潮騒の呼び声 2

 2.


 どうしよう、と迷うよりも前に、胸元から飛び出した白蛇が、美郷の代わりに海へ滑り込んだ。

 ――怜路、探す。

「白太さん! 任せた……!」

 みるみる大蛇になった白蛇が、黒々とした海を泳いでゆく。美郷の白蛇は、何故だか分からないが水妖に近い。怜路の捜索は、秋の海に飛び込んでも溺れる心配も風邪をひく心配もない己の半身に任せ、美郷は携帯を取り出した。怜路を飲み込んだ波に揺らされ、足元の桟橋が上下動する。それによろけ、美郷は両足を踏ん張った。

「ええと、どこに通報すればいいんだっけ……警察? 消防? 海上保安庁だっけ?」

 焦りに震える手で通報先をネット検索し、電話をかける。問われるままに状況を説明し、救助の到着を待った。あっという間に辺りが暗くなるなか、一人残された美郷は怜路が流されて行った沖を睨む。

(――あれは、何かが引っ張ったんだ)

 はっきりと見えたわけではない。だが、明らかに怜路は釣竿ごと海に引っ張り込まれ、そして何か、海の妖魔に飲まれた。潮の流れは速くとも、風も波も穏やかだった夕凪に突然大波が現れたのだ。薄闇の中に立ち上がったそれはまるで坊主頭のようで、大きな一対の目がぼんやりと光って見えた。

「怜路が全然妖気を感じなかった相手か……厄介だな」

 彼とてプロの呪術者だ。相手も怜路を狙い、妖気を隠して近付いてきたのだろう。とすれば、狩野の裏山にいるような無邪気なもののけではない。

「にしても、どれくらいで救助が来るんだろう……」

 まずは、最寄りの海難救助ボランティアが駆け付けてくれると聞いたが、どの程度時間がかかるのか。救助を呼ぶのも初めての経験で、当然ながら一分一秒でも早く来て欲しい状況だ。気持ちばかりが焦って、いやに時間がかかっている気がしてくる。

 迂闊に自分が動くわけにもいかない。

 そう一人耐えていた美郷だったが、夕日の残照が消えて辺りが新月闇に包まれても、救助が来る気配はない。いつの間にか風も出て、空では雲が遠い街の明かりを鈍く反射している。そういえば明日からは荒れるのだったか。

 流石に焦れて、もう一度救助を呼ぼうと美郷が携帯を握り直した時、怜路を追っていた白蛇の思念が割り込んできた。

 ――怜路、いない。匂いしない。白太さん、進めない。

「進めない……?」

 目を閉じて、白蛇の感覚を共有しようと意識を集中する。なにか激しい潮流に阻まれて、行きたい方向へ進めないようだ。

「怜路は向こうに流されたのか?」

 ――そう。怜路、あっち。白太さん、行けない。怜路、いない……。

 怜路の気配が途切れてしまったと、嘆く思念が伝わってくる。流されて、途切れて、掻き消えてしまった。焦りと恐怖が増す。妖魔が関わっているなら、白蛇はその結界に阻まれているのかもしれない。そして、一向に救助が来る気配もない。

(嫌な、嫌な予感がする……)

 握っていた携帯をポケットに仕舞うと、美郷は最低限の荷物だけ積み込んだ車を発進させる。白蛇の気配がする方角へ、美郷はハンドルを切った。




「ちょっと! そこで何しよん!」

 この島に暮らす女子高校生、神木かみき八重香やえかは鋭く不審者を呼ばわった。闇夜の潮騒を切り裂いた高い声に、不法侵入者の背中がびくりとこわばり動きを止める。ストラップサンダルの踵でざくざくと目の粗い砂浜を踏んで、ハンドライトを持った八重香は侵入者へと近づいた。携帯を懐中電灯代わりに海岸を歩いていたのは、痩せ型の、背丈からして男だ。派手で軟派なジャンパーの背に、一つに括られた長い髪が揺れている。おおかた近くの街の大学生だろう。九月、まだ大学は夏季休暇のさなからしい。

「ここはウチの神社の私有地よ。警察呼ぶけえね!」

 カッ、とLEDのハンドライトを相手の顔に照射して、八重香は警告した。八重香はここ、神来島かみきじまにある神社の娘だ。そして今八重香と侵入者が立っている浜は、神社の神域として神木家以外の人間の立ち入りは禁じられている。眩しそうに目元を庇い、侵入者が八重香の方を向いた。

「すみません! 友人を探してて……こっちの方向にいる筈なんです」

 振り返ったのは予想通り、若い男だった。少し気弱そうで、ひょろりとした体格が、いかにも文系サークルで遊びに来た大学生といった風情である。

「こっから先はウチの神社の禁足地なのに、また勝手に入り込んだん!? ちょっと前にもオカ研とかってサークルが調査じゃいうて勝手に入って来て、警察に叱ってもらったのに。ホンマに懲りんよねあんたら」

 言いながら、八重香は大股に男の方へ歩み寄る。この手合いは、八重香らが大切にしている伝統や信仰を、ただ面白がって知りたがるが全く敬意は払わない。触るなというものにも平気で触るし、禁足地にも入りたがる、迷惑千万な連中だ。

「い、いえ違うんです! おれはオカ研とかじゃなくて! 友達と釣りに来てたんですけど、その友達が流されて……」

 そこまで言って、長髪男が口をつぐむ。海難事故ならば、自分で追いかけるなどと馬鹿な真似をするまえに、海上保安庁に通報するべきだ。誤魔化す言葉を探しているのか、視線を宙に泳がせる若い男の正面に立って、八重香はじっくり相手を検分した。

 ズボンの裾が膝下辺りまで濡れている。海岸を伝ってこの浜まで入り込んだのだろう。この小さな浜は両脇を磯と呼ぶにも峻険すぎる岩場に挟まれ、神木の門をくぐらずに辿り着くのは相当な労力が要る。特に今夜は、一年で最も潮位の高い大潮の満潮時刻に向けて、どんどん水位が上がってきている。かじりついて渡る足場がよくあったものだ。

「苦しい言い訳はやめとけば? ほんまに人が流されたんだったら、こんな静かなわけ――」

 言い差して、八重香もまた口を噤んだ。

『今夜』海に攫われた人間がいたとしたら。――きっと、誰も助けには来ない。

 物思いに沈んだ八重香のただならぬ様子を感じ取ったのか、長髪男が改めて真剣な声で言った。

「本当なんです。友人が突然大波に攫われて、通報もしたけどどれだけ待っても救助が来ない。君がここの神社の子なら、誰か大人の人に助けを求めてもらえませんか。……それか、誰も出てきてくれない事情を何か知ってるなら、教えてくれないかな」

 半ばその「事情」の存在を確信した口調で、男が八重香に頼む。遠く、八重香の背後に漏れる神木家の明かりを追うように、男は一瞬目を細めた。

「おれの名前は、宮澤美郷です。巴市の市役所で働いてて、一応社会人です。君は?」

「……ウチは神木八重香。この神社の神主の娘。……もしほんまに人が海に落ちて、救助に誰も来んのんなら、この島の人間はアテにせん方がいい。今夜は、特別じゃけ」

 特別、と宮澤が復唱した。

 今夜は一年で最も潮が高い、秋の彼岸の大潮だ。この日だけの潮の流れは、神来島にとって特別な意味を持つ。

「秋の彼岸の大潮には、島に神様が来るんよ。神様は潮に乗って、あそこ――あの、小さい島にやって来る。島の人間はそう信じとる。じゃけえ、今夜は誰も海には出んの。神様が来るのを邪魔したらいけんけ」

 浜の正面、数百メートルの場所にぽつりと浮かぶこんもりとした影を指差し、八重香は言った。あの小島に、八重香の神社の御神体が――『神様』がいる。島に渡る道は八重香の立っている浜から伸びており、祭礼の日を除いては、島民は浜にも島にも近づいてはいけない決まりだ。

 神来島の『神様』は、海からやって来る。先日のオカルト研究会を名のる連中は「エビス」と連呼して喜んでいた。しかし潮流に乗って流れ着くのは、鯛と釣り竿を抱えた福の神などではない。下世話な好奇心の塊であるオカ研の連中を大喜びさせるもの……海に流されて亡くなった「仏様」だ。

「つまり、おれの友人に島の『神様』になって貰うために、救助に来ないってこと?」

 八重香の抽象的な表現だけで、宮澤という青年は意味を察した。現代の常識に照らせば馬鹿馬鹿しく危険な迷信で、そもそも「漂着物は『神様』になる」という発想そのものが、オカルトか民俗に詳しくなければピンと来ないはずのものだ。宮澤の確認に頷き、改めて八重香はじろりと相手を睨んだ。

「そう。……やっぱりあんたオカルト研究会の仲間でしょ。今夜がどんな日か知っとって来たんじゃないん?」

 ちがうちがう、と慌てた様子で宮澤が首を振る。男のくせに背の半ばまで伸ばしてある黒髪がぶんぶん揺れた。日が暮れてから出て来た風が、その前髪を舞い上げる。予報では天候が荒れるのは明日からだが、今夜のうちに時化始めそうな気配だ。

(呼んでる……ほんまに、次の『神様』を見つけたんかもしれん……)

「けど公務員なんて嘘じゃろ。――まあ、別に何でもいいけど、友達が流されたのはホンマなん?」

「ホントです! 今夜が特別なのも知らなかったんだ。あいつは、友人はライフジャケット着てたから、早く探せば助かるはず。その『神様』が漂着する場所に案内してください!」

 必死の懇願は、嘘をついている様子ではない。身分や島に来た理由はともかく、助けを必要としているのは本当のようだ。

 しかし、一度大きく頭を下げてから、宮澤は困った顔をして八重香を見つめ直した。八重香はアンクル丈のジーンズに薄手の長袖パーカーを羽織り、肩にかかる程度の髪を今は後ろで結わえている。それを上から下までとっくり眺めて、宮澤が少し首を傾げる。

「だけど、あの、君に頼むのも良くないよね……何とかご家族にお願いできないかな。おれが言うのも変だけど、君はこんな夜に一人で出歩いてて大丈夫なの?」

 今更の問いである。だが、心底気にしてくれた様子の宮澤という青年に、八重香の警戒心は少し緩んだ。

「ウチは……ウチも、あんたと同じ場所に用事がある。じゃけえ案内状したげる。代わりに、ウチの背じゃ渡れん場所があるけ、渡るの手伝って」

 体力や腕力は無さそうだが、それでも成人男性だ。背丈も八重香よりは十分高い。取引を持ち掛けた八重香に、宮澤がぱちくりと目を瞬く。戸惑うように「ええ、でも……」と言い淀んだ宮澤に、畳みかけるように八重香は言った。

「島の大人をアテにするのは無理よ。みんな、こないだあった御告げを信じて『神様』を待っとるもん」

 八重香はそれを――『神様』の代替わりを阻止したくて家を抜け出してきた。こうして外の人間、それも、新しく『神様』されようとしている者の友人と鉢合わせたのは、きっと何かの巡り合わせだ。八重香はそれに賭けてみることにする。自分一人だけよりは、勝算があるはずだ。

(ウチは、ちーちゃんを諦めたりせん……!)

 八重香の気迫に圧されたように、宮澤が背筋を伸ばす。その、整って薄い唇が何か小さく呟いた。波音にかき消された言葉を追って、八重香は一歩、宮澤に近づく。

「何?」

「――ううん、何でも。そうだな、あまり迷ってる余裕はないし……それじゃあ、利害の一致ってことで、よろしくお願いします。ええと……」

「神木八重香」

「宮澤美郷です。よろしく、八重香さん」

 男か女か分からない名前の青年が、にこりと微笑んで頭を下げた。これといって特徴のない、草食系しょうゆ顔に見えていた白い面が、一瞬、整い切った能面のように非現実的に映る。

 挨拶を返さない八重香に戸惑ったように、そろりと宮澤が八重香の顔を窺った。それにはっと我に返り、八重香は慌てて頷く。

「あっ、う、うん! よろしく! じゃあこっちじゃけ、急いで!」

 そのまま大して宮澤の表情も確認せず、八重香はハンドライトを宮澤から逸らして歩き出す。はい、と間抜けな返事と共に、後ろを青年の足音がついて来た。

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