再会(三)


「克樹! どこに行くんだ、克樹!!」


 拒絶の言葉と共に身を翻した弟を捕まえられず、美郷は深い暗がりをつくる木立の前に立ち尽くした。


「宮澤君」


 共に山に入っていた辻本に、背後から声をかけられる。美郷は、この場を指揮している先輩職員を振り向く余裕すらなく言った。


「――辻本さん、すみません」


 同時に駆け出す。


「宮澤君!」


 職員としては失格だろう。ちらりと頭の隅を過ぎる躊躇を振り払い、美郷は克樹を追って暗がりの中へ突っ込んだ。克樹の居場所を知る術を、美郷は持っていない。賢い選択ではないはずだ。


「克樹ー!!」


 声を張り上げてその名を呼ぶ。


「克樹、どこだー!?」


 すぐに追ってやらなければ。それはだ。


 異界の山は変幻自在に姿を変える。ほんの数歩で明らかに周囲の景色が変わり、振り返れば来た道は消えている。足跡を辿るのは不可能だ。


(どうする。式を飛ばすか……けど、もうキャパオーバーだ)


 杉原親子探索のための蝶と、鬼を追い払うための燕が二羽、更に美郷は、八雲神社に開いていた異界の入り口を固定するための式神も大久保に貸している。いくら気合いを入れ直してきたとは言っても、昨日までの疲労は抜けていない。無闇に式を飛ばす余裕はもう残っていなかった。


(それくらいなら、自分で「喚ぶ」方がまだ可能性があるはずだ)


 もっともそれは、克樹が心のどこかで美郷に「追いかけて欲しい」と思っていればの話だ。この鬼ごっこが一方通行であれば、克樹への道は繋がらない。


(出てこいよ、克樹。おまえ、すぐに見つけて貰えないの嫌いだっただろ)


 幼い頃、克樹は隠れ鬼の時にはいつも、美郷のすぐそばに隠れていた。簡単に見つかる場所ばかりを選んで、見つかった瞬間に一番はしゃぐ。たまに偶然、美郷の盲点になる場所を選んでしまい美郷がなかなかやって来ないと、泣きながら自分で出てくるような寂しん坊だった。もしももう、美郷に愛想を尽かしているならば追っても無駄だ。だがおそらく、そうではない。


「克樹ー! 返事をしなさい、克樹ー!!」


 呼びながら、大きな藪椿の根本を越えると、急に辺りの空気が変わった。全身にまとわり付くような湿気と、腐臭混じりの黴臭さに美郷は足を止める。辺りは黄昏時のような薄暗さと、密生する杉の細い木々で視界が悪い。管理を放擲され、荒廃した植樹林のようだ。空を木々の樹冠で蓋された林の中は暗く、地表は倒木と転石ばかりで足場が悪い。


「なんだ……」


 鬼の棲処にでも迷い込んでしまったのか。周囲を警戒した美郷の視界の端、杉の木立の奥で小さく何かが煌めいた。


「――っ!」


 きぃん、と刃のぶつかる音がする。


 美郷が護身具で弾き飛ばしたそれは、小さな鍔のついた短刀だ。間髪置かず、もう一本が別の方角から飛んでくる。そちらも叩き落として、美郷は足元の一本に手を伸ばした。


「これ……鳴神の」


 特徴的な拵には見覚えがあった。詳しく検分しようと刀を掴みかけた瞬間、その輪郭が揺らいで黒い蛇となる。シャッ、と鋭い吐息と共に、毒牙を剥き出しに蛇が美郷に飛びかかった。


「このっ!」


 もう一度、蛇と化した短刀の胴を護身具で打ち据える。吹っ飛ばされた毒蛇は地表から突き出た岩にぶつかり、ぼたりと地面に落ちた。美郷はもう一方の蛇がどこか気配を探りながら、再び護身具――鉄扇を構える。


 鳴神は主に、刃物を武具として使う。美郷も一通り手ほどきされているが、武術全般があまり得意でないため今まで武具は持たずにきた。しかし本格的に業務で実戦を任されるようになると、物理的な攻撃をせめて受け流せる護身具がある方が良い。何を使うか悩んだ挙げ句、美郷が選んだのがこの鉄扇だった。


 呪術のための教養として武術と共に教えられた舞踊は、美郷の中では武術よりマシである。わざわざ大きな刃物よりは、手に馴染む大きさの扇が扱いやすいと判断したのだ。とはいえ、本格的な品を買う財力もないため、コレも通販で買った安物である。使う人間も上手くはないので、そう大きな期待はできない。


(壊れる前に、本体を見つけないと……!)


 少しでも見通しの良い場所をと、転石が木々を薙ぎ倒してできたらしい広場に出る。短刀が飛んできた方向を中心に敵の気配を探っていると、視界を邪魔する細い木々の奥から、枯れ枝を踏み分ける足音が聞こえてきた。同時に、様々な方向から幾重にも、何かが地面を這うような微かな音が聞こえ始める。


 足音の方を向いて右手に鉄扇を構えたまま、美郷は左手をジャケットのポケットに突っ込んだ。中に入れていた巾着を漁り、中の紙片を一掴みほど握り込む。切りぬさと呼ばれる、浄め祓いの道具だ。


(白燕は――付いて来てるな。良かった)


 背後の小枝に留まった燕の気配を確認し、美郷は薄闇に目を凝らす。這い寄ってくる妖気は、小豆虫のものに似ているが全く同じではない。もっと明確な敵意や悪意をもった、邪悪なものだ。


 がさり、ぱきりとゆっくりとしたテンポで響く足音の主は二本足だ。おそらく、先程の鬼の少女とは違う。美郷は鉄扇を構えたままゆっくりと呼吸を整えた。どういう事情かは分からない。だがこの足音の主は――。


「お久しぶりです、若竹さん。克樹を探しにいらしたんですよね」


 足音が止まった。雲間から月が覗いたように、闇が払われ相手が姿を現す。山中にそぐわぬスーツ姿の、神経質そうな男がそこに立っていた。若竹伸一、克樹の教育係だ。


「鳴神美郷……やはり、お前がッ……!」


 若竹の叫びと同時に、痩せた杉の木立の向こうで白刃がふたつ閃く。飛んできた短刀を何とか躱し、美郷は左手に掴んだ切り幣を鋭く吹いて飛ばす。散弾と化した切り幣が、木立の間をすり抜け若竹を襲った。


 黒い靄が若竹の前に壁を作り、切り幣とぶつかって幻の火花を散らす。


「臨兵闘者皆陣烈在前!」


 鋭く鉄扇で九字を切る。五横四縦の升の目が黒靄の壁を吹き飛ばした。


(ミイラ取りがミイラか。ったく、この人はなんでこう……!)


 本人を傷つける訳にはいかない。だが、若竹は仮にも成人したプロの呪術者だ。怨気に呑まれて同情される立場でもないだろう。


「行けっ!」


 白燕が鋭く旋回し、美郷が空けた壁穴をすり抜けた。黒靄がうねりを上げて形を変え、何本もの触手を燕に伸ばす。元々、相手は実戦経験豊富な武闘派、こちらは経験値不足のぺーぺーだ。相手が体勢を立て直す隙を与えるわけにはいかない。 


(とりあえず、あの靄を散らさなきゃ話もできない)


 燕の一羽が落とされた。


「高天原天つ祝詞の太祝詞を持ちて、祓え給い浄め給う。天火清明、天水清明、天風清明、急々如律令!」


 鉄扇で大きく空を薙ぐ。美郷の呼び起こした突風が、杉もろとも黒い触手を切り裂いて吹き飛ばした。煽りを食らった若竹が、残った燕に顔を狙われ体勢を崩す。様子見に美郷は手を止めた。


 どさり、と若竹が尻餅をついた。耳を澄ませて注意深く見ていると、若竹は体勢を立て直すことすらせず俯いて、何事か呟き続けている。正しく、悪いものに憑かれた者の姿だ。


 日照不足で徒長したひょろひょろの杉の木が数本、頼りない幹を斬り飛ばされて倒れる音が周囲に響きわたる。美郷は一歩一歩、慎重に若竹に近付いた。


「若竹さん」


 鉄扇を握った右手を後ろに隠し、美郷は遠めの位置から呼びかけた。この男に、自分が好かれていないことは知っている。鳴神内において、居場所を奪い合う立場だった相手だ。


「――鳴神美郷……克樹様をどこへ隠した……」


「おれは、克樹の失踪には関与していません。確かにあいつはこの山に居ますが、さっきおれも逃げられました。貴方は一体、ここで何をしておいでですか」 


 知らず声音にこもった非難に、ぴくりと若竹の肩が揺れる。


「私は……克樹様をお迎えに上がったのだ……お前が唆して誘い出したのだろう」


「違うと言ってるでしょう。なぜ――」


「いいや、私は知っている……お前には前科があるからな……以前にもお前は、克樹様を拐かそうとした。お前は、あの方が邪魔なのだ!」


 ぶわり、と闇が凝って宙に短刀が現れる。幾つもの刃が四方から美郷を狙った。次々と襲ってくる白刃をどうにか躱し、受け流しながら後退する。


 死角から飛来した一本が、美郷の右腕を掠めた。利き手を傷つけられた美郷は、襲う灼熱感と焦りに顔をしかめる。


 じくりと熱を持つ腕から、生温い液体が袖を濡らす。それが禍々しい毒蛇となって、傷口から体に潜り込む感覚が美郷を襲った。


「克樹様を抹殺して、鳴神の次期当主に成り代わる魂胆だろうっ。お前の存在が全てを狂わせたんだ! 全部、皆、あるべき場所に収まって自分の役割を果たせたのに! お前さえ、お前さえ居なければ! この、化け物がァァ……!!」


 裏返った声が叫ぶ。呼応するように、体内に入った毒蛇が美郷の心臓を締め付けた。五年前を再現するその不快感を、美郷は奥歯を噛みしめて耐える。内側から臓腑を食い破って侵食してくる蛇蟲と戦った、あの夜と同じ感覚だ。自分に対する敵意と悪意と殺意が、これでもかとばかりに詰め込まれた呪詛と喰い合いを演じた時の。


「……言いたいことは、それだけですか」


 低く、冷たく、美郷は言い放った。


 この毒蛇は幻覚だ。昨晩の悪夢と同じ、山に凝る妖気が映し出す、美郷自身の記憶と感情が作り上げた魔物だ。二度も三度も、同じモノに引っかかるわけには行かない。


「散ッ!」


 気迫を込めて、左の拳で胸を叩く。たちまち毒蛇は霧散した。


「確かにおれは、アンタには邪魔だったでしょうね。おれもアンタが邪魔だった。だけど、おれさえ居なけりゃ全て上手く行くんなら、今のこの状況は何なんだ。おれはもう鳴神に関わる気はない。克樹を呼んだ覚えもない。あんな馬鹿みたいに狭い世界で、アンタや克樹と椅子取りゲームをするつもりは、金輪際ないんですよ」


 狭い世界から一抜けした自分の方が、賢いだの勝っているだのとは思わない。若竹と美郷は生まれ持った人格も、背負った環境も、その身に起きた出来事も違う。それが、選択の違いを生んだだけだ。その点で、美郷は若竹を嫌うことはあっても軽蔑する気持ちはない。何かひとつでも要素が違えば、美郷もまだ若竹と居場所の奪い合いをしていたのかもしれないのだ。


「昔、家出に克樹を巻き込んだのは認めます。あの時おれは、もう帰らないつもりでバスに乗った。あいつを消したかったからじゃない……手放したくなかったから連れて行ったんだ」


 愚かな真似をしたのは間違いない。あの夜、家出した美郷に行く宛などなかった。もう、現世は嫌になって、だが懐の中の小鳥を手放したくなかったのだ。――だがどちらにしろ、克樹の命を軽んじたのは事実だ。


「そのことについて、言い訳するつもりはありませんよ。だけど、」


 何度記憶をなぞって別の道を探しても、美郷は鳴神を捨てるしかなかった。あの時もし父親や弟に宥められ、説得されてあの家に残っても、美郷の心は死んでいた。


(そしておれは、鳴神に、克樹にしがみついたままじゃいつかきっと、克樹を縊り殺しただろう)


 克樹が美郷の腕の中の、小さな世界を抜け出そうとした時に。きっと美郷は、逃れようとする小鳥を閉じこめるためその首を掴んだだろう。そんな自分に外野から若竹を断罪する資格もないかもしれない。


「それでも、克樹に一番寄り添わなきゃいけない立場の大人として、アンタの無能っぷりだけは、心の底から軽蔑します」


「だァーまァーれェェェ!!」


 若竹が吼えた。人の筋肉の連動を無視した、異様な動きで跳ね起きる。同時に美郷の周囲の地面から、無数の毒蛇が跳ね上がって美郷を襲った。


「この、化け物が! お前の! せいだ!! 全部、全部、全部!! お前さえ滅して克樹様を取り戻せば! 私は! 克樹様の側仕えに相応しい者として!! 認めて! 貰える!!」


「誰にです?」


 低く問うた。鉄扇を翻し、気合い一閃で毒蛇を吹き飛ばす。


「アンタが認めて貰う相手は克樹自身だ! 仕えるべき主を差し置いて、一体誰の顔色を窺っている!! おれが一番許せないのは、初めからずっとそこなんだよ!!」


 全身の気を鉄扇の先一点に込めて、美郷は若竹の懐に飛び込んだ。その眉間に狙いを澄ませ、全霊をかけて突きを繰り出す。


 ぱんっ、と乾いた音が弾けて、若竹が頭から後ろに吹っ飛んだ。細い杉の幹に激突して、杉を折りながら地面に倒れる。美郷は肩で息をしながらその様を見届けた。


「おれも確かに、鳴神で生き残るために、克樹を必要としていた。だけど同じくらい、それ以上に、ただおれを必要としてくれるあいつの心が欲しかったんだ。可愛かったし、守ってやりたかった……」


 それは歪んだ形をしていたが、立場や地位ではなく、克樹自身への執着だった。


(だから、あいつの隣をただの「席」としか見てないアンタは、おれも大嫌いだったよ)


 美郷自身も、克樹に謝罪しなければならない過ちはいくらでもある。追い詰められた果ての選択であったとしても、選んだことの責任は自分自身で負うつもりだ。それを償うためにも、まずは克樹を現世に引き戻さなければならない。


 倒れて動かない若竹の胸がわずかに上下しているのを確認し、美郷はそこでようやく、怜路から預かった連絡用の護法の存在を思い出した。怜路は自身の「仕事」として、克樹の捜索を目的に入山している。


 ジャケットの胸ポケットを漁って和紙で折られた鶴を取り出し、美郷はその羽根を広げて宙へ放る。鶴が空中で鳥に変わり、ばたばたと羽ばたいて木立の向こうへ飛び去った。鳥が視界から消えるのを確認し、美郷は大きく息を吸って鳥の消えた方向へ声を張る。


「怜路ぃー! 来てくれー!! 怜ぉ路ぃー!!」


 一呼吸ずつ間をおいて、三回ほど繰り返してチンピラ大家の名を呼び、美郷はその場で返答を待つことにした。 




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