潮騒の呼び声 6
6.
――白太さん、怜路すき?
――白太さん、怜路すき! 美郷、怜路すき?
――白太さん、美郷、おんなじ?
(そんなの、当たり前じゃないか……)
美郷と白蛇は、「同じもの」だ。
八重香が目を覚ましたのは、冷たい砂の上だった。目を開けても閉じているのと変わらないくらい、視界は真っ黒に塗り潰されている。正しく己の手も見えない闇だ。そして、寒い。芯から体が冷え切っている。仰向けの顔には細く雨粒が落ちていた。
一体何がどうして自分がここにいるのか思い出せず、八重香は小さく呻いた。それに気付いたらしい傍らの気配が動く。
「八重香さん。良かった……無理に動かないでください。溺れたんです、覚えてますか?」
上から、青年の声が降って来る。宮澤、と言ったか。よくよく目をこらせば、人の頭の形に空が黒く切り取られている。といって、空もほとんど黒だ。両手を動かそうとして、自分の上に布が掛けられているのに気付いた。上着のようだ。宮澤が羽織っていたものだろう。
「両手、組んだまましばらく離さないでください。そのまま横になってて。大丈夫です、じきに体が温まって来ますから」
優しく言って、宮澤が上着越しに八重香の手をさする。その労わる響きに、不覚にも涙腺が緩んだ。
(大丈夫、どうせ見えてない……)
言い聞かせ、嗚咽だけは耐えるため歯を食いしばる。生温い涙が、冷え切った頬をこめかみへ流れた。何故、という思いと、うしろめたさと情けなさ。気負い込んでいた緊張の糸が失意に緩んでいたところに、見も知らぬのに巻き込んだ青年の、八重香を責める様子を欠片も感じない優しい声音が追い打ちをかけた。ひっく、と結局喉が鳴って、優しく八重香の手をさすっていた宮澤がしっかりとその手を握る。
「大丈夫、危険はないから。もうじき動けるようになるよ。――それまでは、頑張らなくてもいいから」
そこまで言われると、もう駄目だった。勝手に喉がしゃくり上げて涙が零れる。
「うぅ、うわあぁぁあぁ――ッ……!」
組んだ両手の指を握り合わせて震わせ、八重香は唸るように泣いた。宮澤が慰めるように、子供を寝かしつけるように、優しいリズムで八重香の手をぽん、ぽん、と叩く。
(ちーちゃん、ごめん……ごめんなさい……ウチ、ちーちゃんを助けられん。ちーちゃんは、もうウチが要らんのん? なんで、なんで――)
ずっとずっと、一緒だったのに。過疎高齢化の進んだ小さな島に、八重香の同年代はいない。周囲は大人ばかりで、『ちーちゃん』は八重香が物心ついた時から、唯一の遊び相手だった。八重香の歳がちーちゃんに追いついて、島の外の高校に通うようになってもそれは変わらない。八重香にとっての一番は常に『ちーちゃん』だった。なのに。
仰向けのまま身を捩って、唸るように吠えるように泣き続けた八重香は、泣いて、泣いて、泣き疲れて、火照った体と荒い呼吸と、優しくリズムを刻む宮澤の手が全てになって――。
そのまま、再び意識を手放した。
『如何にも――。その
海鳴りのような、低くくぐもってざらついた声が洞窟に響いた。呆然と『ちーちゃん』――十六年前に喪った姉の千夏を見つめていた怜路は、はっと声のした海の方を振り返る。
「テメェが『オジ』か」
低く、呻るように返した。
正直、結局千夏の顔は思い出せていない。怜路の記憶が、突然一気に戻って来ることもなかった。だが、この少女が狩野千夏であることは不思議と確信できる。
ならば、この状況を怜路が許せるはずもなかった。
「よくも他人の姉貴を、こんな場所にッ……!」
例え丁重に祀られているのであっても。きっと常世の安寧の中へ還ったはずだと思っていた肉親が、時を止めたまま洞窟に囚われているなど耐えがたい。激情のまま吼えた怜路の前に、凝った闇がぬぅっと立ち上がった。真正面に、突然高鼻天狗の赤い面が浮く。
『ならば、主が代わるが良い。その女子がこんな場所まで流されたのも、結局主を守ったが為じゃ』
オジの言葉に、怜路は瞠目して黙り込む。
『川上で龍神の作った濁流に襲われて、主を庇って己が飲まれた。庇われた主は生きて岸に流れ着き、こうして立派に成人した。主は姉を身代わりにして生き延びたのじゃ。なれば、今度は姉の身代わりになるが良い』
凍り付いた怜路の鼻と口を、オジの両手が覆う。覆われた感触は人の手などではない。海水そのものが、怜路の鼻と口を塞いで窒息させている。抵抗しようとして、四肢が動かないことに気付いた。縛られている。オジの呪力だ。
「りょうちゃ――きゃあっ!」
怜路からオジを引き剥がそうとしたちーちゃん――千夏が弾き飛ばされる。細く軽い体が、岩壁にぶつかってくずおれた。
姉は、大人だった。
輪郭をほとんど持たないイメージでしかない。だが、怜路と千夏の年齢は七つ離れていた。当時小学生の怜路と、高校生だった千夏の差はとても大きかった。怜路の中で、姉は大人だった。
だが、蹲るのはほんの「少女」だ。
十六年の間に、怜路は千夏の年齢をとうに越した。越して、大人になった。
まだ、たったの十六だった姉を犠牲にして。
(克樹――。克樹、お前ェ……どうやって受け入れた?)
思わず目を閉じる。かの傲岸不遜で甘ったれの少年は、しかしどうやって気持ちの整理を付けたのか。美郷はまだ息をしている。確かに、その体は温かい。だが、克樹の愛して止まない異母兄は、彼の寂しがりの我儘を聞いて――人と呼べるか怪しいモノになった。
「ウチは……べつにいい。このまんまで構わんけ、りょうちゃんに手を出さんとって……!」
息が苦しくなって、とうとう口が開く。磯臭い海水が口に流れ込んだ。咳き込みかけるが、それすらオジの戒めが許さない。肺に水が入る。
美郷は苦笑していた。克樹が負うことではないと。だが、納得できただろうか。自分なら、納得できるだろうか。千夏は庇ってくれる。怜路は悪くないと、怜路は健やかに生きろと守ってくれる。だが――そんなことが、許されるのだろうか。
『主がこのまま
地鳴りのようにオジが謳い上げる。頭の芯がじんと痺れてきた。溺れる。
(ごめん……ごめん、姉ちゃん。俺のせいで)
はたして何年振りなのか本人も覚えていないような、涸れて久しいはずの涙が怜路の頬を一筋伝った。
次に目を覚ました時、八重香の服はすっかり乾いて体も温まっていた。ぱちぱちと小さく炎がはぜる心地好い音と、その熱を左頬に感じる。空は相変わらずの闇の中だが、揺らぐ炎の橙に照らされる木々の枝が見えた。
「おお、目を覚ましたようだのう」
宮澤のものとは違う、野太い男の声が焚火の向こうからした。顔を傾けて炎の向こうを見透かした八重香はぎょっとする。そこには、ぎょろりと見開かれた大きな目と、黒い嘴をもつ異形の面を付けた男が立っていた。白く塗られた双眸が黒い面から浮いて、闇の中に光るようだ。てらてらと朱い光を反射する嘴も恐ろしい。
「なっ、だっ、誰!?」
慌てて体を起こそうとして、腹の上で組んでいた両手を地面に突く。拍子に、何かが手首でぷちりと千切れた。両手首に巻いて結んであったらしい。夜の海に溺れかけた後とは思えないほど軽い体を起こして、思わず手首を確かめた八重香に、少し慌てたような宮澤の声が言った。
「あっ、すみませんソレ、おれの髪の毛ですけど大丈夫なんで!」
一体何が「大丈夫」なのか謎だが、
「面白い呪いを使う奴よ。娘、不動明王の炎で服を乾かした人間などそうは居らぬであろう。貴重な経験だぞ」
そんなことを言われても、乾かされた時は八重香の意識はなかった。別に、特別変わった感じもしないので何と答えたら良いか分からず、結局八重香は口をひん曲げて閉じる。
「いやいや、そんなんどうでもいいですから! 八重香さん、気にしないでくださいね!」
わたわた、へらへらと誤魔化そうとする宮澤は、第一印象と変わらずヒョロくて軽薄な大学生に見える。しかし、八重香は十中八九この男に助けられたのだ。だが、素直でしおらしい言動が非常に苦手な八重香にとって、大変礼を言い辛い相手なのは間違いない。
「べっ、別に!」
結局、ぷいと横を向いた八重香に宮澤がくすりと笑いを零す。それが無性に恥ずかしく、八重香は誤魔化すように大きな声で面の男を誰何した。
「それでっ、アンタ誰なん!? ここは――」
見回すと、そこは小さな浜だ。暗い中では見覚えのあるものを探すのも難しい。
(こんな小っさい浜、どこにあったじゃろ……)
ここが神来島ならば、場所は限られてくる。ひとつの島にそう沢山砂浜はない。
ぐるりと辺りを見回した八重香の目に、古い古い、打ち捨てられたように苔むした石の鳥居が、鬱蒼とした照葉樹の中に埋もれているのが映った。
「あっ……」
(ここ、島の裏のオバケ神社……!)
ということは、目の前の面の男は神社のお化けということか。八重香の視線に気付いたらしい男が、仁王立ちに腕を組んで機嫌よく頷く。
「はっはっ、知っておるか。いかにも儂は、この山の頂に住まう
つまりこの山の天狗だよ、と小さく宮澤が囁いて寄越した。天狗ぅ!? と思わず八重香は声を上げる。神来山のオバケ神社には天狗が棲んでいて、夜遅くまで遊んでいる悪い子供を攫ってしまう。それは島で定番の子供の脅し文句だった。まさか、本当に居るとは。
オジやちーちゃんが存在するのだから居て不思議もないのだが、今の今まで実在すると露とも思っていなかった八重香は面の男を凝視した。普通の、八重香の知っている「天狗」の面ではない。だが、頭に小さく山伏の帽子を付けているのは同じだ。
「今なら江戸と呼ばれる時代に入って、暫くしてからかのう、島の反対側に白髭神社が作られてからとんと忘れられてしもうたな! アレも言うてみれば儂の分身のようなものじゃが、あちらは人のために呼ばれ人のために働く神ゆえな、島の者の信仰も篤い。当然じゃな!」
忘れられ、打ち捨てられたことを憤る様子もなく、あっけらかんと暁海坊が笑う。唖然としている八重香に代わるように、それで、と宮澤が口を開いた。宮澤の羽織っていた趣味の悪いスタジャンは八重香に掛けられていたため今も八重香の膝にある。長袖とはいえ綿シャツ一枚の宮澤は見ていて寒そうだが、凍えている様子もなくぴしりと砂浜の上に正座して背筋を伸ばしていた。
「その――
宮澤の問いに、いやいや、と愉快そうに笑い暁海坊が首を振る。八重香からしてみれば何がそんなに面白いのか、といささか煩く感じる大きな声で暁海坊は答えた。
「別にあの老翁に含むところなどないが、ちと旧友の頼みがあってなあ! ――ときに、美郷とやら。主は大層立派な白蛇を飼っておるな。一体どこで手に入れた?」
「それは……今答えなければならないことですか。呪詛に向けられたものを取り込んで、そのままです」
宮澤の声が不意に硬く冷える。今までと打って変った他人を寄せ付けないひんやりとした口調に、八重香は驚いた。先程から驚きっぱなしである。ついでに、白蛇など一体どこからわいた話なのか、完全に八重香は話に置いて行かれていた。
「はっはっは、連れぬことじゃ! まあよい、今時あれだけ大きな妖魔が生まれるのも珍しいことじゃ、主もなかなか面白い。――うむ、面白い。面白いのは良いことじゃ」
うむ、うむ、と頷いた暁海坊が、突然八重香の方を向いた。ぎょっとして八重香は身を竦ませる。
「白髭神社の娘よ! 主はあの居付き神が好きか!」
大きな声が、闇夜に響き渡り八重香に問うた。それはどこか、決断を迫るような圧力をもっていた。一瞬怯みかけ、慌ててかぶりを振る。怖気づいてどうする。八重香はぎょろりと大きな白く光る目を睨み付けて言った。
「好き!」
八重香は「ちーちゃん」の本当の名前を知らない。「ちーちゃん」は、彼女自身が唯一覚えていた誰かの呼び名だ。
(けど、ウチにとってのちーちゃんは、今のちーちゃんじゃ。ウチは、ちーちゃんを諦めん!)
口を引き結び、両の拳を握って睨み上げた八重香に、暁海坊はそうか、とひとつ大きく頷いた。そして宮澤へ向き直る。
「美郷よ! 主は怜路が好きか!?」
「勿論――好きです」
低く重く、宮澤が断じた。静かな声音に籠る決然とした響きに、暁海坊が再び大きく頷く。
「では、お主ら……」
厳かに、一旦暁海坊が言葉を切る。そしておもむろに背中から、一振の刀を取り出して眼前に掲げた。
「あの姉弟の為に、『神』が斬れるか」
低い、低い問いに八重香は息を飲む。神、とは。
「それって、オジのこと……?」
いかにも、と暁海坊が頷いた。
「己が願望の為に、この島を守護してきた神が斬れるか、巫女の娘よ。――白蛇憑きよ」
島の神様なんてどうでもいい。どうせ、この島にもう人は居なくなるのだ。八重香の同年代はもう居ない。その下も、きっと。ここは終わってゆく場所だ。だが、それでも「神を斬る」という言葉の響きに一瞬ためらった八重香の隣で、すっと宮澤が動いた。
流れるような動作で立ち上がり、なんの迷いもなく鞘に収まった刀を掴む。
暁海坊の真正面、至近で相対して、宮澤が朗と響く声で言い切った。
「斬れる刃があるなら。おれは、おれの相棒を犠牲にしようとする奴は、神だろうが仏だろうがぶった斬ります」
天狗の高らかな笑い声が、ようやく雨の止んだ闇夜に響き渡った。
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