鬼ごっこ(一)


 10.



 逃げられた、と、きりのはふて腐れていた。どうやら外に見つけた「鬼」を操ろうとして振り切られたらしい。きりのには見せないよう気をつけながら、克樹はそっと安堵する。きりのの操る山の気は禍々しい。憑かれた者が無事に済むとは思えないからだ。その辺り、きりの自身には自覚も悪意もないのが厄介で、もの悲しく克樹には思えた。いつも祠の四隅にたぐまっている闇は、きりのの無邪気さに不釣り合いなほどどす黒い。


(悪気はないのだ……きりの自身は、そこまで悪いモノでもない。その割に、操る気が酷く禍々しいのは気になるところだが……それ以上に、相手はよく振り切れたな。いや、兄上が動いているということは、兄上を含め術者がきりのの存在を知って対応しているということか。きりのの外への干渉が発覚していれば、これから何か動きがあるかもしれん……)


 となれば、克樹がこの山から出られるチャンスも巡ってくるはずだ。だが、そのチャンスが巡ってきた時どうするべきか克樹は迷っていた。


(きりのは、問答無用で封じられても不思議はない)


 そうであればどうにか止めて、きりのを慰めて鎮めるよう説得したいと克樹は考えていた。鳴神家の教育係たちには感情的になりすぎるだとか、短慮に動きすぎると注意を受けることが多い。だが、こうして孤独や不遇に荒んで「魔」と化してしまう者たちを、敵と切って捨てることがどうしても克樹は苦手なのである。


 それは恐らく克樹自身が、常に彼らと紙一重の場所にいるからだ。


 外の鬼を呼ぶことを諦めたきりのが、祠の外に出ておふさを呼び始めた。ついて祠を出た克樹は空を見上げる。相変わらず白い闇に蓋をされた空は昼とも夕とも判別がつかない。そして、どうやら夜が来ることもないらしい。今、克樹がこの山に迷い込んでから何日が経過しているのか、克樹自身の体感時間と、外の世界で流れる時間が同じなのか違うのかも、全く分からない。だが、克樹はそのことに大して焦りを感じていなかった。


 式神さえ追えていれば、兄との再会は果たせる。それまで生きていられるならば、早く家に帰りたいという気持ちもない。親や教育係の叱責を恐れるつもりもなかった。克樹がどんなポンコツであろうと素行不良であろうと、彼等は「鳴神克樹」が必要なのだ。その「中身」についてはあれやこれや注文を付けては来るが、結局のところ重要視はされていない。


 きりのがおふさを呼んで出歩いている間に、克樹も兄の式神を探そうと意識を研ぐ。式神の巡回ルートは一定だ。ある程度、体感時間から場所に目星をつけて様子を窺っていれば大抵捉えられた。


 目星をつけた方向へ、緩やかな斜面を下りる。ふとした違和感に立ち止まり、克樹は周囲を見回した。


「なんだ……?」


 捉え損ねた違和感を追って、克樹は視線を巡らせる。しかし、これと言った変化は見当たらない。気のせいか、と再び歩を進めようとして、頬を撫でる微風に気づいた。閉じられた山の中には流れることのない、ひんやりと冷たい冬の空気だ。


「どこか綻んでいるのか」


 あるいは「誰か」が開いたのか。逸る気持ちを抑えて、まずは式神を追った克樹だったが、その式神がいくら待っても探しても見つからない。


 ――もういいかーい。


 きりのの声が響いている。


 ――まーだだよー……。


 それに返す幼い声が、冬の空気の流れ込む方角から聞こえた。


 何度か聞いた、式神の返す高い子供の声だ。だが今、式神は見当たらない。


「……まずいぞ!」


 慌てて克樹はとって返す。何かの理由で、式神があちらの方角へ流されていたのかもしれない。だが、もしかしたら元々呼ばれていた子供かもしれないのだ。


「きりの! どこだ、少し私に付き合ってくれ!」


 鬼の少女を呼びながら、その声がする方へ急いで山を登る。しばらく大声で呼んでいると克樹に気づいたのか、鬼ごっこの声が止んできりのが姿を現した。


「克樹? どうしたの?」


 何も気づいていない様子のきりのが、山の途中にある小さな崖の上から不思議そうに克樹を見下ろす。その姿に安堵した克樹は、改めて「用件」を探そうと焦って頭を回転させた。


「そ、そうだな、ええと……そうだ、祠の中に忘れ物をしたんだ。あそこに一人で入るのはどうも苦手なのだ、一緒に取りに戻ってくれないか」


 あたふたとポケットの中を探るフリをしながら、克樹は少女に乞う。少し首を傾げた少女はしかし、いいよ、と頷いて踵を返した。ここしばらく、きりのは大半の時間を克樹と遊んで過ごしている。相手をしてくれぬ「妹」を探す時間より、徐々に克樹と居る時間が長くなっていた。それだけ、心を許してもらえているのかもしれない。


 わざとポケットに突っ込んだ手に、厚紙の端が当たる。兄の気配を追うために持ってきたポストカードだ。ここは一旦、兄を追うのは後回しにしなければならない。どうかもう一度、と祈り克樹はポストカードを撫でた。


「着いたよ」


 ほんの数歩で、岩窟と祠が目の前に現れる。頷いた克樹は、きりのと共に祠に入ろうとして、ふと気になったことを訊ねた。


「きりの。今もおふさを呼んでいたが、あれが今まで、鬼ごっこを始めたことはあったのか?」


 おそらくはあるはずだ。でなければ、里の側に「対策」が作られている理由がない。では、そのとき返事をしてしまった子供はどうなったのだろうか。


「うん……あったけど、探して、見つけても消えてしまうの」


 きりのは、粗末な草履の足下に視線を落として言った。


「消える?」


 克樹の言葉に、きりのがコクリと小さく頷く。


「うん。見つけて、捕まえようと思って触ったら、さぁーって。溶けて消えちゃうの」


「……そうか」


 なるほどな、と、胸の中だけで克樹は呟く。今のきりのは「山の主」だ。そして、きりのに呼ばれてやって来るのは「神のうち」と言われる数え七歳までの子供である。おそらく子供たちはきりのに触れられた瞬間、きりのに、この山に同化して消えてしまうのだろう。


「なあ。きりの。私の話を、落ち着いて聞いてくれないか」


 祠の中に誘いながら、克樹は意を決してきりのに言った。不思議そうに克樹を見上げ、痩せて、纏めた髪も荒れ果てた、粗末な着物の少女が頷く。飢餓や貧困と、不遇の果てにここに居ることは、見ればすぐに分かる。誰に、どんな理由があった結果だとしても、それはきりのにとって「理不尽」以外のなにものでもないはずだ。


 これ以上、少女を失望させるような現実を押しつけるのは躊躇われる。


(だが、被害者は減らさなければ……)


 子供を山に呼んで、捕らえて取り込んで、きりのが得るものも何もない。贄を得た山が力を増したとして、それを里の恵みに変える仕組みもとうに失われている。ただ、魔の山としての力が強まるだけだ。


「きりの。お前が呼んで、それに答えている相手はおふさではない。おふさはもう、お前と鬼ごっこをできる場所にはいないんだ」


 二人で祠の中へ上がり込んだところで、克樹はゆっくりときりのに言った。真正面からみつめて言う克樹の言葉に、きりのは怪訝げに眉根を寄せる。何を言われたのか分からない、という表情だ。


「きりのがこの山でおふさと鬼ごっこを始めてから、もう山の外は百年以上時間が経っている。おふさはもう、この世にはいない」


「なんで? おふさは私と鬼ごっこをしてるのよ」


 少し怒りをはらんだ声が反論する。ざわり、と祠の中にたぐまる闇が蠢いた。きりのの怒りに呼応しているのだ。


「だが、もう山から下りてしまっているのは、きりのも知っているのだろう。山の外は、こことは時間の流れが違う。きりのは、長い間ここで一人だっただろう。どれくらい長いのか、もう分からないかもしれないが……とうの昔に、人間が一生を終えるよりも長い時間が経ってしまっているんだ。おふさはもう、この世にはいない」


 この山の中を「この世」と表現するのが適切かは分からないが。眼をそらさず言い切って、きりのをのぞき込む克樹に、きりのが怯えたように一歩退いた。


「なに言ってるの。おふさが鬼ごっこしようって言い出したのよ。隠れるから待ってて、って。いつもわたしが鬼なの。いつもおふさが言い出して、わたしがそれに付き合って、おふさはわがままだけど、わたしがお姉ちゃんだからおふさと遊んでやるの。かあさんがそうしなさいって、おふさを見てなさいって言うから」


 幼い声が感情的に尖り始める。ざわ、ざわ、と闇が蠢く。


「だから、なのに、」


「きりの。落ち着いてくれ、頼む」


 きりのに辛い思いをさせる罪悪感と、闇に狙われている危機感が克樹を責め立てる。はやまったか、と一瞬迷った。だが、今目を逸らすわけにはいかない。視線を合わせるため膝をついて、克樹はそっときりのに両手を伸ばす。何とか、克樹はきりのの味方だと信じて欲しかった。


 克樹の指先がきりのの肩に触れる。弾かれたように飛び退いたきりのが、じりじりと後退して祠の扉を開けた。裸足の少女が身を翻す。


「きりの!」


 追って祠を出た克樹の背後から、祠をどうと揺らして闇の塊が飛び出しきりのを追う。真っ黒な靄がまるで生き物の群のように宙を舞い、克樹の頭上を追い越したそれは、二つに割れてそれぞれ別の方向へ飛び去った。


「どちらを……」


 追うべきか。迷って克樹は立ち尽くす。傷つき、混乱したきりのの顔が脳裏をよぎった。


「一方通行の鬼ごっこか……」


 じくりと鳩尾が痛む。勢いよく頭を振って迷いを払い、克樹は外気の流れてくる方へ走り出した。


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