潮騒の呼び声 4
4.
激しい潮流が太古の小山を削り取って出来た瀬戸内の小さな島々は、遠目に見ればこんもりと可愛らしいが上陸は易しくない。結局、山の天辺が海面から顔を出しているようなものなのでその陸地は急峻な斜面が多く、岸は波に抉り取られた岩壁だ。
どうにかこうにか崖の上に乗っかる森の端を掴み、怜路は懸垂の要領で体を持ち上げた。これだけキツいのも久々だ、と歯を食いしばる。だいぶ体が鈍っていそうだ。
上陸できた、と言っても結局は急斜面である。真っ暗な中で、全く管理された様子もない山に入り込むのも危険に思えた。鬱蒼とした木立が作る真闇は、怜路の目でもよく見えない。せめて、体温を奪っていく衣服を脱いで絞る場所を確保しようと、怜路は岩壁に向かって斜めに幹を張り出した木の根元に跨がる。
「ちっくしょう……こんなサバイバルすんの、久々過ぎて死にそうじゃねーか」
帰ったら、反省して一度修行に出直してこようか。ぶつくさとこぼしながら、上から脱いで水を絞る。こんな時の対処法も、養父やその仲間から実地で教わって来た。何度も殺されるのかと思った記憶があるが、役に立つものである。
足場を探して随分と横移動しながら登って来たため、対岸の明かりは見えなくなっていた。半径の小さな島のようで、少し移動すればすぐに元いた足場はカーブの向こう側に消える。暗い暗い足元は、ごうごう音と白波を立てて潮が流れていた。まだ満ちているのだろうか。遠く目をやれば水平線は闇に溶けて、瀬戸内らしい小島の連なりは見えない。島の少ない開けた海域――
(夜明けを大人しく待つのが最善か……)
まだ、うまくやれば低体温死するような季節や場所ではない。衣服を乾かし、風を木立で凌いで明るくなるのを待つ方が良いだろう。
「まあそれも、何も仕掛けてこなけりゃだがな」
自嘲気味に怜路は口許を歪ませる。煙草が欲しいが、海水漬けになった煙草は到底喫えそうもない。ライターは乾けば使えるだろう。火が使えればなにかと便利なので、早めに乾くよう水分を拭き取る。山の地べたにパンツ一枚は、痛い痒いがあり過ぎてもはや小さなことは気にもならない。アドレナリンが出ているのだろう。
衣服を乾かす間凍えないようにと、動ける範囲で筋トレやストレッチをする。前屈がてら、跨っている木の横に傾いだ幹に張り付いて崖下を覗き込んでいると、岩壁の突き出した岬の向こうに、ちらちらと光を反射する波が見えた。光の見えた場所は、対岸が見えたのとは逆方向である。怜路が首を伸ばして見る限り、その方角の海に陸地の影はない。今夜は月の光もないのだ。見間違いかと目を凝らし、怜路は遠い波を睨む。
「間違い無ェ……なんかあそこに光源があんだ」
ならば、そちらへ向かってみるべきか。普通に考えれば動かない方が良い。沈思していると、不意に足元の崖がざわりと揺らいだ。怜路は目を細めて揺らいだ辺りを注視しながら、乾かしていた衣服を掴む。到底乾いたとは言えないが仕方がない。
(こういう勘は当たる――ってほらなァ!!)
ざわざわざわざわ。岩壁の輪郭が揺らいだのは、表面を何かが動いたからだ。チッ、と舌打ちして立ち上がる。大急ぎでズボンを穿く足元を、フナムシの大群が波のように駆け抜けた。
「だッから、キショいのは嫌ェだっつってんだろ……!」
相手も歓迎されたいのではないだろうし、言っても仕方がないのだが。しかし、フナムシはただ一群が通り過ぎただけで、襲っては来なかった。代わりに、びょう、と突風が怜路の上体を煽る。服が飛ばされないうちにと残りの上着も抱え込んで、崩れた体勢を立て直す怜路の肩をボツリと大粒の雫が叩いた。雨だ。
「――ッそだろ畜生、今晩降るなんてなァ聞いてねーぜ!」
不安定な足場では立っているのも危うい暴風と、木立も突き破る豪雨が一気に怜路に襲いかかった。突然頭上に台風でも出現したかのような大嵐だ。
――気を付けろよ怜路。フナムシが涌くと嵐が来るぞ。
そう言って、意地悪く笑ったのは養父であったか、それとも、その友人を名乗る連中の一人だったか。せっかく絞った服もあっという間にびしょ濡れに逆戻りだ。とにかく少しでも風雨を逃れるため、怜路は逃げ場を探す。思いのほか森の中の足場は悪いうえに、雨で視界が悪くなれば本当に何も見えない。
(クソっ、どこに逃げる!?)
方向を見失うのは避けたい。だが、海から遮る物なく風雨が吹き付ける場所よりはせめて森の風下に回り込もうと、岩壁に沿って移動を始めた怜路の目に、ほどなく再び波に揺らめく光が映った。激しい風雨が乱す水面に、間違いなくどこかから光は反射している。
「崖の下だな……洞窟か?」
後々に振り返って、その判断が正常、的確だったかと問われれば怜路にも自信はない。だが、この時怜路は、目の前にあるどうにか命綱無しでも降りられそうな岩壁を、明かりを目指して降りるしかないと確信していた。
闇がうねる。悪意を持った生き物のように、美郷らを飲み込もうと襲いかかってくる。
(――なんていうのが文学的表現でもなんでもなく事実なんだよなあ……!)
情けない悲鳴をすんでのところで飲み込み、美郷はボートにかじりつく。白く砕けた波頭の飛沫が、美郷を頭からずぶ濡れにした。
いかに内海といっても、風の強い、しかも新月闇の中だ。二人乗れば満員のミニボートで海に出るなど正気ではない。――と、美郷が気付いたのは、乗り込む目の前のボートがまるで滝壺の木の葉のように揺れていた時だ。
指示されるままに岩場を登り、途中八重香の背丈が足りないという場所は彼女が登るアシストもした。岩場は平坦な砂浜と違い、激しい起伏が深く陰影を刻むためハンドライトで足元を確かめるのは非常に困難だ。岩場の凹凸を把握している八重香にひとつひとつ足場を指示されながら、やっとの思いでたどり着いたボートが、ちょっと乗る自信がないレベルで揺れていた。
『絶対大丈夫じゃけぇ。ウチは
八重香は迷いのない表情でそう言ったが、あの時点で、八重香を説得して引き返すのが社会人としての義務だったような気がする。風が吹けば海は荒れる。美郷もそれを知らない人間ではなかったはずだ。……等々、もはや嵐の海の木の葉と化してから後悔したところでどうにもならない。
「重心は低く! 前に!!」
後ろで舵を握りモーターを操る八重香が怒鳴った。激しい潮流と、暴風の起こした波が衝突して三角波を起こす。波を横から被ればボートは転覆するという。八重香は闇から突然せり上がってくる生き物のような三角波を読み、上手くボートの方向を合わせて乗り切る。なすすべもなくボートにしがみついている美郷は、シェイカーにかかっているような心地だ。
元より絶叫マシン系に興味はないので乗った経験もあまりない。ましてや安全ベルトなしの状態で、五指の動かし方を忘れるまで全力でボートにしがみついてしのぐ経験など初めてだ。これを離せば死ぬ、という恐怖と踏ん張っても滑る濡れた足元、でたらめに襲ってくる浮遊感と墜落感が美郷の頭の中を埋め尽くす。
「――雨?」
絶え間なく波を被っているせいで気づくのが遅れた。強風はいつの間にか嵐に変わっている。
「八重香さん、引き返すのは」
「無理! 潮の流れに逆らうことになるけん! もう、斎木島に着く方が早い!!」
断言されると頷くしかない。この海を知る者も、このボートの船長も八重香だ。今の美郷はせいぜい喋る
前も右も左も、自分たちに牙を向く波以外は漆黒の闇ばかりが無限に広がっている。最初は見えていたどこかの灯台も激しい雨が霞ませてしまった。これは死ぬかもしれない、と本気で思う。自力で辿り着ける場所に、縋り付けるものが何もない。
力尽きれば、死ぬ。という恐怖感は久々だ。
(せめて白太さんがいてくれれば……!)
海の中を悠々泳げる大蛇だ。いざという時の命綱も兼ねて、アシストに居ればと思うがどれだけ呼びかけても返答はない。
不意に視界が明るくなった。
目の前に迫る壁のような高波が、ボートの照明を反射している。
脳が理解した時にはもう、天地の方向は分からなくなっていた。海水の塊が目の前に迫る。八重香が何か叫んだ。
――目に焼き付いた壁のような高波は、確かに一対の仄暗く光る目を持っていた。
波に飲まれる。ボートも転覆した。
無理矢理開いた目に映るのは、ぼやけて真っ暗な水中だ。かろうじて、ひっくり返ったボートのライトが海中を照らしている。
(八重香さんはライフジャケットがあるから浮くはずだ)
ボートに用意されていたのが一着だったので、それだけは固辞して八重香に着せた。美郷は泳ぎが得意だ。身体能力で、怜路に勝っている唯一の部分だろう。水中でも比較的冷静でいられる。
(上は……こっちか!)
かすかな光に、己の口から漏れる気泡の上っていく様が見えた。気泡を追って美郷は水を掻く。どうにか水面に顔を出して、止めていた息を少し吐いた。酸素を吸い込んで周囲を見回す。
八重香はひっくり返ったボートに掴まっていた。それをみとめて、美郷は少し安堵する。
「なんで!? ちーちゃん、なんでなん!? なんでウチを守ってくれんのん!!」
風と、雨と、波の音を引き裂いて、八重香が悲痛に叫ぶ。彼女は
目の前で、再び海面が盛り上がった。普通の波の立ち方ではない。ぬぅっと何かが突き出すように海水が立ち上がる。
うすボンヤリと青白く光る目が、美郷らを見下ろした。
「八重香さん!」
注意を促す。
再び波に飲まれてもみくちゃにされるその寸前。
白くて太いうねる筒が、美郷の体を引っ掛けて攫った。夜目にそれと分かる真白い胴は、びっちりと大きく硬い鱗で覆われている。
「――白太さん!?」
(にしては太くない!?)
大人の一抱え以上ある丸太サイズの胴にかじりつき、美郷は心の中で叫んだ。
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