別れ(終)
「臨兵闘者皆陣烈在前! オン キリキリバザラバジリ ホラマンダマンダ ウンハッタ!」
ぱんっ! と音を立てて克樹を中心に霊気が広がり、空間を浄化して結界する。その壁に阻まれた黒い靄が、ぶわりと撓んで方向を変えた。
「きりの。怪我はないか?」
結界の印を組んだまま、克樹は後ろに庇った少女を振り返る。きりのは驚き、戸惑った表情で克樹を見上げていた。
「克樹。帰ったんじゃなかったのね?」
「――ああ」
きりのの為に残ったのだ、などと気障ったらしい嘘を吐ける性格はしていない。克樹は曖昧に笑って、黒い靄の方へ視線を戻した。靄は兄と、あのチンピラ拝み屋に標的を移したのかこちらから遠ざかってゆく。
「克樹君」
別の場所に立っていた、法衣を纏った男が克樹に声をかけてくる。眼鏡をかけた穏やかそうな顔立ちの男は、確か兄の仕事仲間だったか。警戒してきりのを庇う克樹に苦笑して、歩み寄ってきていた男が足を止める。
「僕は巴市の職員で、辻本といいます。君のお兄さんの同僚です。きりのさんを無理矢理どうこうする気はないんよ。まず、あの小豆虫から隔離した状態でゆっくり話がしたいけえ、今のうちに社の中へ。社の方はちょっと勝手に結界させて貰うとるんで、克樹君も術を解けるしね」
にこりと笑う男に、敵意はなさそうだ。しかし、克樹は用心深く男を観察する。安易に信じて、危険が及ぶのは克樹ではなくきりのだ。警戒を解かない克樹に、男――辻本は「うーん」と困惑した表情で首を傾げた。
「どう言うたら信用してもらえるかね。宮澤君……君のお兄さんと僕らは、同じチームとして作戦行動しよるんよ。じゃけえ、僕じゃなくて宮澤君を信じると思うて来てくれんかね?」
言われて、迷う。
兄がきりののことを克樹に任せてくれたのは間違いない。「守れ」と確かにそう言ってくれた。構えを解いた克樹の裾を、不安そうにきりのが掴む。頷いて、克樹は辻本に向き直った。
「……分かった。話を聞こう」
言って、克樹はブレザーの裾を掴むきりのの手を取り、共に社へ向かった。
勝手知ったる小さな入り口から社に入る。確かに社の四方には符が貼られ、邪気を寄せ付けないよう結界されていた。きりのも招き入れようとして、先客に気付く。
「白蛇……?」
四隅にたぐまっていた闇が消えて、空虚さの増した板張りの間の手前。普段見るよりも幾分小ぶりな真白い蛇が、とぐろを巻いて克樹を迎える。その首には、何やら細く折った紙が括りつけられていた。
どうやら妖魔の類らしいその白蛇の気配には、覚えがあった。
「兄上?」
兄と同じ気配をしている。鳴神の秘術とは別の、式神か何かのようだ。克樹の呼びかけに反応して、近づいてきた白蛇が首を伸ばして克樹の手に触れようとする。それに応じて右手を伸ばし、克樹は白蛇に巻かれた紙を受け取ろうとした。しかし、蛇が手に触れた瞬間、脳内に声が響く。
――きりの、帰る。
たどたどしい片言の思念だ。纏う気配は兄と同じでありながら、思念の響きは全く違う。驚いた克樹の脳裏に、更に白蛇は訴えてきた。
――かつき、送る。山と、きりの、切る。
カタリ、と背後で音がして、克樹の後から社に入ってきたきりのが不思議そうに克樹を見ている。咄嗟に蛇を懐に押し込んで、克樹は場所を空けるように座敷の奥へ入った。蛇を隠す際、どうにか抜き取った紙片を右手に握り込む。辻本は入って来ない。話は、この蛇としろということか。
――白太さん、みさと、いっしょ。
ああ。と克樹は心の中だけで返事する。理屈は分からない。だが、克樹も兄が鳴神を出る時、何が起きたのかは聞きかじっていた。
(蠱毒の蛇を――……か)
「克樹?」
少女の声に、現実に引き戻される。克樹が送るのだと、兄は言っている。きりのと、この山のもやいを切って、彼女をここから解放しろということだろう。
他の道はないのか。突き付けられた厳しい指示に唇を噛む。
(この地で、きちんときりのを祀って、慰めてやれば……)
それは、不可能だという判断なのか。
『みんな理想とは程遠い、不自由な選択肢から「どれか」を選んで生きてンだ』
あのヤクザの、低く重い言葉がよみがえる。
兄の美郷が許された選択肢の中で、最良として克樹に渡したものがコレなのか。だとすれば、克樹は兄を信じるべきか。それとも疑い、抗うべきか。
――かつき、山にいた。きりの知ってる。
きりのをよく知り、きりのと親しい克樹が、彼女を見送ってやれと白蛇は言う。白蛇に括りつけられていたのは、きりのを山と切り離すための符だった。
克樹にとっては酷な命令だ。だが。克樹は、右手の中の符を握りしめる。
「……きりの。きりのは、これからどうしたい?」
心許なげな表情で克樹の前に座り込んでいる少女へ尋ねた。
目の前の少女は消沈し、どこかぼんやりと虚ろな顔をしている。自分が居ない間にどんなやり取りがあったのかと、克樹は眉を寄せた。あるいはこの社の中同様、身の内に巣食っていた邪気と引き剥がされた影響か。
「――おふさは、もういないの?」
ぽつん、ときりのが訊いた。つい先ほどとも、随分前とも思えるこの場所での、克樹ときりのの会話の続きが始まる。
「ああ。もう居ない」
「どこに行ったの?」
あの世、天国、ご浄土、どう表現しようかと悩んだ克樹の表情で、きりのは察したようだった。
「やっぱり、もうしんじゃったのね」
「……ああ」
薄暗い社の中に、沈黙が落ちる。
「そう……」
今の、この状況で、結局何がきりのにとって、一番の救いになるのだろうと克樹は考える。
「もう誰もいないのね。おふさも、母さんも、父さんも」
俯き、膝の上で両手を握り合わせて、小さく小さくきりのが呟く。
「みんな、私を置いて行くのね。克樹も、家に帰るのね。私だけ、ずっと鬼なのね」
震える肩に触れようとして、躊躇う。嘘は吐けない。一度は衝動的に拒絶したが――物凄く腹立たしいが、拝み屋の言葉はいちいち図星だった。兄が克樹を呼ぶのなら、克樹はそれを無視できない。ずっとずっと、探し待ち望んだ声だ。
だが、克樹がきりのを置き去りにしない方法は、ある。
「いや――。きりのも、この山を出よう。もう、鬼ごっこは終わったんだ。だからきりのも帰ろう」
覚悟を決めて、痩せた薄い肩にそっと手を置く。不思議そうに、きりのが克樹を見上げた。
「鬼ごっこ、終わったの?」
「ああ」
「でも、始められなかったのに」
それは、きりのを縛った「呪」だ。
肉体は土へ還り、霊魂は山に呑まれて同一化して、人柱としてこの山そのものとなるはずだったきりのは、しかし鬼ごっこの「鬼」として形を残してしまった。山に置き去りにされたまま時を止めて、ずっと、妹が鬼ごっこを始めるのを待っている。
「いいや、きりの。鬼ごっこは始まっていた。そして今、終わったんだ」
言って、克樹はきりのの手を取る。
「きりの、とーった。鬼だったのは私だ。……会った時、最初に言っただろう。私も『鬼』だと」
きりのは妹を追って、克樹は兄を追って。本当は互いに、別の相手を追う鬼ごっこだった。だが同じように、もう帰って来ない兄弟を追って、一方通行の鬼を演じていた。
(不思議な巡り合わせだな)
克樹の為に犠牲を強いられて、とうとう闇に消えてしまった兄を追って、克樹はきりのを、妹の身代わりに山で迷う姉を見つけた。克樹はおふさではない。だが、克樹が克樹として、兄のことが大好きな弟として言えることは、ある。
「いつも遊んでくれていた兄弟が居なくなると、寂しいんだ。隠れんぼが好きだったのは、『見つけてもらえる』からだった。だから、自分が鬼をやるのは嫌いで我儘ばかり言った。なのに、いつも自分を探してくれた人が消えてしまったから……ずっと探していた。探して、見つけて、捕まえた。だからもう、鬼ごっこは終わりだ」
呪力を込めた言霊として、克樹はきりのに囁いた。克樹の手の中で、きりのの細い指がわななく。
「ほん、とに……?」
縋るように爪を立てて握るその小さな手を、克樹は「ああ、」と握り返した。きりのの「鬼」としての部分を、ほんの少しでも、克樹が共に遊んで過ごした時間が書き替えたことを祈る。
(誤魔化しでも、勘違いでも、憶測でも……きりの、お前が救われるならそれでいいと思うんだ)
そのために捻じ曲げる現実や嘘があるなら、それは克樹が引き受ける。
「帰ろう、きりの。この山から出て、おふさも、きりのの母君も、皆が先に帰った場所へ、きりのも帰るんだ。今度は、私がきりのを送るから。きりのが迷わないように、ちゃんと」
右手の中の紙片を、きりのに握らせる。「迷わない呪いだ」と言って、克樹は符を発動させる呪を唱えた。
「
符が発動し、きりのの輪郭がふわりと淡くなる。そのままきりのの手を取って、克樹は立ち上がった。
――そと、つじもとさん、準備した。
とても断片的な、白蛇のメッセージを信じてきりのを促す。いつの間にか閉じていた社の引き戸を開けると、まるで春の真昼、晴天の下のような柔らかく、まばゆい光が社の中に差し込んだ。「わぁ」ときりのが感嘆の声を上げる。
ふわり、と爽やかな風に乗って、花の香りと花弁が舞い込んできた。桜ほどの花弁は薄紅や黄色、空色など華やかなパステルカラーで空間を彩る。妙なる香りは蓮のものか。
「すごい、綺麗! ねえ克樹、見て、池が光ってる!!」
戸の向こうを指差して、きりのがはしゃぎ笑った。これまでで一番明るい笑顔に、込み上げるものを押さえて克樹は笑い返す。
「ああ。綺麗だな」
遠く、美しい調べが聞える。歌うように高く伸びやかに、澄んだ鳥の鳴き声がする。
克樹の手を掴んだまま駆けだそうとしたきりのが、動かぬ克樹に引っ張られて止まった。目を瞬かせるきりのにひとつ頷いて、克樹は一歩だけ前に、戸の際まで進む。社の外に出たきりのの着物がみるみるうちに、美しく鮮やかな晴れ着に変わる。気付いたきりのが再び歓声を上げた。
「よく似合う。私はまだそちらへは行けないんだ。だから、ここからきりのを見送るよ」
そんな、ときりのが消沈した。結局一人ぼっちなのか、と肩を落とす。
「大丈夫だ。聞こえるだろう。きりの、お前を呼んでいる」
――おおい、おおい。その声は男のものとも女のものとも、老人とも子供ともつかない。常世の呼び声だ。
「おふさ!?」
きりのが、克樹の手を離した。
――おおい、おおい。
克樹の耳に、それは童女の声には聞こえない。だが、きりのは弾かれたように駆け出す。
そして少し走って、一度だけ克樹を振り返った。
「克樹、ありがと。またね!」
「ああ。また、な」
ばいばい、と手を振り合う。またもう一度会いましょう。それも古い古い魂呼ばいの呪いだ。
手を振り終えたきりのが、晴れ着の裾を蹴って駆け出す。
もう振り返らない背中を確かめて、克樹は静かに社の戸を閉めた。社の中は再び薄闇に沈み、しん、と沈黙に満たされる。
ぱたり、ぱたりと雫が落ちて、俯く克樹の足元を濡らした。
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