潮騒の呼び声 7

 7.


 ――怜ちゃん、怜ちゃん!

 姉が呼んでいる。

『怜ちゃん! もう、こんな所におったん……』

 庭木の陰に蹲っていた怜路の背中に、安堵と呆れの混じった溜息が届く。

『先生もビックリしとっちゃったよ。まだ待っとってじゃけ、戻りんさい』

 優しく宥める姉の言葉に、怜路は膝を抱えたまま首を振った。まだ、悔し涙が引っ込んでいない。もし「謝りなさい」などと言われたら、今度こそ悔しさでどうにかなってしまいそうだ。――怜路は悪くない。あんな風にあることないこと騒ぎ立てて怜路を化物扱いした奴になど、下げる頭はない。

『怜ちゃん、別に先生も怒っとってんないよ。泣きんさんな』

 背後から軽い足音が近づいて、怜路の背中を柔らかい手がさする。ひとつ大きく鼻を啜った怜路に、くすりと姉が笑った。

『大丈夫、大丈夫……。怜ちゃんを悪う言う奴のことなんか、気にしんさんな。――もっと大きゅうなって、頑張って勉強して、遠くの高校行って、大学行って、したら絶対どっかに、怜ちゃんのこと分かってくれて、友達になれる子がおるけ。じゃけえそれまでは、ウチがったげるけ』

 ――約束、ね?




 喪っていたはずの記憶だ。ああ、これはもしかして走馬灯というやつか、と怜路は感動していた。本当に見るものなのだ。




『こんなデケェ岩、持ち上がるワケねーだろクソ親父!!』

『持ち上げねェと飯は出ねえぞクソガキ! 体の使い方と気の練り方だ、腕で持とうとすんじゃねェ、腹の底に力を溜めろ!』




 ――おれが一緒にいたいのも、助けたいのも必要とされたいのも、顔も知らない相手や他の誰かじゃない。お前を必要として、お前の幸せを望む奴だっている。

 ――おれがお前には元気でいて欲しいから、おれのためにやってることだ。

 ――よろしく、『相棒』




 腹の底に力を溜めろ。腕で力を使うな。もっと奥から、引っ張り出せ。 

 歯を食いしばり、見えない戒めを引きちぎる。解放された怜路の両手が、天狗面の手首を掴んだ。枯れ枝のような老いて乾涸びた腕だ。万力を込めて、己の口鼻を塞ぐ老いた手を引き剥がす。

『しぶとい男だ。だがそれでこそ、今一度この島を再生させうる斎木神となろう……!』

 吠えて飛び退り、オジが怜路と距離を置く。解放された怜路は、激しく咳き込んで肩でぜえぜえと息をした。

「るせェ……島の亡霊が。俺ァ、テメェの養殖場の、魚の餌になる気なんか無ェ……」

 高鼻天狗の面に、乱れた白装束の老翁ろうおうが怜路と相対している。これが『オジ』だ。老翁と書いてオジと読む。製塩と航海の守り神であったか。

「ノウマクサンマンダ、バザラダン、カン!」

 震える指で印を組み、不動明王の炎を呼ぶ。炎が老翁と怜路らを隔てたのを確認して、怜路は荒い息の下、千夏に語りかけた。

「姉、ちゃん……」

 呼吸が苦しい。どれだけ息を吸っても息苦しい。両膝を掴んで体を支え、怜路は言を継ぐ。

「ごめん、姉ちゃん、ごめん。オレ、友達ができたんじゃ……」

「……うん」

 既に人でない姉は、岩壁に叩きつけられても怪我は負っていない様子だ。立ち上がり、近づいてくる千夏が頷いた。常人の眼には視えない幻炎に、だが怜路の眼には、姉の姿は明るく照らされて見える。最後に別れた時の、キャンプに出掛けた時の服装そのままだ。

「オレとおんなじ、変わったモンが見える奴で、けどオレより頭良くて、強いんじゃ。……けど、」

 遠い遠い、封をされていた記憶。優しい姉のしてくれた約束を、思い出した。高校にも大学にも行けなかったけれど、友達はできた。難しい男だ。たった一人で、現世と闇の端境に立っている。人に手を差し伸べるのは躊躇わないくせに、他人の手を取るのが恐ろしく苦手な奴だ。誰も心底信じようとはせず、一人ぼっちで生きるために必死で足元を睨みつけていた。

 無理矢理その腕を引っ張って、怜路はその男を――美郷を振り向かせた。

 必要だと言ってもらえるのが嬉しくて、もっと必要としてほしくて。本当に信じてくれたのかは知らない。だが、今、怜路が掴んだ手を離すわけにはいかないのだ。美郷を、裏切ることはできない。

 ――やっと名前のついた関係を、断ち切ることはできない。

「けど、難しい奴でからねッ、オレが――オレが、っちゃらんと、いけんのんじゃ……!」

 肩で喘ぎながら、ぼろぼろと涙を溢して怜路は絞り出す。

「うん、うん――」

 頷く千夏の声も上ずっていた。涙を堪える表情で、千夏が泣き笑う。

「じゃけえ、ごめん。オレは、姉ちゃんの身代わりには、なれん」

 今の自分は、誰かの代わりに死んでやることはできない。

「うん、エエんよ。エエん。姉ちゃんもね、友達が――」

 千夏の手が、いつかのように怜路の背中に触れた、次の瞬間。幻炎が消し飛んだ。雪崩を打って、洞窟に海水が流れ込む。足を浚いにくる激流に、怜路は千夏の細い体を庇い抱きしめた。




 どこからともなく提灯を出した暁海坊にいざなわれて、打ち捨てられた風情の鳥居を抜け、ほんの三分も山道を歩かないうちに美郷らは別の浜に出ていた。闇夜である。美郷にはそこが見覚えのある場所か否かも全く分からなかったが、美郷の前を歩いていた八重香は驚きの声を上げた。

「ここ、ウチの浜じゃ……!」

 美郷が八重香と出くわした、神域の浜のようだ。

「左様。お主らの獲物はこの先、娘、お主の家の隣じゃからのお」

 立ち止まり、振り返った暁海坊が頷く。受け取った刀の鞘を握り、美郷は気合を入れ直した。

(斬れる刀があるんなら、今更躊躇う理由もない)

 既に一度、「神」であったものを滅している。

 ――それよりもずっと前。理不尽に殺されかけて誰の助けも望めず、世界の無慈悲さを心底恨んだあの夜に、美郷はそんな躊躇いは捨てたのだと思う。

 暁海坊ぎょうかいぼう塩土老翁しおつちのおじを「己の分身のようなもの」と言った。元々、この島の頂に住む山神として信仰されていた暁海坊の呪力の一部――おそらくは、神来山の呪力が籠もった自然物を御神体に、塩土老翁の名を付け別の神として祀ったのが「オジ」なのだろう。塩土老翁は製塩と航海の神だ。江戸時代、瀬戸内で盛んになった製塩業の守り神として勧請され、信仰され始めたといったところか。

(人のために呼ばれ、人のために働く神。それに、生きた人間を殺されるわけには行かないんだよ……!)

 闇と現世の境を守る一人の呪術者としても、狩野怜路の友人としても。

「ここから先は、娘、お主が案内せい。儂はこの先には入れぬゆえな」

 提灯を八重香に手渡し、暁海坊が言った。神社の結界が機能しているのだろう。戸惑った表情の八重香に、美郷は「よろしくお願いします」と軽く頭を下げる。うん、と頷いた八重香が暁海坊に向き直った。

「ウチは? ウチは案内するだけで終わりなん」

 美郷と共に、神を斬れるかと問われたのだ。その覚悟を決めた八重香にとって、役目が案内で終わりは肩透かしだろう。

「はっはっは、安心せい。お主の仕事もまだまだある。案内と言って、いつもの拝殿に上がれば良いだけではないからのう。儂の呪力が宿ったその刀を持って、本殿に上がり奴の本体の前まで行くには幾重にも障壁がある。それは、巫女であるお主が開いてゆけ。作法はお主が今まで習ってきたものじゃ。良いか、迷うなよ。奴の意識は今、あの小島にある。気取られぬうちに近づき、叩っ斬れ。時間との勝負よ。ほれ、とうとう潮が完全に満ちた」

 闇に沈む海を見遣り、暁海坊が言う。波打ち際が分かるほど明るくないが、確かに波音は近いように思えた。

「行きましょう、八重香さん。おれを、老翁オジの本体まで案内してください」

 促した美郷に、「わかった」と八重香が歩き始める。

 追って砂を踏み出した美郷の背後で、大きく羽ばたきが聞こえた。振り返った美郷の視界の上を、鈍く光る猛禽の翼がよぎる。

とんび……)

 天狗はその身を鳶に変えて空を飛ぶと言われる。烏天狗の面をつけた暁海坊は、本当に古くからのこの島の山霊なのだろう。

 大きな鳶が美郷らの頭上をひとつ旋回して、海の方へ消える。旧友との約束、と暁海坊は言った。それはおそらく――。

(踏ん張れよ、怜路。お前の命は、お前が思ってるほど軽くないんだから)

 一度は、見も知らぬ他人の為に己の命を投げだそうとした男だ。だが、本人にその意志さえあればいくらでも生き残れる、美郷などよりよほどサバイバル能力の優れた男だ。

『相棒』の無事を信じ、美郷は八重香の背を追って駆け出した。

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