鬼ごっこ(二)
まだ暁闇に沈む視界の中で遠く柴木の向こうを過った白は、間違いなく呪術者の使う式神だった。
必死にそれを追いかけ、若竹は山中に分け入った。感覚を研ぎ澄ませて辿る気配は最初、身に馴染んだ克樹のものかと思われた。しかし注意深く気配を追ううち、別人のものだと若竹は確信した。躍動的で力強く、悪く言えばムラの激しい克樹の気とは異なる、もっと静かで冷たい気配だったからだ。
(これは……美郷様のものに違いない……!)
若竹の推測は間違っていなかった。克樹失踪に関して裏で糸を引いていたのは、五年前に失踪した外腹の長男、美郷だったのだ。
決して、あの式神を逃してはいけない。気合を入れ直し、山歩きには不向きな服装のまま若竹は懸命に式神の気配を手繰った。ふらりふらりと宙を流れるそれの行く先を読んで、邪魔をする岩や木々を避けて回る。足場は整備されておらず、革靴は簡単に木の葉の上を滑って歩きづらい。そうこうしているうちに徐々に辺りは明るくなりはじめた。
ようやく式神の間近まで辿り着いた若竹は、何のための式神かその「型」を見ようと目を凝らした。鳴神一族の使う式神は、己の髪を芯に和紙を巻いた水引を決まった形に結んで作られる。結びの「型」は様々で、それによって多彩な機能を持たせて操ることができる、鳴神直系のみに許された呪術だ。
(そう、本来ならば当主となる者だけに許されるべき術のはず……家を継ぐことの出来ぬ美郷様が扱うことが、許されるとは思えん)
喉の奥に這いのぼる苦味を飲み下し、若竹は目の前の式神に集中した。どうやら人の形をしている。それが一体何を目的としているか分からぬうちに、不意に、その小さな紙縒り人形がゆらりと陽炎のように揺らいだ。
「縄目か……!」
現世と幽世のあわいに出来た歪みだ。この先の縄目――「狭間の空間」に、恐らく美郷が克樹を隠している。逃すまじ、と若竹は式神の消えた場所へ突っ込んだ。ジャケットの袖が小枝にひっかかり、びっ、と裂ける音がする。足元にも棘のある蔓が絡み、若竹の行く先を邪魔した。
「逃がさん!」
空間の歪みの向こうへ、思わず式神を追って手を伸ばす。何か掴んだ感触と共に、辺りの空気が変わった。真冬の早朝の冷気の中にいたはずが、突然ぬるま湯のような生暖かい空気に押し包まれる。縄目に入ったのだ。
「しまったか……」
式神を追って掴んだ手のひらを開く。そこには、握り潰された式神がひしゃげていた。これでは恐らく、美郷に若竹の存在を気付かれただろう。追いかける目標も消えてしまったが、縄目の中に入れたならば克樹か美郷、どちらかの気配を探ることができるはずだ。
辺りの視界は明瞭だった。見上げる空は霧がかかったような白に塗り潰されて、夜の明け具合は確認できない。空気も澱んだ生暖かさで、時刻も季節も全て失われたような場所だ。辺りの木々だけは外界と変わらず冬枯れており、足元には朽葉が厚く降り積もっている。
まずは、克樹を探すことが何より先決だ。
若竹は上着の胸ポケットを探り、手のひら大の羅盤を取り出した。羅盤とは通常は風水のために使われる道具で、中央に方位磁針が埋め込まれ、周囲に詳細な方位を記した盤が設置されている。しかし若竹が取り出した盤は、人探しのための占具だった。盤の下には克樹の氏名生年月日を書いた紙がしまわれている。磁針の指す先は克樹の居る場所のはずだ。
若竹は自身でも意識を研いで克樹の気を手繰りながら、慎重に異界の山の中を進んだ。
磁針の指し示す先は斜面の上を指している。それに従って登り始めたが、整備されていない山の中を、目的地に向かって直進するのは不可能だ。木や岩、沢や崖など様々なものが行く手を阻む。この程度ならば踏み分けて、と思えるような蔦や柴木の類であっても、小枝や棘の多い物にかかればすぐに身動きが取れなくなる。服装も相俟ってなかなか思うように前に進めない。
上へ下へ、右へ左へ遠回りをしながら進めばその度に目指す方向は変わり、果たしてどの程度目的地に近づいたのかも判断がつかない。じりじりと焦りを感じながらも、若竹はひたすら山を分け入ってゆく。
そしてふと、足元が暗いことに気付いた。
ここは異界だ。明るくも暗くもなく、光源の方角すら知れず、影も出来ぬ場所のはず。
不審に思って立ち止まり、それまで必死に足元と目先だけを睨んでいた若竹は視線を上げた。傍らには大きな松が立っている。冬なお黒々と緑の葉を茂らす枝は、若竹の頭二つ分くらい上で大きく二股に分かれて高く高く伸びていた。その、二股の間に何かがたぐまり影を落としている。
黒く、薄気味悪くぬらりと光る巨大なナガモノが松の枝に巻き付いていた。
それは鎌首をもたげて揺らしながら、四肢のない、長い胴と尾だけの不気味で醜悪な体をうねらせ枝の上を這う。生理的な嫌悪感が、若竹の背筋を駆け上がった。
蛇だ。
一歩退きかけて、若竹はどうにか踏みとどまる。ここで退くわけにはいかない。こうして「蛇」が迎え撃つということは、克樹の居場所はもうすぐ先ということだ。
「やはり貴方か、美郷様……!」
蠱毒の蛇を喰らい、己が物として取り込んだ化物。存在するだけで、鳴神家を掻き回した鬼子。それが鳴神美郷だ。
(なぜあの時、当主はコレをみすみす外に逃してしまったのか……!)
愛した女への情であろうか。冷めるどころか温まった試しすらない正妻との間の克樹よりも、よほど外腹の美郷のほうが可愛かったのか。
ちろちろと、黒い二股の舌を絶え間なく出しながら、逆三角に尖る大きな頭が上から若竹を狙う。針のように細く縦に裂けた瞳が一対、真っ赤に燃える両目で若竹を見下ろしていた。頭を中空に固定したまま、尖った鱗の目立つ太い胴がぞろりと松の枝を這う。
チチチチチチ、と甲高く、高速で硬い物を弾くような音が響き始める。同時に松の片方の枝が細かく揺れ始め、枯葉や松ぼっくりを落とし始めた。次第にざわざわと、周囲の木々全体が騒ぎ始める。黒い大蛇が、その尾で幹を叩いて威嚇していた。
「――ッ、臨兵闘者皆陣烈在前っ!」
羅盤を仕舞い、上着の下に装着したホルスターから一対の短刀を抜き出す。若竹は片方の刀で素早く九字を切った。
パンッと乾いた音を立て、若竹を狙っていた蛇の頭が弾かれた。怒りを露わに蛇が首を大きく撓める。攻撃に備え、若竹は両の短刀を構えて蛇を睨み据えた。
「結局、魔物と成り果てたか……」
シャッ! と鋭い吐息と共に、牙に毒を迸らせた巨大な口が迫る。
「オン マユラ キランディ ソワカ!」
紙一重でそれを躱し、横にステップを踏んだ若竹は右手の短刀で蛇の片目を狙った。気合一閃で、短刀を炯々と燃える目に突き立てる。が、完全に刺さりきらないうちに、前方から鞭のようにしなる尾が襲った。両の刀と腕でガードしながらも、その剛力に若竹は吹っ飛ばされる。
近くの岩に叩きつけられながらも何とか受け身をとって、痛みに痺れる体を若竹は起こした。松の枝を降りるつもりはないのか、大蛇は変わらず首だけを若竹の方へ伸ばして様子を窺っている。その様子に少し気を抜いた次の瞬間、辺りの地面が一斉にぼこりと波打った。朽葉の下から何か現れる。
(木の根!? いや、蛇だ!!)
濃密な、黴のような山の土の臭いを纏い、木の根が変じた蛇が十匹近く一斉に若竹に襲いかかる。両手の刀でその首を刎ねながら、若竹はちらりと本体である大蛇を見遣った。若竹に届かぬ場所で蛇は、何度も巨大な口を開けて威嚇している。その度にまた地面が蠢き、新たな蛇が若竹を襲う。
(キリがない……!)
焦りに集中力が途切れた瞬間、背後から躍りかかった蛇が若竹の顔に巻き付いた。
「うわっ!」
視界を奪われ、若竹はバランスを崩す。顔から首へと冷たい鱗の這うおぞましい感覚に、咄嗟に蛇を毟り取ろうとして右の短刀が手から離れる。固く巻き付いた蛇を引き剥がすことも出来ぬ間に、次々に他の蛇が若竹の四肢に取り付いて動きを封じ始めた。
ズボンの裾から、襟元から、うねる鱗が若竹の体を這いずり回る。ちくりと脇腹に痛みを感じた直後、そこから灼熱感が体に迸った。毒だ。焦りと恐怖に思考が鈍る。
(こんな、結局私は失敗するのか)
身に迫る死の恐怖よりも先に、失望と苛立ちの溜息を漏らす両親の顔が浮かんだ。己が克樹の第一の側近としての地位を固められるか否かで、若竹家の浮沈は決まる。それを「役割」として自分は育てられてきた。
(美郷様さえ、いなければ)
――否、本当は分かっている。子供の扱い方が分からぬ若竹は、常に克樹を持て余していた。最初は幼子の遊び相手をしてくれる美郷の存在に、救われたと思ったのだ。美郷が姿を消してからも決して克樹が若竹に心を開かないのは、克樹と若竹の間の問題だ。
(だが、あの方は鳴神には邪魔だった。それは事実だ。事実なんだ)
だから美郷は呪詛を喰らい、鳴神から排除された。それは鳴神家の為に、正しいことだ。
(どれだけ貴方が私達を恨み呪おうと、悪いのは貴方だ。貴方の存在そのものだ!)
目隠しをされた視界は真っ黒に塗り潰されたままだ。四肢は灼熱の痺れで感覚をなくし、己の動悸だけが頭の中に鳴り響く。
(私は悪くない!!)
闇の中。学生服の少年が立って若竹を見ている。
父親譲りの癖のない漆黒の髪と、透き通るような白い頬を若竹は知っている。
冷たく、全てを見透かすような黒曜石の双眸が、冴え冴えと凍てつく霊気を孕んで若竹を見据えた。
少年が何か口を開く。その先を拒絶して、閉ざされた目を固く閉じ、塞がれている耳を更に塞いで蹲った瞬間。
若竹の意識は、闇に溶けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます