再会(終)
怜路が来るまでその場で少し休もうと、美郷は転石のひとつに腰掛けた。一息ついた途端に、右腕の傷が存在を主張する。じくじくと熱を持った痛みに顔を顰め、美郷は切り裂かれて血の滲むジャケットの袖をおっかなびっくり確かめた。止血が必要なほど深い傷でもなさそうだが、血で衣服がべったりと肌に貼りつく感覚が不快だ。
「どうしようかな……怜路がすぐ来てくれるなら、あいつに見てもらう方が的確だよなあ。――あっちも……」
ぶつぶつと言いながら見遣るのは、杉の根元に倒れている若竹の姿だ。捨てておくわけにも行かないが、美郷が一人で背負って帰るのは今の体力的に厳しい。
(だけど、若竹さんに憑いてたあの黒いのは一体何なんだろう。この山の邪気なのか……でも、この山の鬼が操る邪気は小豆虫の形を取ってたし、若竹さんの纏ってたモノとは少し気配が違った……おれを狙ってきたのは、憑かれた若竹さんの意思だったのかな)
左手で右腕の傷を押さえながら、美郷は握ったままの鉄扇を目の前まで持ち上げる。
「うわっ、ボロボロだな。やっぱ安物じゃダメか、当たり前だよなぁ」
最近は夜間の白太さん封じをサボっているので、多少消耗品費が浮いている。分割払いになっても、きちんとした経路で確かな品を買うべきかもしれない。至る所に深く抉れた傷のある本日実戦デビューだった鉄扇を哀れんで、美郷はそれを懐に仕舞った。ひとつ大きく溜息を吐いて、杉の樹冠に蓋をされた天を仰ぐ。今の時間も天候も全く分からない。通信機器も時計も、八雲神社を抜けて山に入った瞬間にがらくたと化した。
――かさかさ、かさかさ。不意に足元で何かが騒めいていることに気づき、美郷は視線を下へ戻した。薄暗く不明瞭な足元で、小さな物音が無数に聞こえてくる。
「……この山、こんなんばっかだな」
仕舞ったばかりの鉄扇を再び握り、立ち上がった美郷は足元を凝視する。物音の正体が作業用スニーカーの爪先に触れて、やっとその正体が露わになった。
「……っだから、なんっで、蛇なんだよっ!!」
背中に鎖模様を背負った、黒々とした毒蛇が無数に地を這っている。爪先の一匹を思い切り蹴飛ばして、美郷は咄嗟に腰掛けていた転石の上に逃れた。
――美郷、蛇嫌い。
肚の内側で、同居人の白蛇が威嚇する。早朝の水垢離以降、白蛇の意識は常に覚醒しており、白蛇と美郷の感覚は部分的に共有されている。美郷よりも妖気に敏い白蛇の感覚は、よい戦闘アシストになってくれた。
「いや、お前が復唱しなくて良いよ。というかおれは、黒い蛇が嫌いだ」
喰わされた呪詛の蛇も、ぬらぬらと黒い蛇だった。どういう理屈で脱色して白蛇になったのかはいまだ良く分からない。
――白太さん、白い。
「そうそう。金運を持って来てくれれば文句ないんだけどな」
最後の軽口に応答はなかった。金運が理解出来なかったのか、言いたいことを飲み込んだのかは知らない。代わりに、一気に集束した邪気が黒い大蛇となって美郷の目の前に鎌首をもたげた。爛々と燃える緋色の両眼が美郷を見据える。ぼってりと大きな腹に短い尾、逆三角の頭を持つ毒蛇だ。
(燕はまだもう一羽――!)
既にかなり消耗しているが、残っていた燕を呼んで毒蛇の顔に叩きつける。燕は落ちたが、その隙に美郷は身を翻して距離を取った。しかし。
「げっ」
燕の体当たりなどものともせず、黒い大蛇が美郷に襲いかかってくる。一撃目の毒牙をどうにか躱し、二撃目は横っ面を鉄扇で叩いて受け流した。その時、とうとう鉄扇が折れて先端が弾き飛ばされる。
「うわっ!」
流石に無理だったか、と、それでもどうにか毒牙を避けて、多少たたらを踏みながらも体勢を整えた美郷は、毒蛇と正面から睨み合った。
(九字を切る余裕があるか……?)
距離が近すぎる。迷う美郷に、内側の白蛇が主張した。
――行く!
「えっ、ちょっ……!」
止める間もあらばこそ、作業用ポロシャツの襟元をすり抜けた白蛇が、美郷の前に飛び出して巨大化する。
「怪獣大戦争やりたいワケじゃないんだぞ!!」
という美郷の嘆きを置き去りに、白と黒の大蛇が鬱蒼と昏い荒廃林の中で睨み合った。互いに低く伏せて様子を窺い、激しく尾で地面を打って威嚇しながら間合いをはかる。今までの小物と違い、毒蛇は美郷の白蛇と同じくらいの大きさをしている。簡単に「ごっくん」で済む相手ではない。
迂闊に手出しもできず、美郷は白蛇の背後で戦況を見ていた。
睨み合いはしばらく続き、先に仕掛けてきたのは毒蛇の方だった。白蛇の首を狙い、一瞬頭を沈めて横合いから咬み付いてくる。紙一重でそれを避け、今度は白蛇が全身のバネで毒蛇に飛び掛かった。敵の胴に咬み付き、素早く巻き付いて毒蛇を絞り上げる。
(動きが止まった!)
「天斬る、地斬る、八方斬る。天に八違い、地に十の
ぱんっ! と高らかに柏手を響かせる。音に弾かれたように毒蛇の頭が跳ね上がり、ぼってりと寸胴な体がその輪郭を崩した。黒い靄に溶け崩れた毒蛇を逃し、地に伏した白蛇が不満げに尻尾を震わせる。
「もういい、白太さん。帰って来い!」
この白蛇は強力だが、どうやら「最強の式神」として操ることはできそうにない。内臓を引き絞られるような鈍痛から解放されて、美郷はほっと息を吐いた。白蛇は美郷と深く繋がっている。否、むしろ美郷の分身と言っても良い。白蛇が毒蛇と絞り合いをしている間、美郷にもその痛覚が共有されていたのだ。
(まあ、今までのアレコレから何となく予測はできたけど……白太さんがカウンター喰らったらおれも一蓮托生だ……!)
わんわんと唸る甲虫の大群に変わった黒い靄を威嚇しながら、じりじりと白蛇が後退してくる。触れた尾から不満そうな意思が伝わってきて、美郷はひとつ苦笑いを零した。
「大丈夫だ、お前が無茶しなくてもどうにかなる」
じゃりん、じゃりんと遠く、金環を鳴らす音が聞こえた。高く力強く響き渡る破魔の音だ。甲高い金属音を嫌って、白蛇が慌てて美郷へと退散してくる。毒蛇だった靄も音を忌むように木立の闇へ隠れた。続いて、身軽に跳ねるような足音が近づいてくる。
「ノウマク サンマンダ バザラダン カン!」
若く覇気に満ちた男の声が、鋭く呪を唱えた。
ぼっ、と音を立てる勢いで、白い幻炎が闇を灼く。
林の中を舐めるように広がり、宙にたぐまる靄を炎が焼き尽くすと周囲全体の明るさが変わった。不動明王の炎で闇を焼払った背後の術者を、美郷は振り返る。
「怜路、助かった。あとちょっとでヤバかったよ」
「テメェが報せんのが遅ェんだよ、ばかたれ。一人で無茶できる体調じゃ無ェのは分かってンだろうが」
振り向いた先では錫杖を突いたチンピラ大家が、盛大に苦虫を噛み潰した顔をして仁王立ちしていた。
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