潮騒の呼び声 5

 5.


 怜路がその崖を降りられたのは、彼の身体能力と経験があったからだ。それでもやはり到底「まともな判断」ではなかったが、どうにか降りられると思った足場は実際、人が使うために整備された階段もどきのようだった。よく見れば一定間隔で、掴まって降りるための取手が岩壁に打ち込まれている。

 暴風雨吹き荒れる闇の中、どうにか崖を這い降りた怜路の前には、果たして洞窟がぽっかりと口を開け、中から橙色の光が僅かにこぼれていた。怜路がとりあえず「着地した」と言えそうな足場は細く不確かで、いまだ嵩を増している様子の海面からかろうじて顔を出している。洞窟の内側にも潮溜まりがあり、奥には岩床が見えた。

 そう深くはない洞窟の突き当りに、小さな社が見える。光はその軒にぶら下がる裸電球だった。おそらくは漂着神を祀る類の祠だろう。

 とにかく、風雨をしのぐのにこれ以上の場所はない。潮溜まりを越えるにはどうやらもう一度泳がねばならないようだが、今更これ以上濡れるのをためらう理由もなかった。怜路は泳ぎは得意ではないが、何をおいてもライフジャケットはしっかり着込んである。

(まあ確かに、色々漂着する場所だなこりゃ)

 足元の潮溜まりは緩やかに渦を巻いている。複雑な流れが微かな橙の光を反射し、生き物のように蠢いていた。単純に一箇所から潮が流れ込んでいるのではないのだろう。

 えいや、と潮溜まりに飛び込んだ怜路は、その流れにも助けられて思ったより楽に対岸の岩床へ辿り着いた。白熱灯の明かりは暗く仄かだが、洞窟の壁面全体が光を反射するため外に比べれば格段に明るい。それでも潮溜まりはまるでブラックホールだし、岩壁の凹凸に刻まれた長い影は濃い闇に塗り潰されている。そこにある陰影が「何」なのかは、よくよく注視せねば分からなかった。

 なので、社の足元にわだかまる陰影が、人の形をしていることに気付いたのも岩床へ上陸してしばらくしてからだった。

「……女!?」

 否、まだ少女と呼ぶべき年齢だ。十代後半であろうか。細身のジーンズにパーカー姿の少女が、波に削られて滑らかな岩床の上に横たわっている。彼女も怜路と同じように流されたのか、島に上陸していて、この洞窟に迷い込んだのか。服装にそぐわず裸足なので後者かもしれない。

「おい、大丈夫か。おい!」

 横臥していた体を仰向けにして呼吸を確認する。息は――ない。気道を確保して心臓マッサージのため組んだ手をまだ薄い胸の上に置いたところで、少女が目を開いた。気付いたか、と安堵の声をかけようとして止まる。

 少女の胸は、全く上下動していない。

「あ……。だれ……?」

 鼓動も、呼吸もないまま体を起こす少女の傍らから、怜路は一歩退いた。

(しまった……今グラサンしてねーわ……)

 怜路の天狗眼は、現世のものも幽世のものも区別なく「そこにある」ように映す。この少女はおそらく、一般人の目や電子機器には映らない存在だ。

「ああ、ちょっと迷い込んじまったモンだ。おめ―さんは? ここで何してる」

 なかなか間の抜けた質問だなと言いながら思ったが、さりとて他に訊くことも思いつかない。とりあえず、怜路は一晩ここを貸してもらえれば良いのだ。この際、少女の素性が何であれ、友好的、穏便に過ごせればいい。

「ウチは、ここに住んどるんよ。お兄さん、流されて来たん?」

 おっとりした様子の少女が、背後の社を指して微笑んだ。

「そうだったのか。そりゃあ夜分、お休みのところに転がり込んじまってすまねえ。お察し通り波にさらわれてな。外は嵐だし、一晩軒を貸しちゃ貰えねーかい」

「うん、ウチは別にええよ。でも、」

 頷いた少女は、少し躊躇いがちに怜路の背後を見た。怜路の後ろにあるのは、黒黒と渦巻く潮溜まりだ。その向こう、洞窟の外にひとつ岩が突き出していた。岩には注連縄が巻かれているらしく、真白い紙垂が風に激しく煽られている。

「『オジ』がなんて言うか分からんけど」

 岩を注視して少女が言った。その『オジ』とやらの方が、この少女よりも格上のようだ。

「お前、名前は。ここに祀られてんのか。――っと、失礼するぜ。ビショ濡れのまんまじゃ冷えちまう」

 少女の前だからと言って遠慮していては怜路まで呼吸を止めることになる。ひとつ断りを入れて服を脱ぎ始めた怜路を、少女は興味深そうに眺めて言った。

「ウチは『ちーちゃん』。ここで神様しよるけど、元は人間なんじゃって。お兄さんの名前は? どっから来たん?」

 ちーちゃん、と怜路は口の中で復唱した。白太さんと同系統の名前だ。誰かが「ちゃん」付けで呼んでいるのが、そのまま名前になっているのだろう。当然、生前の本名ではない。

「俺ァ狩野怜路。巴市っつー山ン中からだな。ちーちゃんか、お前、外のことは何か覚えてんのか?」

 とにかくぐしょ濡れの服を脱いで絞ることを最優先にして、片手間で他愛ない話を振った。かりのりょうじ、と小さく少女は復唱する。話し相手ができたのが満更でもないのか、機嫌よく『ちーちゃん』は答えてくれた。

「ううん、ほとんど何も覚えとらんの。オジには、ウチは川に流されてここまで来たんじゃって言われた。ホンマは普通、川からこんな所まで流されたりせんのじゃけど、ウチを流したんが龍神の鉄砲水かなんか特別なんで、ここまで来たんじゃって。それで、特別じゃけえ、特別な力があるんじゃって言われた」

 なるほど、と怜路は相槌を打つ。

「普段はなんかお役目があんのかい」

 見たところ、社は綺麗に手入れされている。誰かが欠かさず供物も捧げに来ている様子だ。このご時世に漂着した水死体を「神」と祀っているなら、この島の風習もなかなかのものだと思うが、そこは行きずりの怜路が今首を突っ込む話でもない。せいぜい、無事生還できたら特自災害経由でつついてみる程度だ。

「うん。魚を呼んだりね、波を静めたりできるんよ。いっつもならウチでどうにかなるんじゃけど、今日の嵐はオジがやっとるけえどうにも出来んの。ごめんね?」

 まさにエビス神だ。大したものである。まだ年端も行かぬ少女が、死してなお囚われているのが幸いなことだとは思わないが。いいや、と答えて怜路は気になったことを尋ねた。

「この暴風雨、起こしてるのがオジってヤツなのか」

 固く絞った衣服を、許可を得て罰当たりにも社に引っ掛けて干しながら、怜路は微かに橙の光を反射する海から突き出した岩を睨んだ。

「俺ァ、ここに釣りに来てたんだが、突然大波に襲われてな。夕方はまだ晴れてて海も静かだったのに、無茶苦茶だぜ。ちーちゃんはなんでオジが

今日海を荒らしてンのか心当たりはねーか」

 パンツ一丁で岩を睨む怜路に並んで、少女が洞窟の外を窺い見る。

「ウチもよく分からん。ウチはオジにここに連れてこられて住んどるけえ、オジには逆らえんし。今日はホンマに、いっつもなら分かる海の具合とか空の具合とかも全然見えんし、島からの『お願い』も聞こえんし」

 オジ、という存在がこの少女を支配している。だが普段は、彼女の来訪神としての呪力が島に加護と恵みをもたらしているのだろう。オジ自身にはその能力はないということか。

(オジってのの正体がなァ……ちくしょ、美郷なら何か思いつくんだろうが)

 ぽけぽけとしていてサバイバルには向かなさそうな男だが、脳内にある呪術関係の知識は怜路とは段違いだ。大抵のことは訊けば推測してくれる。

「けど、今夜は特別な大潮じゃけその関係かもしれん」

「特別な大潮?」

 うん、と少女は頷いて、己を指差し怜路を見上げた。

「ウチが何年か前にここに来たんも、おんなじ大潮じゃったんて。毎年一回、一番潮が高くなって、一番低くなる大潮の日。この日だけ、あっこの洞窟の出入り口が水に浸かって、外の海から内側の池に物が入ってくるんよ。それが、『神様』になるんじゃって」

 普段はあの、怜路が「着地」した場所は潮溜まりと海を隔てる堰なのだという。それが一年で最も潮位の高いこの時期の大潮満潮で海面下に沈む。外海と潮溜まりの隔たりがなくなった時にだけ、漂着物が洞窟の中に入り、引き潮で取り残されると来訪神となるのだそうだ。オジとは、それを迎え入れる神だという。

「そのオジが俺を攫った……ってなァ、どういう意味かってトコだな」

 何故自分なのか。呪術者としての怜路に用があるなら、そろそろ出て来ても良い頃合いだ。具合良くその『オジ』の岩が目の前にあるのは、偶然ではなく誘導された可能性の方が高い。

 呟いた怜路を、少女がじっと見上げている。視線に気付いてそちらを向いた怜路の顔を、『ちーちゃん』は何か探すように凝視していた。

「おい……? 何だ?」

 不気味に思える、少女の突然の様子に、怜路は少し身構えた。

「ねえ」

 少女が口を開く。なんだ、と怜路は答えた。声は洞窟の岩壁に跳ね返って響く。ざざざざざ、と潮溜まりが渦を巻く小さな音が絶え間なく空間を満たしていた。

 僅かばかりの沈黙は、何か、躊躇うもののように怜路には思えた。

「ウチね、ここに来る前のことはほとんど何も覚えとらんの。けど、ちょっとだけ記憶があるんよ」

 少女は、怜路の特異な眼に何か見付けたように、ひたすら怜路の目を見ている。

「ウチには、弟がおった。ちょっと特別な子でね、じゃけえその分難しくてね、ウチが守ってあげんといけん、ってずっと思いよったん」

 ざらり、と何かが怜路の肚の底を逆撫でる。声音の響きが、頭の奥の何かに触れる。相槌も忘れて、怜路は『ちーちゃん』の言葉の続きを待った。

「弟の名前、覚えとらんのんじゃけど。ウチはずっとね、『りょうちゃん』って呼びよったんよ」

 ――怜ちゃん、大丈夫よ。姉ちゃんが守ったげるけぇ。

 まさか、と、込み上げる感情に、怜路は拳を握った。『ちーちゃん』の年の頃は十六、七といったところか。顔立ちは、少し吊った眦が印象に残る、だが優しげな雰囲気の顔立ちだ。

 記憶はない。だが。

「…………まさか、」

 喘ぐように言う。

「ねえ、ちゃん……?」

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