夜明け前(三)


 水垢離みずごりを終え、冷え切った体をシャワーで温めていた美郷の脳裏に、不意に紐の千切れるような感覚が過った。式神を落とされたのだ。


「来たか」


 頭の上から浴びていたシャワーを止め、濡れた長い髪を掻き上げる。手首にかけていたヘアゴムで括って絞れば、ばたばたと足元に水気が滴った。


 十分体は温まった。すぐに市役所の一報を入れるため風呂場を出て、脱衣場で手早く体を拭きながら持って来ていた携帯を手に取る。市役所の電話は時間外は繋がらないので、少し考えて怜路の携帯番号を呼び出した。


 予想通り、特自災害の事務室に全員集まっていたので、式神を落とされた旨を報告する。係長の芳田から出勤の許可を得て、美郷は一旦通話を切った。


「共通点、か……」


 スマホの画面をぼんやりと眺める。デフォルト設定のままの背景は、満天の星空を望む丘だ。


(もう帰れないから、お前も一緒に……そうか、あの時の感覚に似てたんだ)


 現世に嫌気が差して常世ははがくにを恋しんだ日、美郷は幼い弟の手を引いて帰る便のないバスに乗った。その当時の昏い感情と、鬼の見せた悪夢はよく似ている。


(弟とか、妹とか……娘息子は考えづらいけど。あの「鬼」は多分、人柱としては年齢が高い……って、とりあえず服着ないと)


 髪から滴る雫の冷たさに、我に返る。


 脱衣籠の隣に設えられている洗面台の、大きな鏡に映る己と目が合った。多少目元に隈が浮いて、顔色が悪いかと苦笑いする。だがこの騒動も、もうそう長くは続かないはずだ。服を着る前に、もう一度髪をほどいて絞る。


 揺れる湿った髪が一筋、背中の上で擦れた。


 普通の肌とは違う引っ掛かるような感覚は、鱗に触れた時のものだ。体を捻り擦れたあたりを確認すると、左の肩甲骨の上に、白く半透明の鱗が整然と並んで細い菱形の格子を作っている。指先を伸ばせば、薄い爪の上を撫でるような淡い硬さが触れた。


 人ならざるモノの鱗を持つ、己の背中を鏡に映す。


 長い髪と、蛇の鱗を持つ、これが「宮澤美郷」だ。


 普通からはほど遠く、人間の範囲すら逸脱しかねない。曖昧で不安定な今の自分だ。それでも「鳴神美郷」としてあの家にくびり殺されて果てるよりも、別の道を選んだことに悔いはない。


 この背に何を負って、何者と名乗るのか。


 まだ、何者となら名乗れるのか、はっきり自信を持って言うことはできない。


 では、自分はこれから、誰として、何として加賀良山へ向かうのか。


「おれは、巴市役所の職員。そして、克樹の……」


 ――あにうえ、と。まだそう呼んでくれるのかは分からないが。あの家の一員であることは捨てても、克樹の兄である自分を捨てたいと思ったことは一度もない。


(本当は、ずっと一緒に居てやりたかった。お前を手放したくなかったんだ……だから『あの時』、お前を連れて行こうとした。でも結局、お前を鳴神に残して、おれは別の場所で生きてる。きっとそれで正しかったんだ。もう、一緒には居られない。だけど、)


「待ってろ克樹。お兄ちゃんが助けに行くから」


 嫌われても、今までの行いをそしられても、弟をあの山から現世うつしよへ取り戻す。どんな打算や依存に裏打ちされた、昏く歪んだ感情だったとしても、美郷が克樹の「お兄ちゃん」でありたいことは間違いはない。それは、誰に強いられたわけでもなく。


(全部、おれが、おれのために望むことだ。だから、曲げない)


 美郷は、美郷が望むものを守り、取り返すためにその力を使う。揮う力の理由を、他人に押し付けるつもりはない。


 最後の夜が、ようやく明けようとしていた。

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