一人きりで



 ぼちゃん、と何かが池に落ちる音がした。


 母屋の縁側に座って缶ビールを呷っていた怜路は、ちらりとそちらを見遣る。薄暮に沈む池の周囲には、手入れの行き届かない植木たちが闇を作っており、その中に幾つも小さな気配が蠢いていた。


 やはり植木は造園業者に頼むしかなさそうだ、と怜路は胸中で溜息を吐く。狩野家の庭は、荒れに荒れていた。


 旧巴市内の端に、狩野の家はある。乗用車の車幅より申し訳程度に広い市道を五百メートルくらい這い上った先の、「市内」と呼ぶのも憚られるような場所だ。ここは、怜路が九つの頃まで生まれ育った、彼の生家である。


 だが、この家の思い出を怜路は何一つ持っていない。怜路には九歳までの記憶が無いのだ。二年前、この家と土地の所有権があることを養い親から教えられ、巴市に帰ってきた。記憶が無い為、思い入れようもないが、怜路はこの土地を気に入っている。


 狩野家は総二階の母屋に離れや納屋、二つある土蔵まで含めればかなりの広さがある。隣家とも五十メートルは離れたこの屋敷に一人で住むのは少々寂しかったが、半年もすると同居人ができた。美郷のことだ。


 本当は下宿人なのだが、歳が近く職も似ているので話が合う。感覚としては友人同士のルームシェアだ。


 美郷は今、怜路が座っている濡れ縁を渡った離れに下宿している。和洋二間で洋間には流し台が据えられており、風呂便所を共用すれば人ひとり問題なく暮らせる場所だ。


 しかし、現在その下宿人はここに居ない。職場の研修だとかで、三泊四日の出張に出ていた。怜路は久々に、この大きな屋敷に一人きりだ。


「静かだねェ……」


 土塀と離れ、母屋に囲われた中庭は、立ち枯れた雑草と落ち葉にまみれ雑然としている。しかし、中央に作られた池には絶えず新鮮な山水が注ぎ、暖かい季節にはメダカが泳ぐ。


 中庭を支配するのは、深閑とした清浄な空気だ。高台にある屋敷は広い庭と塀によって外界と隔てられ、背後から里山に抱かれている。山から落ちる清水は敷地内に幾つもある池を巡って水路へと流れ、水辺には濃密な闇が凝っていた。たまにぽつり、ぽつりと虫とも小動物ともつかない影が跳ねる。


 相変わらず色々と居るな、と怜路はのんびりそれを眺めていた。だぶついたジャージの上下に、片手には缶ビール、もう片手にはツマミのチーカマという、なんとも風情の無い格好だ。これが美郷ならば寝間着の襦袢姿に長い黒髪が絵になるところだが、あいにく怜路はそんな気品など持ち合わせが無い。


「あー、静かだねェ」


 もう一回言ってみる。実際、車の行き交う音すら無い。カエルも鳴かぬ季節は、遠く川の流れる音が聞こえるだけだ。


『あー、ひづかだねェ』


 何かが池の奥からひしゃげた声を返した。怜路の声に似ているが、どうにも発音が怪しい。


「へったくそ」


 思わぬ話し相手に、怜路は笑った。


『ひぇったくそ』


 ご丁寧に笑い方まで真似をしてきた。こちらの言葉をおうむ返ししてくる、山びこというやつだ。音の反響による物理現象ではなく、妖怪の方だ。しかも随分気配が小さい。


「子山びこか」


『こにゃまびこか』


「生麦生米生卵」


『にゃまむぎなまもめなまままも』


 ぶふ、と怜路はビールを吹いた。意地悪をしたのは認めるが、あまりにも噛み噛みだ。


「オイ、修行たりねーぞ」


『おい、ひゅごーたりねーぞ』


 今度はそこそこ上手く返してきた。


 この場所は、山の妖怪がよく下りてくる。と言っても大体が、今池の周りに群れている、虫だか小動物だかのような小物だ。この山びこのような幼体も良く現れる。それ以上の大物は、最近は白太さんを恐れて現れなくなっていた。あの蛇もなかなか美食家のようで、あまり小さなモノは美味しくないらしい。


「おーい、何か喋れや」


『おーい、にゃんかひゃべれや』


「ボッチ久々過ぎて寂しいんだっつーの」


『ぼっちひさひさすぎてひゃびしーんだっつーの』


 ただおうむ返しするだけの相手に油断し、つい本音が漏れた。


 最近、怜路は大抵誰がしか人の気配のする所に居る。全くの独りきりは久々だった。今、まるで世界に他に誰一人居ないかのように、ただ静けさが怜路の周りを満たしている。


「なー、タバコ吸っていい?」


 小っ恥ずかしい弱音を誤魔化すように、殊更大きく怜路が問うと、予想外の言葉が返る。


『だーめ、ここはきんえんです』


 誰だ、山びこにそれを教え込んだた奴は。不在の下宿人を思い出し、怜路は笑った。



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