縁(下)
異界の入り口まで出迎えてくれた芳田に若竹と美郷を任せ、怜路は山の中へと引き返していた。美郷と違い、怜路は克樹との「繋がり」はない。それどころか、未だ生で姿を拝んだこともないため、怜路自身の術で克樹にたどり着くのは難しい。美郷と下山しながら話す中で、若竹が何がしか捜索の術を持っていたはずだという話になったので、伸びている若竹の持ち物を勝手に物色した怜路は、そのとき見つけた羅盤もどきを失敬して使っていた。克樹のいる方角を示すらしい羅針を頼りに、単身足下を覆う低木や笹、シダの類を踏み分ける。
「しかしアレな、意外と麓近くに居やがんなコレ……」
片手に羅盤を乗せた怜路は、苦笑い混じりに顔を歪めた。下草の茂る場所とはつまり、日照量の多い場所だ。深く険しい山奥ではなく、なだらかな山裾で怜路は笹と雑草を漕いでいる。美郷によれば今までの様子からして、山の異界は歩く者の意思を反映してその行き先を変えるらしい。山奥へ隠れたいと望めばその先には暗い木立を、そして――。
(こんな、すぐ麓に出れそうな、見通しのいい山裾をウロついてるっつーことは、だ)
がしがし、と怜路は錫杖を持つ手で頭を掻いた。薄々感じていたことだが、かの鳴神の跡取り殿は、かなりの甘えん坊ではないだろうか。
「まあ、相ッ当美郷が甘やかしてるクセーしなァ……」
美郷の自己評価など知ったことではないが、傍から見たあの男は、気に入った相手を過保護に甘やかすのが好きな、世話好きで付き合いの良いお人好しである。日頃しょっちゅう言いくるめて己の用事に付き合わせたり、細かいところで世話になっているのは他ならぬ怜路だ。先ほどは勢いで叱り飛ばしてきてしまったが(その後は借りた猫のように大人しかったので、多少言い過ぎたのではないかと不安である)、基本的には面倒見が良すぎるアホの類だと、怜路は美郷のことを認識していた。
いつの間にか暗黙のまま、美郷は風呂トイレの掃除と、ついでに怜路の洗濯物まで洗っているのだから間違いない。それをネタに家賃についてゴネることもなく、逆に滞納をチラつかせれば栗剥きやら干し柿作りやらと細かい雑用にも付き合う。アレはただの頼られ好きの、根っからの長男気質だ。
くだらないことを脳内で力説しながら下草を漕いでいると、羅盤の針が迷うように揺れ始めた。怜路は意識を研いで周囲の気配を探る。
こんもりと茂る常緑の低木の陰で、草が不自然に揺れた。集中すれば、明らかに動物のものではない、大きな霊力を含んだ人間の気配がわだかまっている。兄の美郷とはだいぶ趣の異なる、よく言えば活発な、悪く言えば落ち着きのなさそうな、はぜる炎のような気だ。
(……俺が想像してたより、だいぶ伸び伸び育ってやがんな?)
聞きかじった情報を合わせれば、鳴神克樹はかなり抑圧的な環境で育っている。怜路はぼんやりと、重なる抑圧の果てにとうとう悲鳴を上げた、薄幸の美少年を想像していた。だがこれは、美郷のように、自分を殺して「適応」することを覚えた人間の気配ではない。
うーん、とひとしきり考えて、それが今どうでも良いことに気づいた怜路は気持ちを切り替えた。逃げられないように気配を殺して近づきかけて、思い直す。まずは正面から声をかけてやるべきだろう。一応、今の怜路は美郷の代理だ。
がさがさと遠慮なく下草を踏み分け、怜路は真っ直ぐ克樹へ近づいた。足音に気づいた人影が、低木の木陰から顔を上げる。逃げ隠れしている最中とはとても思えない、素直で警戒心の薄い動きだ。
(わりーな、お兄ちゃんじゃなくてよ)
怜路の姿をみとめ、あからさまな失望と警戒心に沈んだ顔に思わず苦笑いする。写真で見たとおり、美郷とは方向性の違う華やかな顔立ちの正統派美少年だ。
「お前が鳴神克樹だな? 俺は狩野怜路、鳴神の依頼でお前さんの捜索に協力してる地元の拝み屋だ。知ってるとは思うがお迎えが来てる。山を下りようぜ」
できるだけ優しく穏便に、と自分に言い聞かせながら怜路は克樹に声をかけた。とはいえ、お上品な言葉など柄ではない。せいぜい、お子さまなりの立場やプライドを無視しないよう心がける程度だ。
反対に嫌そうな表情を隠そうともせず、鳴神のご令息はふてくされた声を返した。
「嫌だ。帰らない」
気持ちの良い断言である。お兄ちゃん以外はお呼びでない、といったところか。さがれ下郎、とでも言い出しそうな若様に、怜路は首筋を掻いた。右肩に担いだ錫杖を揺らし、左手を腰に当てて次の言葉を考える。そんな怜路の様子が気に入らないのか、正統派美少年の坊ちゃまはますます眉間を険しくした。
「あのさ、みんな……鳴神の若竹って奴も、俺も、それに美郷も、みんなお前を探してンのよ。アレだろ、美郷に会いたくて巴まで来たんだろ? アイツも待ってるぜ」
ふわふわ天然栗毛の髪が、威嚇する猫のように逆立って見える。その細い肩が「美郷」という単語に反応してさらに尖った。俯きがちに唇を引き結んだ後、克樹は傍らに吐き捨てるように低く答える。
「……誰も、私が心配で探しているわけではないだろう。鳴神も、お前も……兄上も」
気のない姿勢のまま固まって、怜路はとっくりとイジケ美少年を観察した。「はァ?」と声を上げなかっただけで賞賛に値する、と自分で自分を褒めてみる。錫杖を肩にもたせかけて、右手でがりがりがり、と頭を掻いた。
(なんでそうなった……? 美郷の奴、コイツになんて声かけたんだ?)
そこまでコミュニケーションの不自由な男ではなかったはずだ。状況が掴めず、怜路は美郷から事の詳細な成り行きを聞かなかったことを後悔した。
「イヤ、あー……美郷がお前になんつったかは知らねェけど、あいつ滅茶苦茶お前のこと心配してんぞ。ちょっと今コッチ来れねえから俺が代わりに迎えに来たが、麓でお前を待ってる。下りてゆっくり話をしな」
「うるさい! お前が一体私と兄上の何を知っているというんだ!! 兄上は、あんな人じゃっ……! あんな冷酷な、心ない人じゃなかった!」
激昂した克樹が両の拳を握って叫ぶ。頬を紅潮させ、その目尻には涙が浮いていたかもしれない。だが、言っていることは怜路から見ればいちいちピントが外れていて、何と返してやれば良いか迷う。
「あのな、そりゃ何かの勘違い……」
「知ったような口を利くな! 兄上は……私の兄上はもう居ないんだ……! お前たちは皆、そうやって適当な言葉で誤魔化して、他人を都合良く使おうとする!」
かみつくように返されて、寸手のところまで出掛かった「このクソガキ」という言葉を、怜路は無理矢理飲み下した。元来そう気の長い方ではない。早々に面倒になってきた。
(ガキをガキだっつって罵ってもしゃーねェけどよ……! どんな駄々っ子だコイツ!)
自分が世界で一番、孤独で不幸だとでも言わんばかりの様子に、なけなしの「優しい言葉」が尽きてきた。左手が無意識に煙草の紙箱を探る。
目の前の少年は、全身で「ぼくを見て、ぼくを愛して」と言っている。克樹の言う「兄上はもう居ない」というのは結局、「ぼくだけを可愛がって、甘やかしてくれるお兄ちゃんがいない」くらいの意味だろう。誰はばかることもなく、躊躇いなくその駄々をこねられるのはきっと、幸いなことだ。そう怜路は己に言い聞かせる。
「……だからもう、私には
嘲り吐き捨てる言葉に、とうとう怜路の忍耐力が尽きた。
「甘ったれてンじゃねェぞこのクソガキっ! テメェこんな浅ェ山の端っこで何言ってやがる! ホントは兄貴のお迎え待ってんのがモロバレなんだよっ!!」
じゃりん! と地を打った錫杖の金環が鳴る。
「なっ……! うるさいっ!! お前には関係ない!! 私のことも、きりののことも、皆いいように利用して、大義名分とかいう免罪符で誤魔化して喰い物にする! 兄上はっ、兄上だけは違うと思ったのに!!」
とうとう涙声になったお坊ちゃまを前に、怜路は取り出した紙箱の底を叩いた。器用に一本煙草を出してくわえる。安物のガスライターを鳴らして火を点け、思いっきり肺腑に毒煙を吸い込んだ。溜息共々、深く深く煙を吐き出す。
「あのなァ……。世の理不尽に振り回されてンのが、てめぇ一人だなんて思うなよ。俺ァ、『みんな辛いんだから我慢しろ』なんてな台詞はでっ嫌ェだ。他人の痛みは他人のモンだ、知ったこっちゃ無ェ。けどな、」
克樹に、同情しないわけではない。
この思春期少年に『大人の事情』やら、面白味も有り難みもない一般論やらを突きつけて納得させようとも思わない。
「みんな理想とは程遠い不自由な選択肢から『どれか』を選んで生きてンだ。お前の兄貴だって、クソみてーな選択肢から、それでも自分が納得できる方のクソを選んでそいつを被った。今テメェの前の選択肢に、どんなクソしか並んでなくても『選ぶ』のはテメェで、選んだ以上どんだけそいつがクソだろうがそいつはお前が背負うんだよ。今テメェがホントに『逃げる』っつーのを選ぶなら、そいつがどんな理由であれ、結果で起きるこたァお前のモンだ」
美郷のように、全て一人で背負えとは言わない。だが、結果として克樹が預かり知らぬところで若竹や他の誰かが責任を取ることも、美郷が一生自分を責めることも、克樹でない誰かが望まぬ形で鳴神を継ぐことも起こり得る。罪や悪ではなく、克樹の選択はどこかで何かの「
怜路らの世界では、それを以て「縁起」という。
克樹の前に示される選択肢も、取り巻く環境や経緯もまた誰かの紡いだ「縁」の果てにあり、そして克樹の選択もまた誰かの環境や選択肢を変えてゆく。誰一人として、自分だけの意思で、自分だけの思うとおりに選ぶことも生きることもできはしない。
苛々と煙草を吸いながら説教を始めた怜路を、克樹は不満そうな顔で睨んでいる。そんなもの知ったことか、という表情だ。だがどれだけ「自分は悪くない、環境が、選択肢が悪いのだ」と言い張っても「選んだ自分」から逃れることは叶わない。それが怜路の人生哲学である。――本来ならば。
(だが、まあそうだな。結局だから、コイツも『縁』だ)
限りなくクソしかなかった選択肢の果てに巴に流れ着いた美郷と、糸の切れた凧のように流れ流れて、結局「実家」で彼を招き入れることになった怜路の。この世界のどこで誰が、他のどの選択肢を選んでいても辿り着かなかった場所に、怜路は立っている。
その「縁」は、限りなく「タダの偶然」に近い。
怜路と美郷を繋いだものも、まさしく「縁」だ。無限に重なった「誰かの選択」の果てに存在したひとつの結果で、そこに血の絆や、名と枠組みを持った「関係」は存在しない。今まで怜路が触れて繋ぎ、そして手放し途切れてきた人間関係は全てそれだった。特別な名を、怜路から付けようともして来なかった。
(――名前が欲しいと、思わねえワケじゃねーけど)
名付けたそれが壊れる瞬間も見たくはない。形を与えれば、それは必ずいつか壊れる。切ろうとしても切れない「絆」に憧れる怜路は、だからこそ――。
ジッ、とひとつ大きく煙草をふかし、吸い殻を足下に放った怜路は念入りにそれを踏みにじった。地面に突き立てていた錫杖を、おもむろに持ち上げて構える。じゃらりと金環が鳴った。
「けど俺ァ今回、お前にベタ甘ェ、アホみたいなブラコンの兄貴に頼まれて来てンでね」
ニヤリ、と思い切り意地悪く好戦的に笑う。克樹が眉根を寄せて身構えた。
「アイツに免じて、お前の駄々にも付き合ってやる。――逃げれるモンなら逃げてみろ、やれるモンならかかって来いや。悪いが俺ァ、テメェみてーな甘ったれたガキが大っ嫌ェだ。容赦はしねェ!!」
吼えると同時に地を蹴った。
美郷に約束した通り、伸して担いででも山から引きずり下ろす。
誓いと共に気を練る怜路の眼前には、克樹が潤んだ目をまん丸にして突っ立っていた。
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