夜明け前(一)
9.
深夜、午前三時を回ろうかという頃に怜路の部屋から撤収した美郷は、午前五時前に再び叩き起こされた。若竹が怜路の言葉を聞かず、勝手に加賀良山に入ってしまったという。芳田の個人携帯番号を訊ねられ、知っていたので美郷から電話をかけた。
ひととおり、美郷と怜路の話を芳田に伝え終わった頃にはそろそろ空は白み始めており、午前休を言い渡されたが眠れそうにもない。このまま加賀良山の鬼と対峙するのは避けられないならば非常事態と割り切って、美郷は休養や回復よりも精神統一を優先することにした。
生地の厚い冬用の寝巻から、白い木綿で仕立てられた
木製の桶ならもう少し風情が出るだろう、と苦笑しながら、美郷は裸足のまま中庭に踏み出した。昼間の曇天は綺麗に晴れており、まだ夜空と呼んで良さそうな濃藍の中に星が光っている。冷え切って、刺すように凍てつく冬の夜明けの空気が美郷の体温を奪う。裸足に触れる土も草も、まるで氷を踏むようだった。美郷は眼を伏せ、呼吸を深く、ゆっくりと整える。
「高天原に
祓詞を唱えながら、池に片足を浸す。水面に張っていた薄氷がぱきりと割れた。続けてもう一方の足も踏み入れ、美郷は池の中に膝を折った。
「
足の指の又に、池底の泥が入り込む。ぬるりとした感触を気にする暇もなく、痛みに近い冷たさが水に浸った下半身を刺した。一気に心拍が上がり、呼吸が震えそうになる。逃げたい、今すぐにも飛び出したい思いをこらえ、美郷は一心に最要祓の祝詞を唱え続ける。
美郷にかき乱されて濁った水を風呂桶に掬い、肩からかける。終わればもう一方の肩に。声が震える。勝手に浅くなる呼吸を、意識して、意識して深く整える。
「祓い賜い、清め賜え。神火清明、神水清明、神心清明」
寒さに震える美郷の体と裏腹に、陰の気を好み暑さを苦手とする白蛇が、喜ぶ気配が肚の内側から伝わってきた。
「ごめんな、昨日は無視して」
特定の言葉にまで形を結ばない、ただ『是』という感覚が内側から返ってくる。
山がようやく目覚める時刻、山から池に下りてきていた小さな闇の気配は徐々に消えていく。ばしゃり、と今度は頭から水を被る。感じるのは体を苛む寒さ冷たさと、それに抗おうとする己のみになる。
自分の鼓動が、全身を震わせている。
美郷と美郷の内側にいる蛇だけが、ちっぽけで貧相な、美郷の身体の中で向かい合う。寒さに凍える美郷と、真冬の冷気にはしゃぐ蛇は全く別の存在で、しかし、意識の根底で癒合した同じ存在だ。
「白太さん。おれに力を貸してくれ」
眼を閉じて、目の前に白い大蛇を思い浮かべて語りかける。
瞼の裏に映る蛇はとぐろを巻き、鎌首をもたげて正面から美郷を見ていた。この大蛇は美郷自身だ。美郷を喰らおうとした蛇蟲――呪術のために壺の中で喰い合いをさせられ、他の蛇を喰って最後に残った一匹であると同時に、他人に喰われることを断固拒否した、美郷自身の「生」への執着の塊だ。
白蛇を無視することは美郷自身から目を背けることで、それはすぐさま今回のように、己を見失うことに繋がる。
「おれは、色んなものに振り回されて、惑わされる。職場の心証だとか、仕事の出来だとか、友人関係だとか、家族関係だとか。これから先、狐狸妖魔の類の相手をしてれば、いくらでもそれに付け入られると思う。でも、白太さんはソレに惑わされたりしないだろ。白太さんは……おれの根っこの部分は、いつだって『生きたい』と思ってる。それだけだ。今までちゃんと向かい合ってこなくてゴメン。これから先、白太さんからのシグナルは全部きちんと受け取る。お前のことを、他の何より信じるから」
相対する白い大蛇は、ただじっと、紅い双眸で正面から美郷を見ている。ぱくぱくと口を開いて喋るわけではない。時々ちろりと二股に裂けた舌が覗く。美郷はその鼻っ面にそっと手を伸ばした。真珠色の鱗が光る体に触れる。伝わる意思は「いいよ」の一言のみ。
美郷の体はいつ、どんな時でもただ、生きることだけを望んでいる。
いつでも美郷の意思に従い、美郷の為だけに存在する。美郷の体が、本当の意味で美郷の存在を拒絶し、否定することはない。ともすれば、日々の悩みに振り回されてすぐに忘れてしまうそのことを、目の前に示して思い出させてくれる、白蛇はそんな存在かもしれない。
「これからもよろしく、相棒」
笑いかけた美郷に白蛇がすり寄り、そのまま美郷の体に溶け込んで消えた。
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