【第三部】潮騒の呼び声(完結)
潮騒の呼び声 1
1.
しゅん、と釣り竿が黄昏の空を斬る。
遠く、ぽちゃんと仕掛けが着水して、波間に同心円の輪を広げた。その中心では、ほのかに光るオレンジ色の浮きが揺れている。
きりきりとリールを巻いて釣り糸を張り、狩野怜路はひとつ大きく息を吸い込んだ。口に銜えた煙草の灯が大きく光り、肺が煙で満たされる。小さなマリンパークの中にある海釣り用の桟橋に、怜路ら以外の人影はない。目を射るような夕日がようやく水平線の向こうへ隠れれば、辺りは急速に暗くなり始める。
「もう結構釣れたよ、怜路」
隣で己の釣り針から獲物――二十五センチ弱のアジを外していた下宿人が、クーラーボックスを覗き込んで言った。秋の彼岸を過ぎて最初の大潮の日、怜路は家賃滞納下宿人こと宮澤美郷を連れて、瀬戸内の島にあるファミリー向け釣り場に来ている。巴市からはフェリーも使って三時間仕事の場所だが、この時期の大潮は狙い目と職場の常連から聞いたのだ。
「まだまだァ! 餌は山ほど残ってんぜ」
前評判通りの入れ食いに、ご機嫌で怜路は大きく竿を引く。「さびく」といって、釣り針の下に重りとしてつけた小さなカゴから、そこに詰めた餌を出すための動作だ。海中ではカゴの大きな上下動によって餌のアミ――エビに似た小さな甲殻類が辺りにばら撒かれて、それにアジが群がっているはずだ。そのうち、間抜けで不幸な一匹が、アミと間違えて釣り針に食いつく。
「けど、これ以上釣って帰っても食べきれないと思うよ。お彼岸に無駄な殺生するなよ、生臭坊主」
「っせェ、まだまだ! 刺身で食って! なめろうにして! 唐揚げ! 南蛮漬け! 一夜干し!! 貴重なタンパク源だぜキリキリ釣れや貧乏人! それに彼岸と釣りは関係無ェ、それを言うなら盆だ! あと、俺の育ての親は天狗だし、戒律もあんま関係無ェ」
そう言う問題か、と、自身は神道系出身の下宿人が呆れる。怜路の養父は天狗だった。と言って、嘴や翼が生えていたわけでも、鼻が異常に長かったわけでもない。見かけはただの派手な格好をした胡散臭い中年だった。養父は一般常識や生活の知恵から呪術、野外サバイバル術まで、怜路に全て叩き込んでふらりと消えた。
朝、明るくなる頃と夕方の日が沈んだ今時分が、釣りには一番のねらい目だ。時間は無駄にできない。飲料と人間用の餌を入れた二つ目のクーラーボックスにどっかりと座り、怜路は薄闇に灯る浮きの灯りに目を凝らす。今宵は新月、魚の目が見えなくなる暗さまではあっという間だ。
「潮流れてンなァ」
短くなった煙草を灰皿に押し込み怜路はぼやいた。浮きはどんどん流されて行く。これだけ潮が速いと餌もすぐに流されてしまうだろう。
「大潮だもんね。新月だから月はないけど、よく晴れてるから星が綺麗かな」
怜路に引っ張られてやって来た貧乏下宿人はあまり釣りに熱心でなく、ジュースを飲んだり弁当を食べたり、こうして星を待って空を見上げたりと暢気にしている。自他ともに認めるインドア文系だが、しみじみと狩猟採集サバイバルには向かなさそうな男だ。
「ばっか、ぼけぼけしてねーで釣れっての。星なんざウチでも見れるだろうが」
もう一度さびいて、どうやら今回は外れかと怜路はリールを巻く。仕掛けを引き上げ、カゴに餌を詰め直すのだ。
「はいはい。真っ暗になるし、早めに餌も使い切って引き上げないとね。フェリーは確か、九時くらいまであったけど」
日付が変わるまでには家に帰り着きたいと、いかにも草食系といった風情の貧乏公務員がのたまう。その背中で、一括りにされた長い黒髪が揺れた。マリンパーク内はきちんとトイレも整備され、駐車場まで不自由しない照明が灯っている。これだけ明るければ、桟橋の真下ではずっと魚は釣れるだろうが、そうそう長く粘る気はないらしい。
風は凪いでいる。そろそろ九月も後半とあって、昼間はまだ真夏日もあるが夕方は多少ひんやりし始めた。油断して羽織るものを持ってこなかったらしい美郷が、薄い体を丸めてひとつ身震いする。
「車に上っ張り積んであるから取ってこいよ。風邪引くぜ」
言って怜路は、ズボンのポケットから車の鍵を取り出す。
「でも怜路は?」
さむさむ、と両腕をさすりながら美郷が遠慮した。
「俺ァこいつがウィンドブレーカー代わりになっからヘーキ」
そう言って怜路は、目映いオレンジ色のライフジャケットを美郷に見せつける。おー、さすがー、と気の抜けた声で感嘆して、美郷が怜路の差し出した車の鍵を受けとった。
「あれだよね、怜路、泳げないし水嫌いなのに釣り好きだし、安全対策万全にしてくる辺りなんかさすがだよね」
「たりめーだ。自然を良く知る者は自然をナメねーの」
怜路は昔、水難事故に遭って両親と姉を亡くし、自分も溺れて幼い頃の記憶を失っている。水に顔を浸けるのも好きではないが、それと釣りは別だ。「修行」と称し養父に連れられて山野を歩き回っていた頃、釣りや狩りも覚えた。
はいはいすいませーん、と油断した格好のインドア派が逃げた。怜路は餌を詰めなおした仕掛けを再び沖へ一投する。午後九時頃の満潮に向けて、急速に水面は上がっている。瀬戸内の島々の狭い間を抜ける潮流は速い。黄昏の残照をわずかに映す波は、まるで川のように流れていた。
「さて、まああと三十分が勝負だな!」
軽やかな音をたててリールが回る。ぐん、とさびけば、一度水面に消えた浮きが一拍置いて浮かび上がってくる。それが、再び痙攣するように海中へ消えた。
「来た来た!」
よっしゃ、と気合いを入れて、怜路は両足を踏ん張る。竿が重い。ただの魚とは思えぬ抵抗に最初気持ちが沸き立ち、次いであまりの重さにこれは地球を釣ったかと落胆する。しかし針先の何かは確かに左右に動いて暴れ回り、怜路を海へと引っ張っている。やはり大物か、と怜路は美郷の気配を探した。あまりに大物ならば細い釣り糸一本では引き上げられない。足元まで手繰り寄せたらたも網で掬い上げてもらう必要がある。
「美郷ォ! たも網くれー!」
大きく呼ばわれば、美郷が遠く返事をした。どたどたと桟橋を走る音が響いて、怜路はちらりと後ろを振り返る。怜路の派手なスタジャンを引っ掛けた美郷が走り寄って来るのが見えた。その時だった。
「うわっ!?」
ぐん、と恐ろしい力で竿が引かれた。
「怜路!?」
一瞬、判断を誤って竿を捨て損ねる。体勢が崩れた。体が、海へ向かって傾ぐ。
「怜路!!」
美郷が悲鳴のように怜路の名を呼ばわる。咄嗟に釣竿を放って受け身を取ろうとした両腕が、海中に沈んだ。ざぶん、とそのまま頭から海へ落ちる。耳と目を塞いだ磯臭い塩水が、口や鼻腔にもなだれ込んだ。
一瞬、頭が真っ白になる。反射的に藻掻いた四肢に、重たく海水が絡み付く。
(――怜ちゃん!)
波間に顔を出した一瞬、女の声が聞こえた気がした。
女の。――少女の。それは耳からでなく、頭の中でフラッシュバックした。
呆然とする怜路の目の前を、小山のような漆黒の波が覆う。
(……姉ちゃん)
それは、遠い過去に忘れたはずの、姉の声だ。
頭から波に喰われる。
まるで川の濁流に飲まれるように、怜路の体は瀬戸の潮に流されていった。
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