鬼ごっこ(終)


 八雲神社の小さな社に駆け込んだこのみは、社殿の中を一通り探してから裏手に開いた出口から山へと出た。むわりと湿っぽく生暖かい空気に少し違和感を覚えたが、そのまま目に付いた獣道を駆け出す。


 晴人を呼んで、しばらくしゃにむに山の中を走りつづけたこのみは、とうとう息を切らせて立ち止まった。膝に手を突き、肩で息をする。ぜえぜえと気管が悲鳴を上げて、酷使された喉が痛み咳込んだ。


「つっ……!」


 引きつれるように痛む腹周りを押さえる。火照った全身のそこかしこが、かきむしりたくなる痒みを訴えていた。原因不明の湿疹を中心に、びりびりと電流のような痛みが末梢まで走る。


「なんで、こんな」


 悔しさと情けなさに声を絞った。一体自分たちが何をしたというのか。ただ、息子が小学校でつくったという餅を分け合って食べただけだ。小豆の謂われなど知らなかった。元々この土地の人間でないこのみにとっては、知りようもなかったことだ。


 酸欠と発熱で、がんがんと頭が痛み始める。気分も悪くなり、そのまま崩れ落ちるようにこのみはしゃがみ込んだ。サンダルを突っかけて出てきただけの足元は、枯れ草や小枝、草の実にまみれて汚れている。体の至る所をちくちくと刺す痛みが、湿疹によるものか体に絡んだ草片によるものかもよく分からない。


 汗がしたたり落ちる。乱れた髪が首元に貼り付いて気持ち悪い。だが、そんなことよりも重大なのは晴人のゆくえだ。このまま闇雲に探し回っても、まともに道すらない山の中で見つけるのは不可能に思われた。


「なにか、どうしよう、なにか……」


 ぐるぐると思考が空転する。掴んで、たぐり寄せられる糸でもあれば良いのにと妄想する。いっそ紐に繋いでおこうかと、晴人がふらりと消えるたび何度も思った。


(親子の絆とか、母親だから、とか。普段好きに言われるくせに……いざこうやって離ればなれになって何か分かるような、そんな特別な力なんてホントはどこにもない……)


 訳の分からないトラブルに引っかかってからこちら、何度も自分の落ち度がなかったか思い返した。どうしても「母親の自分が」という責め句が頭の隅にちらついて離れないのだ。世間から言われているような気がした。父母や義父母に言われているような気もした。意味深な態度の隣人が噂しているようにも思えた。


(市役所の人も探してくれるはずだけど)


 昨日突然連絡を入れてきた市役所は、このみの体調不良を把握していた。前回の髪の長い青年とは違う、壮年の男性職員と年輩の女性職員の聞き取りを受け、特別に予約をしてもらっていた市立中央病院で診察を受けた。体調不良の原因が分かった安堵感が三割、まだ続いていたのか、と辟易とした気持ちが七割だった。それでも、晴人ではなくこのみのトラブルならば、このみが市役所の職員の話を聞けば済むと思っていたのだ。この、現実に本当に起こっているとは思えない奇っ怪なトラブルも、彼等は何とかしてくれるのだと。


 どうにか気持ちを奮い立たせて立ち上がる。


 拍子に、エプロンのポケットで何かがかさりと音を立てた。折り畳まれた紙が入っている。


「これ、パパが持ってたやつだ」


 取り出して開いたそれは、以前家に訪ねてきた髪の長い青年職員がくれたプリントだった。結局その日に青年職員が対処してくれて以来、今まで晴人の放浪は止まっていたので出番はなかったが、プリントを目にした夫の俊輔が気に入って持ち歩いていたのだ。


『確かにオカルトじゃけど、ホンマに起こっとることもオカルトなら何か効くかもしれんし』


 などと言って呪文を覚えようとしていた。だが結局、洗濯物のポケットの中に忘れられていたので、このみに回収されてここにある。


(こんなの、私たちみたいな凡人がやったって……)


 このみはあまり、オカルトの類を信じていない。こうして己の身に起こっても、呪術だの魔力だのの理屈は胡散臭くて信じる気にはなれなかった。祈り願うだけで何かが解決するならば、この世はもっと平和だ。たとえそんな不思議な力がこの世に存在するのだとしても、扱えるのはあの不思議な雰囲気を纏っていた青年職員のような、特別な人間だけだろう。


 ――今現在、何か『生身の人間』以外のモノに困らされている方へ。


 プリントの冒頭にはそう書いてあった。


 ――トラブルに関することは、特殊自然災害係になんでもご相談ください。専門職員が問題解決に取り組みます。皆さんは冷静に職員の指示を聞いて、身の安全を第一に行動してください。何より大切なのは、市民の皆さんの生活、身体、生命の安全です。自分自身と、大切な人を守るために、以下のことを心がけ、常に念頭においておきましょう。


 1、生身の人間が一番強い。


 トラブルを仕掛けてくる相手が生身の人間として裁けないモノの場合、これを強く自分に言い聞かせましょう。今、この場所で、生身の体を持って息をしている「意志」に勝るものはありません。安全確保は重要ですが、闇雲に恐れすぎては逆効果です。しっかりと自分を見失わないよう心がけましょう。


 2、他人にとっては「他人事」。


 皆さんが巻き込まれたトラブルについて、部外者が勝手な憶測で非難やアドバイスをする場合があります。よかれと思って、と言われて困惑したり、傷つくこともあります。ですが、たとえ相手が親しい肉親や夫婦であっても「他人」は「他人」です。科学で観測できない特殊自然災害は、他のトラブル以上に「本人にしか分からない」部分が多くあります。一番苦しみ、辛い思いをしているのは皆さん自身です。しょせんは「他人事」に対して向けられる無責任な言葉に惑わされず、身の安全を第一に行動しましょう。


 もうひとつ大切なことは、皆さんを巻き込んでいるトラブルそのものも、皆さんにとってはしょせん「他人事」だということです。気の毒に思える事情やもっともらしい言い分が相手にあっても、今、ここに生きている皆さん自身がトラブルによって、生活や身体の安全を脅かされていることは何の変わりもありません。皆さんが守るべきものは、皆さん自身の生活と身体の安全です。それを忘れないようにしましょう。


 3、理不尽は存在する、ということを受け入れる。


 特殊自然災害に巻き込まれると「悪い人探し」を始めてしまいがちです。自分を責める場合も、他人を非難する場合もありますが、その底にあるのは「物事には因果があるはずだ」という思いです。何か原因となる「悪いこと」があったから「悪いことが起こる」と人間は考えがちですが、実際には、誰にも何の非もない場合でもトラブルは発生します。もしもトラブルに遭った時は、一旦「原因探し」は止めましょう。原因の検証は事態が終息した後、専門職員も交えて冷静に、「再発防止のため」に行います。突然降りかかる「理不尽」は世の中に存在します。その事実を冷静に受け止め、無闇に誰かを責めるのは止めましょう。


 4、皆さんの「意志」が解決への何よりの原動力です。


 トラブルの解決は、特殊自然災害係の専門職員が対応します。皆さんは職員の指示に従い、まず身の安全を第一に行動してください。その上で、「解決したい」という意志と、トラブルが解決して得られる、回復される状態をできるだけ具体的に、強く思い描いてください。姿やかたちを持たないモノが引き起こす特殊自然災害への最大の武器は、生身の人間の強い意志です。


 ぽたり、とプリントの上に滴が落ちて染みを作った。ふたつ、みっつ、と紙を濡らす滴は汗ではない。ぐすっ、とこのみはひとつ鼻をすする。


「他人にとっては、他人事……ホントそう……」


 一番辛い思いをしているのは自分たち家族であって、他の誰かではない。改めてそれを認められた気がして、こぼれ落ちる涙が止まらなくなった。


(辛いですよね、って。最初に真正面から受け止めてくれたの、あの髪の長いお兄さんだったな……)


 何もできないのが辛い時の気休めに、とあの青年は言って、このプリントを手渡してくれたのではなかったか。開いた面にはトラブル対処の心構えが書かれており、末尾に『裏面に簡単なまじないを紹介しています』とあった。涙を拭って、このみはプリントを裏返す。人返しのまじない、と書かれた項目を探して読んだ。


「ええと……は、はし、り、びと、そのゆくさきはしんのやみ、あとへもどれよあびらうんけん。はしりびと、そのゆくさきはしんのやみ……」


 目を閉じ、両手を握り込んで一心に唱える。瞼の裏の闇に、ふらふらと歩いてゆく小さく幼い背を思い浮かべた。克明に思い出せる背中だ。毎日、何度も、他の誰より見てきたと、自信を持って言える。その背に呼びかける。


(帰ってきて! 立ち止まって、こっちを振り向いて! 必ず迎えに行くから!!)


 不意に、闇の中の晴人が立ち止まった。口にはまじないを唱え続けながら、このみは心の中で大きく我が子の名を呼ぶ。


(はるとくん!!)


『マぁマ……?』


 呼びかけに、幼い声が答える。瞼の裏の姿を追って、このみは両腕を伸ばした。


 かっ、と目を見開く。眼前には草を踏み分けた、障害物のない道が拓いていた。木立ひとつ、その先を阻んでいない。晴人へと繋がる道だ。確信を持ってこのみは土を蹴った。


(他人にとっては、他人事。私が守りたいものを守るために、本気になれるのは私だけ。他の誰かのことも、私にとっては他人事。私は、私の守りたいものを守るだけだ!)


 しっかりと見えた幼い背中を追って駆け出す。いつの間にか頭痛も体の痒みや重怠さも消えている。


 このみの目の前には、ただ一本の道がまっすぐ伸びていた。

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