別れ(一)


 13.


「宮澤君、具合の方はどんなですか」


 集会所の端に座布団で簡易の寝床を作ってもらい、横になっていた美郷に芳田が声をかけた。衝立代わりの折り畳みテーブル越しにかけられた声に、微睡んでいた美郷は「ああ、はい」とピント外れの答えを返す。足元を暖めるストーブが心地よい。頭まで被っていた毛布を剥いで、美郷は起きあがった。解いていた髪を適当に手櫛で梳く。


「失礼します」


 と言って芳田が、組立てて横倒しにされていた座敷テーブルを退けた。美郷は毛布を畳んで正座する。時刻を確認すると、午後三時を回ったところだった。正午前に下山して、諸々の処置や情報共有、食事を済ませて休ませてもらったのが一時半より少し前だ。一時間半ほどうつらうつらと仮眠を取った美郷の体は軽くなっていた。


「係長。だいぶ楽になりました」


 軽く頭を下げた美郷に笑って、芳田が脈を、と美郷の両手首を取る。


「そうですな、だいぶん脈も良うなっとります。仕上げに腕の符を巻き換えて、もう一杯霊符湯を用意しましょう」


 満足げに頷いて立ち上がる芳田に、不服を漏らす度胸などなく美郷は「はい、」と情けなく笑った。先に怜路から散々に脅されたが、確かに芳田の霊符湯はなかなかの苦行である。その代わり、効果も絶大だ。負傷した腕も本来ならば何針か縫う怪我だが、消毒された後「傷が開かない霊符」を巻いてもらっている。あまり負担をかけると効力を失うが、通常の動き程度ならばこれで大丈夫だそうだ。


「外の支度は済みました。今は辻本君が着替えよってのところです。半までには出て貰うたほうがエエと思いますけえ、宮澤君も準備をお願いします。荷物のほうは私で用意しておきました。帰りは冷えるかと思いますが、まあ山の中は暗うも寒うもならんようですけえな。特別に上着を増やす必要も無ァでしょう」


「すみません、何から何まで……」


 至れり尽くせりの対応に美郷が恐縮すると、いやいや、と芳田は首を振った。


「宮澤君のパフォーマンスに今回の作戦の成否がかかっとりますけえな。コンディションを整えるのは当然のことです。まあ、F1車にでもなったつもりでおってください」


 F1車、という表現に美郷は少し照れ笑いをした。そんな上等なものとして扱われるのはなにやらこそばゆい。だが、思いのほか真剣な口調で芳田は続ける。


「普通に考えりゃあ、私はもう君を後方に下げて治療と休養を指示するのがホンマです。ですが、ウチの人員にも限りがあって、ご存じの通り元々足りておりません。私は君の上司として、君に無茶をしろと指示せにゃあいけん。その責任は私が取ります。そして、リスク回避のために可能な限りの手を打つのも私の仕事です」


 今の状態が「無茶」になった原因のいくらかは、美郷自身にある。だが、「自分が悪いのだから」と言って美郷が更に勝手に負担を抱え込むこともまた、事態悪化のリスクを増すのだ。美郷は内心、自分の至らなさに溜息を吐く。いくらここで美郷が「すみません」と言葉を繰り返しても、それは何の意味も持たない。美郷にできることは「繰り返さないこと」だけだ。


「はい。ありがとうございます」


 気合いを入れ直して頷いた。美郷は美郷に任された仕事を完遂する。そのために、受けられるサポートは全て受ける。反省は、全て終わってからだ。


「狩野君にも、協力をお願いするよう伝令の護法を出します。まだ向こうから、克樹君を確保したいう連絡は入っておりませんが、このまま両方とも今日片付かんのは避けたいですけえな」


 あの小豆虫の形をした邪気が「人間の恐怖」だという怜路の情報から、加賀良山の祟りの正体はほぼ判明した。芳田の判断は、まずこの加賀良山の鬼と邪気の件を解決する、というものだ。そのために、一旦克樹の捜索を中断して協力を、と怜路に仰ぐ。


「わかりました」


 ストーブのそばに寄って上を脱ぎ、右腕の処置をしてもらう。破れ、血で汚れてしまったシャツの類は辻本のものを借りているので若干大きい。上着だけは応急で血だけ洗い落として、ストーブ前に干してあった。見慣れない生傷のグロテスクさに目を逸らす。痛みはない。


 手際よく霊符と包帯の交換が終わり、服を着直したところで問題の霊符湯が差し出された。ただ焼いた符が入っているだけとは到底思えないお味をしている、謎の霊薬だ。渋々それを受け取る。差し出す芳田は少し楽しそうだ。


「――係長、これは係長の学ばれた秘伝の処方か何かですか……? 僕が知ってる霊符湯とは全然味が違うんですが……」


 一口啜って尋ねる。苦みに顔が歪むのを、我慢するのは不可能だった。


「はっはっは、その通りです。私の修行した山の秘伝でしてな、よう効くでしょう。一般の霊符湯なら、宮澤君も作って狩野君に飲ませちゃったことがあってんでしたな」


 朝、怜路にも同じものを飲ませたときに聞いたという。頷いた美郷に、芳田は目を細めた。


「彼も巴に落ち着いちゃったですなあ。狗神の時はどうなるかと思いましたが……味方をしてくれてなら心強い」


「はい。ほんとに頼りになって……、今回はかなり僕が叱られました」


 たはは、と美郷は所在なく頭を掻く。実戦経験というか、人生の経験値というかがあまりにも違う。今回は己の未熟さと、怜路との差を思い知らされた。克樹の失踪発覚以後は、ずっと心配してもらい、面倒をかけっぱなしだ。挙げ句、そうして差し伸べられる手に素直に頼ることすらできずに、一人で転びかけたのだから目も当てられない。


「そうしょげんさんな。お互い、持ちつ持たれつでエエじゃあなァですか」


 口の中の苦さと気持ちの塩辛さに、情けない顔で肩を落とした美郷に芳田が笑う。


「怜路が、面倒見が良いっていうか……ほんとに人情家っていうか。僕が世話になってばっかりだと思います」


「狩野君は、そがな様には言うとってんなかったですがの。エエことじゃ思いますよ。お互いに、相手のために何かするんが苦にならん、相手のことを尊敬できるいうんは。どっちが上やら下やら、先やら後やらじゃあうて、重要なのはそれを『自分がやりたい』と思うてできる、苦にならんいうことじゃ思います。――大切にしてください。それこそが、お互いにとって『良い縁』じゃいうことでしょう」


 珍しく多弁に、美郷が何とか飲み干した湯呑みを引き取りながら芳田が語る。そもそも、芳田が美郷のプライベートに言及してきたことも思い返せばほとんどない。美郷が望まない限りは踏み込んでこない、上司としての立ち位置を崩さない人物だと思っていた。


 驚きながら芳田の話を聞いていた美郷に、芳田は正座のつま先を立てながら笑いかけた。


「いつかは別の縁で、それぞれに家族を持つんかもしれません。ですが今、お互いの『生活』を、支えて合うて一緒に居られる相手がおるのは、幸せなことです」


 他の誰でもなく、美郷と、怜路だからこそ成立する関係だ。どちらもが同じくらい、他に頼る相手を持たない。それが幸か不幸か、そういった話でもない。


 同じ水深ふかさで、同じ薄闇の中で、隣に。


「……そうですね。ありがとうございます」


 美郷も微笑み返す。芳田の温かい言葉と笑みが心に沁みた。


 父親のような目でというのはきっと、こういう感じなのだろうなあと、美郷は湯呑みを片づけに立った芳田の小柄な背を眺める。遠く車の音が聞こえ、芳田が集会所の外に顔を出した。つられて眺める外は暗く、重く雪雲が垂れ込めている。夕方には降り出すと聞いた。あまり悠長にはできないと、美郷は気を引き締めて髪を括る。袖の破けたジャケットを着込み、準備してあったヒップバッグの中身を確認してベルトにぶらさげた。


「辻本さん」


 車の主は辻本だった。「着替え」を終えた辻本が、法衣姿で微笑む。


「ああ、宮澤君。具合はどう? 係長の薬はよう効いた?」


 頷く美郷に、二時間ばかりかけて準備した「荷物」を抱えた辻本が「良かった」と笑った。


「さっき狩野君から報せが来とったみたいです。大久保さんから預かって来ました」


「おお、ありがとうございます。――ほうですか、これなら、プランAで行けそうなですな」


 芳田と辻本が手早く状況確認をして、美郷を手招き八雲神社へと歩いてゆく。これから美郷と辻本で加賀良山に入り、あの小豆虫を封じて鬼の少女――きりのと山のもやいを切るのだ。そうすることで、小豆にまつわる疫病も神隠しもこの山から消える。元々、山自体の霊力が強いため縄目は残るであろうが、それ以外の「祟り」は全て消滅させる作戦だった。


 きりのの元へは、美郷が道を繋げる。


 弟妹への依存と、執着と、憎しみと――そして愛情と。


 小豆虫がいとも簡単に美郷の心に侵入してきたのは、美郷ときりのに共鳴する部分があったからだ。きりのとおふさの母親は、きりのよりもおふさを選ぶ人物だった。杉原このみも、きりのとのやりとりを覚えていた。理由は、今更誰にもわからない。


 昨夜は克樹を探す美郷の心の隙へ、きりのが潜り込んできた。


 今度はきりのの元へ、その時できた繋がりを手繰って美郷が行く。


「克樹君のことは、あれでエエですか宮澤君」


 芳田が目配せし、頷く美郷を確認して、怜路へと護法を飛ばす。


 門番をしている大久保が、「頼むで」と荒っぽく美郷の肩を叩いた。はい、と笑って美郷は山の入り口に立つ。


「――克樹には、納得してもらいます。行きましょう」


 きっぱりと言って、美郷は山へ一歩を踏み出した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る