潮騒の呼び声 3

  3.


 白蛇は困っていた。

 ――美郷! 美郷!!

 波に攫われた怜路を追って海に飛び込んだは良いが、凄まじい潮流に阻まれて怜路を見失ってしまった。しかも、白蛇自身も全く別方向に流されて戻ることができず、宿主である美郷へ呼びかけても返事は来ない。

 島をぐるりとまわった、真っ暗な浜に打ち上げられてしまった白蛇は途方に暮れる。自力で美郷の所に帰るにしても、場所が分からないのだ。

 ――美郷! 怜路!!

 暗いのは困らない。白蛇は小さな砂浜を這って小さな崖を登り、黒々と繁る森に頭を突っ込んだ。海は、また何かに流されるかもしれない。しかし、どの方向へ行ったものだろう。少しでもどちらかの気配を掴もうと、白蛇は頭を持ち上げて舌で匂いを掬い取る。せわしなく舌を出して風に混じる匂いをかき集めていると、見知らぬ気配が不意に頭上に現れた。

 ――おやつ?

 濃い山の匂いだ。よく家の裏山に現れるもののけよりも、ぎゅっと濃い。

「はっはっは、おやつではないぞ。しかし立派な白蛇じゃ、お主、今怜路を呼んだであろう」

 白蛇に答えたのは、美郷や怜路と同じような形をしたもののけだった。高い木の枝の上から白蛇を見下ろしている。

「怜路を探しておるのだろう。何故あれを探している?」

 少しくぐもった野太い男の声で、もののけは白蛇に尋ねた。

 ――天狗?

 人型をしたこの山の匂いの塊は、確か美郷が「天狗」と呼ぶもののけの面を被っていた。




 ――怜ちゃん、大丈夫よ。姉ちゃんが守ったげるけぇ。

 ――怜ちゃん! 諦めんさんな!! 怜ちゃん!

 ――姉ちゃん!!

 狩野かりの千夏ちなつ。最後の最後まで、約束通り怜路を守ってくれた姉の力強い声が、怜路の意識を水底から引っ張り上げた。




 はっ、と目を覚ました怜路は、芯まで冷え切った体に身震いした。自分では身震いした気になったが、身体はピクリと動いたかどうかだろう。冷えて感覚の鈍った手足は、己の体というよりぶら下がっている荷物のようだ。

 ぷかりぷかりと、怜路の体は海に浮いている。といって、海原の只中を漂っているのではなくどこか岩場の隙間に引っ掛かっているらしい。どれくらいの間か分からないが気絶していたのだ。浮いていられたのはライフジャケットのおかげだが、俯せに浮かなかったのは幸運だった。

 全身のそこかしこが訴える、大小様々な痛み痒みをこらえて身を捩った。冷えて萎えた腕には、ずっぷりと海水を吸ったスウェットパーカーが恐ろしく重い。ふらふらと定まらない動きで闇を探り、どうにか手近な岩を掴む。波によるほんの数センチの上下動で、全く思うように体勢が定まらない。散々、岩やそこに付着する牡蠣で手や頬に擦り傷をこしらえながら、怜路はなんとか陸に這いあがった。最初に陸上進出した両生類はこんな気分だっただろうかと、くだらないことを考える。とにかく、己の体が重い。1Gの重力が耐え難い。

「まさしく、救命胴衣……ってか」

 海から切立つ崖に、引っ掛かるように背を預けて息を吐いた。いつの間にか強く吹いている風が、濡れた怜路の体から急速に体温を奪っていく。

 どれくらい流されたのか分からないが、遠く対岸には道路照明が整然と光っている。怜路の頭上は崖に覆いかぶさるように繁る鬱蒼とした森が、仄かに光る曇天を真っ黒く切り取っていた。最悪、釣り場から無数に見えていた小さな無人島のひとつかもしれない。

 風は辛いが、雲が出てくれて助かった。低く垂れこめた雲が街の明かりを反射して、どうにかギリギリ、闇に慣れた目ならば足元が見える。そういえばサングラスは波を被った衝撃で外れたらしい。加工代も含め安いものではないのだが、命あっての物種か。

「そうだ、ケータイ」

 ぐっしょりと濡れたジーンズのポケットを探る。重く水を吸った生地が張り付いて動きづらいが、なんとかポケットに手を捻じ込むと無事、手のひら大の四角い板が出て来た。水没も平気なアウトドアモデルのスマホなので、電池さえあればきっちり動作する。

「ッしゃ、これで助か……るほど、甘くねーかァ」

 ふう、と怜路は落胆の溜め息をついた。スマートフォンは無事だが、電波表示が圏外だ。対岸からはそれほど離れても見えない。故障か、或いは。

「まあ、明らかに引っ張られたんだからな……ここは懐の中ってトコか」

 何か、妖異の力が通信を妨害しているのだろう。

 しかし、と思う。なぜ自分なのかが分からない。水妖を抱える美郷よりは襲いやすかっただろうが、これでもプロの端くれだ。――まあ、まんまと拐われてしまったのだが。

(俺がカナヅチなのも分かってたと? それか、今晩どうしても手近な人間で良いから拐う理由があったか……)

 そういえば、あれだけよく釣れたのに、周囲に他の釣り客は居なかった。欲に負けて下手を打ったのかもしれない。

「うーん、やっちまったか。修行たんねーな」

 だが、あまりボンヤリと反省会もしていられない。ずぶ濡れの体は冷える。この状態で一晩越すのは無理だろう。更にはまだ満潮には達していないらしく、水から逃れたはずの足元が、いつの間にかくるぶしまで波に洗われていた。早めにどこか、乾いて平坦な場所を見つけなければならない。

「ったく、取り敢えず闇夜クライミングかよ」

 スマートフォンにはライト機能もあるが、両手は岩登りで塞がるし、頭に固定できるようなツールは流石に持っていない。ライトの照度が高いぶん、的外れな場所を照らせば目が眩んで見たい部分が見えないだろう。サングラスがなければ怜路はかなり夜目も利く。電池節約も兼ねて、怜路は灯りなしで岩を登り始めた。




 美郷に道案内を申し出た少女は、「ちーちゃん」を助けたいのだと言った。

 ちーちゃんは、神木家が現在祀る『神様』だという。だが、神来島に漂着するモノ――島の習わしで『斎木いつき神』と呼ぶ神は、定期的に代替わりするのだそうだ。おそらく元は「居着き神」なのだろう。

「ちーちゃんは、ウチが生まれた年の秋分の大潮であそこ――斎木島いつきしまに流れ着いた、女の子の斎木神なん。ウチはちーちゃんの巫女として、ちっちゃい頃からいっぱい遊んでもらった」

 肩を怒らせ、ざくざくと踵で砂を抉るように歩きながら八重香が語る。一柱の斎木神に、必ず一人の巫女がつくのだと言う。そして本来ならば、巫女の天命が尽きる時、斎木神は巫女を連れて常世に還ってゆく。つまり、巫女が亡くなればその葬儀と共に、斎木神も海に還してしまうのだ。――それが、斎木神が人の亡骸であることが、今の法制度上どう処理されているのかは美郷にも想像がつかない。神来島の属する自治体にもおそらく特自災害のような組織はあるだろうし、そこが調整しているのかもしれなかった。大小様々な島が複雑に連なる瀬戸内の島嶼部は、こういった独特の「濃い」信仰を残す場所が多いと聞く。

「なのにこないだ突然お告げがあって、ウチはそのまんまなのに、ちーちゃんは代替わりするって!」

「お告げっていうのは、一体誰から?」

 速歩に浜を波打ち際へと進む少女に、美郷は背後から大きめの声で問いかけた。強くなった風が声をさらってゆく。

 目指す先には、浜の端に突き出た岩場がある。その突端は、「ちーちゃん」が居るという斎木島へと向いていた。干潮時ならば、渡れる道があるのだそうだ。八重香はぴたりと立ち止まり、美郷の背後を睨みつけるようにして言った。

「オジ、っていうアッチの本殿に祀られてる神様。ちーちゃんみたいな斎木神はお客さんで、それを迎えてもてなす神がオジなん。斎木神が来るんも、誰がその斎木神の巫女になるんかも、全部オジのお告げで決まるんよ。じゃけん、ウチらは全部オジの言いなり」

 憎々しげに吐き捨てて、また八重香が前を向く。ひっつめられたスズメの尻尾から零れ出た後れ毛を、激しく風が舞わせていた。その背を己の携帯で照らしながら、美郷は八重香の後を追う。

 オジ、という単語を脳内で探しながら、美郷は尋ねた。

「八重香さんの神社、なんて名前でしたっけ?」

神来かみき白髭しらひげ神社じゃけど」

(そうか……それなら多分、老翁おじだ。塩土老翁シホツチノオジ……しおで、猿田彦命さるたひこのみことの性格も持ってる)

 白髭神社は猿田彦命を祀る神社である。猿田彦命は天孫降臨の際にちまた――分かれ道の前で出迎え、道案内をした地祇くにつかみとして、ちまたの神とも言われる。とても高い鼻を持つ恐ろしい顔をしていたとされ、高鼻天狗のモデルとも言われていた。

 そして、白髭神社の中には猿田彦命でなく、製塩と海の道案内の神、塩土老翁を祀るものがいくつかあるという。神来島の白髭神社が『老翁オジ』と呼ばれているなら、こちらの系統なのだろう。神社は分祀されれば、その土地の都合に合わせて独自解釈が加えられ、カスタマイズされる。場合によっては元々その土地に坐していた神に、むりくり有名どころの名前を付けていることもある。それらの神社は同じように猿田彦命や塩土老翁が祭神と書かれていても、記紀神話に出て来る「正統」のそれらとは別物なのだ。八重香が呼ぶ、単に『オジ』という名の方が本質に近いだろう。

「つまり……おれと君の共通の敵は、その『オジ』ってことになるのかな?」

(また神様が相手かよ!!)

 という嘆きは流石に、口には出さない。去年も神サマを相手にした。といって、その正体は神社に蓄積した人間の恐怖心だったのだが、それでも手強い相手だった。今回は本物の、この島に宿り島民に信仰される自然霊が相手ならば、更に難敵のはずだ。次第に近づいて来る、波が岩に砕ける音が敵意のように感じてひやりとした。

「そう。けど、ウチなんかがオジをどうにかできるワケない。じゃけん、新しい斎木神が今晩、斎木島に着くのを妨害する。もし新しい斎木神がアンタの友達で、まだ生きとるんなら代替わりはできん。生きた人間は斎木神にはなれんけ」

 なるほど、と美郷は頷いた。それならば勝算はあるし、八重香と美郷の目的は同じだ。あとは、オジによる妨害如何だろう。

「それにしても気になってるんだけど……」

 岩場に登りはじめた八重香に付き従いながら、美郷は尋ねた。なに、と険を含んだ視線がちらりと振り返る。

「どうやってあの斎木島まで行くの?」

 時刻はほとんど満潮に近く、島までの道などあるはずもない。戸惑う美郷に、八重香がハンドライトを動かす。八重香の向こう、岩場に隠れるようにして繋がれていたのは、小さなモーターボートだった。

「船に決まっとるじゃん、アホなん?」

 スミマセン、と美郷は小さく謝った。

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