再会(二)
きりのを探して走っていた克樹は、必死に誰かを呼ぶ女の声に立ち止まり、声の方へ進路を変えた。きりのの高い少女の声ではなく、大人の女性のものだ。切実な響きは恐らく、迷い込んだ一般人の助けを求める声だろう。克樹自身の時のように、きりのがそちらへ向かう可能性は高い。
しばらく細い木立が密に生えた、下草や柴木のない深林の中を走る。緩やかに起伏する道なき道を、木々をかわしながら声のした方へ向かっていると、不意に前方からきんと冷えた風が一陣迸った。
「これは……」
冴え冴えと蒼月がかかる冬の夜のような、冷たく澄んだ「気」だ。克樹の探し求めた、ひんやりと静謐で、だがどこまでも清らかで柔らかい――兄の、美郷の気だった。
積もる朽葉を蹴って駆け出す。目の前の丘の向こうで、ひらりと鋭く白い鳥が舞った。燕だ。
二羽の燕が木立の隙間を縫って急旋回する。翼が鋭く空を裂いて、一カ所をめがけて降下した。
(あの燕は攻撃用の式神だ。相手は――)
「兄上っ! お待ちください!! 兄上っ!!」
丘の上に立った克樹の目に、きりのと周囲の黒い靄が、燕に切り裂かれる様が映る。枯葉を滑るように斜面を下りながら、克樹は大きく声を張り上げた。よりにもよって兄が、美郷がきりのに刃を向けている。
「――克樹!?」
先に気付いたのは美郷だった。驚いたように目を丸くして、記憶の中よりも大人になった兄が克樹を見つめる。
きっちりと纏められた癖のない黒髪が、長く伸ばされ背に揺れている。鳴神の直系にだけ許される秘術のための髪だ。克樹の知るより少し男性的に、精悍になった顔立ちと体躯。だが、美麗な日本人形のような、白い頬と涼やかな目元は変わらない。
「兄上!!」
どこかの制服らしき赤いジャケットと野暮ったい作業ズボンは、兄の美しさには少し不釣り合いで滑稽だ。一体どんな職について、どんな暮らしをしているのか。
(だが、一緒に家に帰れば。ふさわしい優雅な姿で、ふさわしい暮らしを。私がご用意するんだ!)
待ちこがれた兄との再会に、克樹は一瞬だけ、きりのの存在を忘れた。
「克樹。やっぱりこの山にいたのか……! 早くこっちへ、皆お前を探してたんだぞ」
警戒するようにチラリときりのの様子を窺って、白燕を宙に旋回させたまま美郷が克樹に手を伸ばす。それにつられてきりのを見やった克樹は、今すべきことを思い出した。美郷の若干厳しい声音に怯みながらも「お待ちください」と、きりのを庇うように美郷の前に立つ。きりのはわんわんと唸る黒い靄をまとわり付かせたまま、仁王立ちで地面を睨んでいた。
「克樹」
兄が怪訝げに、形の良い眉を寄せる。
「どうしたんだ? 鳴神から、若竹さんが迎えに来てる。早く家に帰りなさい」
克樹に向けられた兄の言葉に、なぜか背後の闇がざわりと反応した。咄嗟に克樹は後ろを振り向く。闇に囚われた薄い体が、小さく肩を震わせていた。
「きりの?」
「克樹も、私をおいて帰るの……?」
怒りに震える声が、怨嗟を滲ませ克樹を責める。
「きりの。待て、落ち着いてくれ」
「克樹は私とおんなじだって言ったのに……うそついたのね……克樹もおふさとおんなじ、私をここにおいてけぼりにして家に帰るのね……」
絞り出すような声とともに、うわん、と大きく闇がうねる。
――逃がさない。
小さく、口元だけがそう動いた。
「きりの!」
闇が目の前に迫る。黒い小さな甲虫の大群が克樹を押し包んだ。耳元でいくつも重なる羽音が、全て誰かの囁きに変わる。
――当主と奥方様は、克樹様をご懐妊されて以来、一度も……
――奥方様は克樹様を愛すことができないのでしょう
――お可哀想に、当主はまだ外の女を
――美郷様が継嗣であれば、このような面倒など
――あのようなご気性では、将来が思いやられるな
「……やめろっ!」
胸を抉る言葉の嵐に、堪らず耳を塞いで叫んだ。襲う小虫を焼き払おうと、不動明王の幻炎を喚びかけて躊躇する。きりのを傷付けてしまうかもしれない。
だが、背後からの凍てつく突風が、その躊躇いごと全てを薙ぎ払って消し飛ばした。克樹すら震えるような、底冷えのする波動が辺りを満たす。
「あ……に、うえ」
「
容赦のない、冷酷な声音が破魔降伏の呪を唱える。兄は本気で、何の容赦もなくきりのを調伏する気でいるのだ。
「兄上、待ってください。私の話を、きりのは……」
「克樹。お前は向こうへ退がれ。これは、おれの仕事だ」
ひゅん、と空を切り裂く音と共に、白燕がきりのに襲いかかる。咄嗟に顔を庇ったきりのの腕に、赤く裂筋が閃いた。頭を抱えて悲鳴を上げるきりのは、やはりか弱く哀れな少女でしかない。
(兄上ならば、きりのを救ってくださると思ったのに……!)
清水のように柔らかな気性の、優しい人だった。家のため、仕事のためとか弱い者の心を切って捨てるような、冷酷で融通の利かない大人たちとは違う、克樹の味方だった。
「どうして……」
だが今、兄の纏う気は肌を刺すほど凍てついて、鋭利に冷酷にきりのを切り裂こうとしている。知らない姿、知らない気配、知らない言葉遣いのまるで別人のような『兄上』に、克樹は狼狽え立ち尽くした。その横をすり抜けて、兄がきりのに近づく。
「――お前がたとえ山の呪力を操るとして、お前と山を繋ぐへその緒を切ることは可能だ」
山と切り離されてしまえばきりのは消滅する。兄の明確な脅しに、きりのが怯えた顔で後ずさった。それを追うように、兄が更に一歩踏み出す。
二指を立て、刀印を組んだ右手が高らかに掲げられ、常人の目には映らぬ氷の白刃がきりのを狙う。じりじりと後退したきりのが、とうとう踵を返し背を向けた。逃げる背中を隠すように、黒い靄が兄へ迫る。
「散ッ!」
刀印がまっぷたつにそれを両断した。切り裂かれた靄はそのまま散って消える。
だが、その向こうには既に、きりのの姿はなかった。きりのの消えた先は追っ手を拒絶するように、密生した木々が視界を遮って深い闇を作っている。
ふ、とひとつ息を吐いて印を解いた兄が振り返った。その視線は克樹を通り過ぎて、兄は克樹の背後にいる誰かに声をかけた。
「ひとまず、もう追って来ないでしょう。もうすぐ旦那さんと僕の同僚も到着します」
視線の先には、小さな子供を守るように抱く女性がいた。恐らく、最初克樹の耳に届いた声の主だ。いまだ強ばった表情のまま、女性が僅かに頷く。それを見届けた兄がようやく克樹の方を見た。少し眉根を寄せた、厳しい表情で克樹に告げる。
「お前もすぐに山を下りて、早く鳴神に帰りなさい」
その言葉は酷く冷たく、突き放すように響いた。ぐっと拳を握り込んで、克樹は怯む心を叱咤する。まともに兄の顔を見るのも恐ろしく、俯いて声を絞り出した。
「兄上は……兄上は鳴神には、帰って来られないのですか」
一拍戸惑うような間を置いて、少し柔らかな声で兄が返す。
「おれはもう帰らないよ。今は市役所で働いてるんだ。おれはここで、『宮澤』として生きていく。鳴神とは、もう縁を切ったんだ」
はっきりとした拒絶に、弾かれたように克樹は顔を上げた。
「兄上を、お迎えに来たんです……! 私が家を継いだら、兄上を悪く言う者は絶対に許しません! 兄上をお迎えするために何でもします! そのためだけに、兄上に帰ってきて頂くために、私は家を継ぐと決めたんです!!」
言い募る克樹に、兄は困ったように曖昧な笑みを浮かべた。駄々っ子を見るように小首を傾げて、それからゆっくり首を振る。
「いいや。おれは帰らないよ。もう二度と、鳴神の門はくぐらない。あの家を出るときに決めたことだ。おれはもう、お前と一緒には生きられない」
「嫌です、兄上がいなければ私は――!」
「克樹。おれのことはもう、忘れなさい。おれはおれの人生を、鳴神とは別の場所で生きる。だからお前も、そんな理由で自分の道を決めるな」
無情な言葉に目の前が暗くなる。一番恐れて、必死に目を背けてきた可能性だ。
(この人の心に、もう私の居場所はないんだ……。鳴神ごと、忌まわしい過去として切り捨てられてしまった)
五年前のあの日から。
克樹もまた、一方通行の鬼ごっこをしている孤独な道化だったのだ。
兄の顔を見ていられず、克樹は再び俯く。
「克樹?」
草を踏む足音と共に、近くなった兄の声が克樹を呼んだ。応えることもできず、克樹は俯いたまま口を引き結ぶ。こんな時にいつも兄がかけてくれた優しい言葉が、それでも降ってこないかと待ち望む。「仕方がないね」と笑って目線を合わせ、頭を撫でてくれはしないかと期待する気持ちと、突き放される恐怖で鼓動が速くなる。
だが、そんな克樹の甘い期待は、叶うことはなかった。
「宮澤君!」
遠く兄の向こうから男の声が響いて、複数の足音がそれに重なった。
「このみ! 晴人!」
あっという間に場が騒々しくなる。
「辻本さん」
兄は背後を振り返り、克樹から離れていってしまう。
「晴人君はご無事です。このみさんの症状は今は落ち着いてますが、また下で改めて確認をしてください」
「ありがとう、良かった。……彼は?」
明らかに自分を指した言葉に、克樹は身を固くする。
「ああ……彼が、鳴神克樹です。この山の鬼とも会話をしていたようですし、このまま僕たちが一緒に下山して鬼のことを聞き取れればと」
酷くよそよそしい、まるで他人扱いの呼ばわり方だった。
「そうなん。じゃあとりあえず僕らは下山しましょう」
「はい。――克樹。下りよう」
遠く呼ばわる兄の声に、克樹は小さく首を振った。
「……いやです」
「克樹?」
「嫌です!!」
言い放って、克樹は兄に背を向けた。きりのの消えた暗がりへ飛び込む。
(『兄上』の居ない世界なんて――!)
克樹の言葉に耳を貸さず、きりのを容赦なく切り捨てて、ただ「仕事」として克樹を鳴神に返そうとする「宮澤美郷」は、もう克樹の兄ではないのだ。
「そんなもの、未練なんてない」
山の奥へ、奥へ、克樹は走る。その身を迎え入れて覆い隠すように、山の木々がざわりざわりと蠢いた。
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