い降りた。気付けば、鳶の翼を背負った男が、怜路に背を向けて立っている。うっすらと狐火のような熱のない光を纏い、顔には烏天狗の面をつけていた。

「なあに、ちとこの坊主には縁があってなあ。塩土老翁よ、ここは退いてくれんか」

 野太い壮年の男の声が、のんびりと老翁オジに問う。それと裏腹に、苛立ちを露わにした様子で老翁オジが答えた。

『それはできぬ! そやつは島の為に必要な贄じゃ。我はこの島を守らねばならぬ!!』

「――人の為の神か。哀れよのぉ……」

『黙れ!!』

 遠く思いを馳せる声音の烏天狗に、老翁が怒りに体を震わせる。烏天狗の声に覚えがある気がして、怜路は必死に記憶を掘り返していた。

「遠からず、この島には誰も居なくなる。さすればお主のお役目も終わりじゃ。儂のもとへ還って来るが良い。――流れは止められぬ。お主がどれだけ抗おうとも、止められる流れではない。時代というのは変わるもんじゃ」

 時代に流され、人が消える。どこの地方も同じだ。この国は末端から静かに衰退している。山からも海からも人が消えてゆく。

(人の為の神……還る……この烏天狗が『本体』か)

 ばさりとひとつ羽ばたき、烏天狗がいまだ海水に浸かっている怜路の方を向いた。

「おう、怜路よ。儂を覚えてはおらぬようだな。薄情な坊主じゃ」

 楽しげに言って、烏天狗が面を外す。その顔には、見覚えがあった。

「――ッ! アンタ親父の!!」

 友人、と名乗っていた得体の知れない連中の一人だ。養父からは山の仲間だと説明され、勝手に同門の修験者だろうと思っていた。怜路を山やら川やらに放り込んで、実地訓練でサバイバルを叩き込んだ人物である。思わず大声を出したせいで、体が沈む。慌てた怜路に烏天狗が大きく笑った。

「相変わらず、泳ぎだけは覚えられぬようじゃのお。どれ、居付き神の娘よ岸まで運んでやれ」

『させぬわ!!』

 ざばんと大きく波が割れて、千夏が引き離される。波にあおられた怜路の腕を烏天狗が掴んだ。

「強情な。掴まれ、ずらかるぞ」

「アンタが野郎の本体なんだろ、倒せねェのかよ!」

 空中に引っ張り上げられながら怜路は問う。少し苦く笑って、烏天狗は首を振った。

「人に祀られた神は強い。もうすっかり忘れられておる儂では、すぐに吹き散らされてしまうわい」

 彼らの大本は、恐らく島そのものだ。島の宿す霊気が凝って精となり、人に名付けられて神となる。名を与え、輪郭を与えるのは人間だ。人間が居なくともそこに島があるかぎり「島の霊」は存在するが、それは名も形も持たないただの力場のようなモノである。この烏天狗は島そのものを祀られた神だが、既に島民は忘れて久しいといったところか。――古来より信仰される山の神は、しばしば「権現」と呼ばれ天狗の姿で描かれる。

『逃がさぬ……! 逃がさぬぞォォ……!!』

 猛る老翁に呼応してにわかに海が時化始めた。突風に煽られた烏天狗が幾度か羽ばたいて体勢を整える。怜路の肩を担いだ状態では重く、バランスもとり辛いのだろう。

「耐えろよ怜路。折角、綜玄そうげん坊が惜しんだ命じゃ。容易く手離すでないぞ」

「惜しんだ?」

 綜玄は、怜路の養父の名だ。

「左様。それに面白いモノにも気に入られておるではないか。あの時はなぜ綜玄が、五年以上の苦労をフイにしてまで主を惜しんだか分からなんだが……あのような大蛇に懐かれておるとはのう。今しばらく耐えろ、あの白蛇精は、お主の為に神を斬ると言い切ったぞ!」

 白蛇精、と一瞬戸惑い、美郷のことだと思い至る。何か言葉を返そうとして、呂律が回らないことに気付いた。ずるり、と烏天狗の肩に掴まっていたはずの右腕が落ちる。濡れた身体に風が吹き付け寒いはずなのに、不思議なくらいその冷たさを感じない。

「いかん……!」

 慌てた声と共に、烏天狗が怜路を担ぎ直す。その隙を見逃さず、老翁が突風を吹かせた。視界が霞み始める。体勢を崩した烏天狗と怜路に老翁が迫る。その枯れ枝のような腕が振り上げられ、怜路の胴を掴む烏天狗の腕を狙った。もう怜路に力は残っていない。烏天狗の腕が離れれば、海に墜落するだけだ。

 荒れる海鳴りが怜路の中を埋め尽くす。否、これは耳鳴りか。混濁してぼやける意識の中で、赤い高鼻天狗の面だけが正面から怜路を睨み付けている。そして――。

 ぱんっ。と乾いた音を立てて、怜路の目の前で、赤い高鼻天狗の顔が縦真っ二つに割れた。

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