夜明け前(終)


 早朝、非常識な時間に家の電話が鳴り響いた時、杉原このみは外で洗濯物を干している真っ最中だった。冬の早朝、比較的寒い地域である巴では、干した洗濯物が端から凍っていくような日もある。空になった洗濯籠を抱え、かじかむ両手をこすり合わせてから勝手口のドアを開けたこのみが、ようやく電話の音に気付いたのは最後のワンコールだった。


 早朝や深夜の電話に、あまり良いイメージはない。非常識な時間にかかって来る電話は、基本的に非常事態を告げるものだからだ。焦ったこのみは慌ただしく洗濯籠を脱衣場へ戻し、電話機のあるリビングダイニングへ向かう。本当に何か用事があっての電話ならば、間を置かず再度かかって来るはずだ。


 薄暗いリビングダイニングの隅で、電話がLEDライトを点滅させている。液晶画面を覗き込むと、留守録が一件登録されていた。留守番電話機能は普段滅多に使われない。受話器片手にどうやって再生するのかしばらく手間取るはめになった。


『こちらは巴市役所、特殊自然災害係の朝賀と申します。早朝から申し訳ありません、至急、確認させて頂きたいことがありますので、今からお宅に伺おうと思います。私どもが着くまで、晴人くんの居場所を確認して、見守って頂けますか? よろしくお願いいたします、失礼します――以上、一件、です』


 まさか、そんな。と、不吉な予感を頭が拒絶する。一気に胸の鼓動が騒がしくなる。やっとの思いで受話器を置いたこのみは、弾かれたように寝室へ向かった。途中、先ほどおざなりに閉めた勝手口に、隙間が見えて更にぞくりと悪寒がする。


(とにかく、まずベッドを――)


 最初そう思い、しかし結局このみは進路を変えた。今なら、まだ間に合うかもしれない、小さな背中が見えるかもしれない。願望に押されて家を飛び出す。いつも息子が引き寄せられていた山の方へ歩く。しかし、晴人の姿は見えない。家の周りをぐるりと一周、走りながら名を呼んで、このみは呆然と勝手口の前に立ち尽くした。


(一体、いつ。さっきまで私が外にいたのに……閉めそこねた勝手口から? だとしたらまだ近くに、いえ、取りあえず家の中を……)


 口元を押さえ、ふらふらと家に上がったこのみを、寝間着姿の夫が迎え入れた。


「どしたん、朝早よから……」


「あっ、パパ、ねえハル君は? 一緒に寝てなかったの?」


 一縷の希望に縋って尋ねたこのみに、夫の俊輔しゅんすけはいいや、と怪訝そうに首を振った。


「お前が呼びよったんじゃないんか――まさか、」


 そこで勘付いたのか、目の前の俊輔の顔色も変わる。もう一度夫婦で家を飛び出し、それぞれが近所の目も顧みず大声で晴人を呼んで歩く。だが、あの短い足でどうやって、と思うほど、もう辺りに晴人の姿は見えなかった。


 一番可能性があるのは、住宅地の裏から小さな神社に出る細い道だ。山の斜面にかじりつくような場所の、小さな集会所と社を見上げてこのみは考える。俊輔は反対方向を探して歩いている。一度引き返して、二人で登るべきか。そろそろ、市役所の職員が来る頃かもしれない。待って、指示を仰げば良いのか。


 ぐっと拳を握る。


「なんで……」


 どうして自分が、自分達がこんな目に遭うのか。聞かされた理屈はあまりに不条理で、到底納得できるものではなかった。終わったなら、それでいいと思っていたのに。


 サンダルのまま駆け出す。


 部屋着の上に冬用エプロンだけの薄着だが、羽織る物を取りに帰る余裕はもうなかった。


 住宅街の直線的な道を抜け、古い民家の前を通る細い坂道を駆け上がる。集会所の前を横切って段差の大きな石段を這うように上れば、謂れも良く知らない小さな神社が建っている。祭りに参加したこともない、そもそも、いつ祭りをやっているかもよく知らない。


 手前に賽銭箱を置いただけの、飾り気のない小さな社がその扉を開いている。


 真冬の早朝、常駐する神主などいるはずのない、小さな神社だ。


(晴人は、この奥だ――!)


 断言する直感に従い、このみは躊躇いなく土足で社に踏み込んだ。

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