再会(一)
11.
緩やかに上る真っ直ぐな坂を、このみは一心不乱に駆け上がる。前方に上りの途切れる場所が見え始め、このみは一段ギアを上げた。その先に平坦な場所があって、晴人がいる。不思議なほどそう確信していた。
徐々に上り坂の終わりが近づいて、その向こうの景色が見え始めた。逸る気持ちに突き動かされて、このみは全力疾走で坂を上り詰める。その先は少し開けた平地で、膝丈の草や柴木が冬枯れていた。
はると、と名を呼ぼうとして、もう声も出ないことに気付いた。しばらくかがみ込んで肩で息をする。ぜー、ひゅー、と完全に限界を超えた気管が悲鳴を上げている。口を閉じることもできない。
それでも、一秒でも早く晴人の姿を確認したいと、このみは無理矢理顔を上げた。枯れ草が視界の邪魔をする。一瞬、誰もいないかもしれないと恐怖が掠める。振り払うように、このみは大きく息子の名を呼んだ。
「晴人ぉぉぉ!! はるとくん! はるくん!!」
居るか居ないかではない。呼び寄せるのだ。
がさり、と視界の奥で立ち枯れた草が揺れた。
「はるくん!?」
気力だけで足を動かし、このみはふらふらと草むらへ踏み込む。向こうから、明らかに意図を持って草むらをかき分ける音が響き、次第にそれが近づいてきた。
「ママ!!」
きん、と高い、幼児特有の声が響き渡る。
「晴人!」
無事な晴人の姿をその目に映し、このみはくずおれるように膝をついた。どうにか広げた両腕の中に、小さな体が飛び込んでくる。その実在を確かめるように、このみは頭、肩、胴と晴人の体を抱きしめた。温かな体と伝わる鼓動、首元に触れる吐息で、確かに腕の中に今、自分以外の生き物が存在することを実感する。
「はるくん、良かった……。痛いところない? おうち帰ろうね」
何度も何度もその後ろ頭を撫でながら、噛みしめるように語りかける。小さな両手がこのみのエプロンを掴んで、胸元に頭を力一杯押しつけてきた。
震え始めた小さな体から、堰を切ったように泣き声と嗚咽が響き渡った。
有らん限りの大絶叫で、至近距離からこのみを呼んで泣き叫ぶ。両手はこのみを掴まえたまま体を捩って泣く幼子に苦笑いして、このみは何とかその両手を引き剥がした。立ち上がって、しっかりと手を繋ぐ。
「よし、よし。帰ろう、帰ろう」
まだまだ泣き足りない子供は、容赦なくこのみの脚にかじりつく。「いたた、痛い、痛いよはるくん、ちょっとこっち、ほら、」と宥めすかして自由を確保しつつ、このみは来た道を引き返そうと方向転換した。今度は下り坂だ。足場も悪いし、晴人に合わせて下りるのはなかなか骨が折れる。
行きよりも視界が悪く、曲がりくねった坂を何歩か下りたところで、ひらりひらりと白い蝶がこのみに近づいてきた。こんな山の中に紋白蝶か、と少し不思議に思いながら通りすぎようとしたこのみに、蝶は近くを飛び回りながらついてくる。
少し不気味に思い始めたところで、坂の下から男性の声が響いた。
「――らさん! 杉原さーん!!」
「このみー!」
夫の声ともう一人、少し高めの若い男性の声はあの青年職員かもしれない。心からの安堵と共に、このみも声を張り上げた。紋白蝶はひらりひらりと、声のした先へ坂を下ってゆく。
「パパー! ほら、はるくんもパパ呼んで? パパー! こっちー!!」
向こうで口々に「居た」と叫ぶ声が聞こえ、慌ただしく複数の足音が近づいてきた。木立の向こうに人影が見える。晴人と二人、何度も夫を呼びながらこのみは一歩一歩坂を下りる。
ぷわん、と今度は一匹、小さな虫がこのみの顔の前を横切った。両手がふさがっているため、頭を振って追い払う。更に二匹、三匹と、ごく小さな甲虫がこのみと晴人の周りを飛び始めた。気味悪さに立ち止まったこのみを足止めするように、執拗に虫は顔の周辺を飛び回る。
不意に、周囲が一段暗くなったような気がした。
辺りを見回すが、これといって変化はない。先を急ごうとして、このみは異変に気付いた。道が消えている。そして、近づいていたはずの夫らの姿も消えていた。
「うそ……」
ぞっと背筋が冷える。
一瞬で目の前の景色が変わったことへの恐怖と、何か背後から近づいてくる、不気味な気配への恐怖が合わさって増大する。じくり、じくり、と唐突に、今まで忘れていた全身の疼きがよみがえった。
「ママ?」
「大丈夫、大丈夫……すぐパパが迎えに来てくれるからね」
自分に言い聞かせるように、小さく温かな手をぎゅっと握る。その繋いだ手が、ふと視界に入った。大きな赤紫色の斑点が手の甲に浮き出ている。
「ひっ……!」
思わず手を離して大きく振る。気付いたとたん、手の甲に差し込むような痛みが走って、腫れ上がるような熱感を持った。このみはおそるおそる再び手を確認する。
赤黒く腫れた斑の真ん中がぷくりと水膨れのように盛り上がっている。
みるみる膨らんだ水膨れが目の前で弾け、中からコロリと粒をこぼした。
小豆だ。
「いやっ、何これっ」
首筋に、脇腹に、太股に、全身に似たような違和感と灼熱感が走る。チクリとした頬を思わず掻くと、爪の先に触れたものが手のひらに転がり落ちた。反射的に掴んだ小豆は簡単に潰れ、赤紫色の膿を吐き出す。
恐怖とおぞましさに混乱したこのみは腕をまくり、胸元を開け、次々に斑を浮かせて小豆をこぼす己の体を震えながら見る。このみの恐怖が伝播したのか、傍らでエプロンの裾を掴んだ晴人も再び泣き出した。
「――みつけた」
背後からの、暗い呟きが妙にはっきりと耳に届いた。
振り返るこのみを見下ろす場所に、時代劇に出てくるような粗末な着物姿の少女が立っている。咄嗟に晴人を隠すように、このみは一歩前に出た。
「やっぱり、かあさんは私よりおふさが好きなのね」
虚ろな声が囁く。少女の周りを黒い靄が渦巻き始めた。ずくずくと疼いて全身を浸食する熱に耐えきれず、このみはその場にしゃがみこむ。
「おふさ、どうして鬼ごっこ始めないの? なんで一人でかあさんのところに帰ったの? ずっと待ってたのに、おふさがやりたいって言ったから、わたしが鬼になったのに……」
言いながら、少女は坂を下りてこのみに近づいてくる。少女の周りに渦巻く闇がうわん、うわん、と音を立てる。
「ち、ちがう! 人違いよ! 別の子よ!」
この少女が、山に晴人を呼んでいたのか。しゃがみ込んだまま、怯える晴人を抱き込んでこのみは少女を睨んだ。
「いつも、なんで、おふさばっかり……」
急激に少女の声が尖る。肩を怒らせ拳を握り、血を吐くように少女が叫んだ。
「おふさ!!」
ぶぁん、と黒い靄が唸りを上げる。襲いかかる黒い甲虫の大群に、このみが目を瞑る寸前。
「天火清明、天水清明、天風清明! 急々如律令!!」
涼やかな声と共に、白い燕が闇を切り裂いた。
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