鎖(三)
狩野怜路の記憶の中に、「血縁」というものは存在しない。
それは怜路の記憶が始まった瞬間から、巴市で戸籍を回復した今でもずっと変わらないことだ。全く顔も形も覚えていない肉親はとうに絶えた後で、遺品も綺麗に整理されて残ってはいなかった。十五年前、川に流されて失踪した子供が一人生きていたという事実に関心を払う人間も、いわんやそれを喜び迎える人間も、もうこの世には存在しないだろう。
そして怜路を拾った養い親も真人間とは言い難く――本人は「天狗」を自称していたし、それは多分嘘ではないと怜路も思っているが、見た目は年甲斐のない派手な格好をした、万年アロハシャツに無精髭の胡散臭い根無し草だった。その養父は幼い怜路に山と街で生きる術を全て叩き込んだが、容赦のないスパルタの前提は常に「怜路が一日でも早く一人で生きてゆけるようになるため」だった。
養父は自分で怜路を拾った割には、すぐにでも置いて行きたそうであったし、実際、年の何割かは知人の元へ怜路を置いて、ふらりと一人で消えていた。とうとう帰ってこなくなった時分には、怜路も「まあそろそろ潮時だったな」と特に感慨もなく受け入れたものである。
そんな、血を分けた家族の絆とは無縁に生きてきた怜路から見れば、美郷と克樹の「絆」はひどく眩しい。
絆の語原は家畜を繋ぎ止めた「
「……でも、お前の方が立派だし、凄いと思うよ」
怜路がこぼした「羨ましい」の言葉に、悲壮な顔で黙り込んでいた美郷が戸惑いの混じった曖昧な笑みを浮かべる。
「いや、オメーじゃなくて克樹がな。こんだけ想ってくれる肉親なんて、後から欲しいつって手に入れれるモンでもねーじゃん」
無論、良いばかりの物でもないのだろう。先ほどまでつけていたテレビは深夜のドキュメンタリー再放送を流しており、機能不全家族とやらで育った女性が、「親」を断ち切るまでの苦闘を追っていた。少しでも歯車が狂えば「毒」となり「刃」となる、なのに生まれ落ちる瞬間に選べもしない不条理な関係性だ。
それでも、この世は「絆」を礼賛する物語に溢れている。
清く麗しい、全きそれなど幻想に過ぎないとしても、一度も手にしたことのない人間にとっては同じ「己は一生手にできないもの」だ。きっと憧れをぬぐい去ることなど無理だろう。
「でも、お前にだって拾ってくれた親父さんとか……もう亡くなってるにしても、ご両親もお姉さんも居たんだよ?」
唯一、怜路にあった「家族」の遺品は、怜路と姉の千夏、二人に贈られていた節句人形だ。しかしそれも、怜路が連れて帰った狗神を肩代わりして「依代」としての役目を全うし、白蛇の腹の中である。招き猫は吐き出していたので、美郷の襟巻きになっているあの白蛇を逆さに振ればあるいは出てくるかもしれないが、そんな真似をする気にもなれない。
「つっても、あのオッサンは野良の雄猫と大差ねえような、アテになんねえ大人だったし、もうどこにも居ねえ家族を今更無理矢理思い出したいとも思わねえし」
時計の短針は二時をとうに回り、朝から臨戦態勢で働きづめだった心身はクタクタだ。素面で言うにはどうにもくだらない馬鹿馬鹿しい話を垂れ流すのには、丁度良い頭の煮え具合だった。
「そんなの、おれも似たようなもんだろ。現に鳴神を出てから、もう何年克樹の顔を見てないか……」
「だからこそ、お前が迎えに行ってやったらいいんじゃねーの、って」
心配した分だけは怒って、無事だったらそれを喜んでやればいい。そうやって「家族に心配して、探して貰う」権利を美郷の弟はまだその手に握っている。怜路の手には端からなく、美郷は自分で破り捨ててきたものだ。怜路はそれを僻むよりも純粋に、持っているなら使わせてやりたいと思う。
狗神を引き受けた時も思ったことだ。己に血を分けた子があると知って豹変した男はきっと、傍からは見苦しく卑怯に映っただろう。だがそれが、怜路にはひどく眩しく見えたのだ。
美郷はまた、物思いに沈んでいる。
怜路は手持ち無沙汰に、コタツの上にあった空けくさしのペットボトルを手に取った。キャップを捻ると温まった炭酸飲料が、ぷしゅり、と音を立てる。とはいえコタツが温かいだけで、ファンヒーターを切ったままの室内気温は十度そこそこだ。甘ったるい液体を喉に流し込めば、それなりの冷たさが清涼感を残す。
「……全部が全部、綺麗事だけの関係なんて存在しねえだろ。特にガキの頃なんざ、付き合う相手を自分じゃ選べねーんだし」
美郷は克樹に対して、なにやらひどく罪悪感を抱いている。弟の苦境の責任を一人で背負い込んでいるようだが、怜路に言わせればどう見ても周囲の大人の責任だ。克樹を孤独に追い込んだのも、美郷がそれを自分のせいだと錯覚するまで追い詰められたのも、周りの連中が無能だったせいだろう。美郷とて所詮、まだ十代の子供だったのだ。
(近くに居るのがあんなんじゃなけりゃ、色んなことがもう少しマシだったなんてこと、ちょっと考えりゃ分かりそうなモンなのになあ)
いざ自分のこととなると、冷静に見れないものなのだろう。
「夢を――見てたんだ。八雲神社の邪気に、色々……引っ張り出された」
「敵意ありきの精神攻撃じゃねえか。真に受けてどうすんだ」
見せられたものは美郷の心を抉るために、故意に歪められた記憶や感情の可能性が高い。呪術者としては、そんなものははね除けてナンボである。
「いや、違う……敵意じゃなかった。おれを同調させたかったんだ。同調させて、操りたかったのか……?」
ぽつりぽつりと喋り始めていた美郷が、今までとは別の「思案する」顔で黙り込んだ。長い指が、男としては華奢な顎に触れる。どちらにしろ悪意には変わりない。だが美郷を「利用」しようとしたならば、分析すればある程度敵の意図が読めるはずだ。
「誰かを、探して……追いかけて捕まえに行きたかったんだ。捕まえて……もう、自分は戻れないから、相手も一緒にって……おれは克樹を追ってたはずだ。でも、八雲神社、いや、加賀良山の奴が追いかけて捕まえたがってる相手は別にいるのか……」
指の背を唇に当てながら、美郷が目を細める。多少覇気の戻ってきた表情に、怜路はそっと安堵した。
「探して、追いかけて、捕まえにか。なるほど『鬼』だな。長曽の子供を呼んでやがんのもソイツだろ」
問題はその「鬼」の正体と、探している相手だ。鬼の正体は加賀良山に人柱に立てられた少女のはずだ。江戸時代まで遡り、その少女を特定して鬼となった理由を割り出さなければならないが、記録が少なすぎて調査は足踏みをしていたという。
「長曽八雲には七年に一度、氏子の厄を移した小豆を詰めて、大きな藁人形を作る祭りがあったんだ。藁人形は木箱に封じられて、御神体として八雲神社に祀られる。それに使われてた小豆が流出して、巴小学校に渡ったみたいだった。おれに付いてきたのは、昼間に開けたその御神体から出てきたモノだろうけど……」
「なるほど、小豆ね。確かにアレは小豆虫だったな……うえっ、キッショ」
正式名称はアズキゾウムシ、小豆の豆粒に産卵する害虫である。産卵された豆に気づかず他の豆と一緒に保存すると、保存容器の中で繁殖して豆全体を食害してしまう体長二、三ミリの小さな甲虫だった。引戸や美郷の周りに群がっていた様子を思い出して、怜路はひとつ身震いする。職業柄、滅多なものには怖じ気付かないが、生理的嫌悪感だけはどうにもならない。
「で、その藁人形は何っつーか、誰っつーか……そういうのはなんか分かったのか」
元々は、飢饉の折りに人柱の代わりとして、山に上げられていたものだろう。だが、加賀良山に鬼が住み始めてから作られたものは、意図が違うはずだ。厄落としに、布でくるんだ小豆を使う風習は他にもある。怜路や美郷も使う、
「とりあえず、小豆を栽培してた家の人に話を聞いたり色々確認して、七年サイクルの『最初』がどこだったのか調べたんだ。やっぱり、江戸時代の大飢饉が始まりだった。年を特定して当時の人別帳を調べたら、まあ、大飢饉のさなかだから、かなりの人が亡くなってたんだけど……」
大量の餓死者を出したからこその「大飢饉」の呼び名だ。台帳にも多くの死亡、逃亡が記されていたという。その中から特自災害は、数え七歳以下の子供をリストアップしたそうだ。どうやら美郷は職場の先輩連中に早めの時間に追い出されたらしく、最終的にどこまで調査が進んだかは知らないようである。
「長曽の集落が檀家に入ってる檀那寺は結構大きくて、年を特定して探したら少し当時の記録が残ってた。飢饉が一段落した直後に、集落で疫病が蔓延してまた大量の死者を出してるんだ。多分この時に長曽八雲が建てられてるんだろうね。この時の様子を伝えてるのが、小豆研ぎの祟り伝承なんだろうけど」
長曽八雲は、大飢饉直後に起こった疫病を鎮める目的で建てられている。そしてその御神体は、小豆を詰められた藁人形――つまり、加賀良山に立てられた「人柱」である。その腹に、村人に降りかかった疫病と言う名の「厄」を移した小豆を詰めた。つまりこれは、祟る神となってしまった人柱から降りかかる厄を、人柱に返してそれを祀ることで鎮めようとしたのだろう。祇園信仰をはじめ、日本の神社はこうして「祟るモノ」を崇め奉り、慰めることでその怒りを鎮めるものが多くある。
しんしんと夜は更けてゆく。蛙や虫たちの眠っている冬の夜は静かだ。時間を切り刻む秒針と、台所からガラス戸をかすかに震わす冷蔵庫のモーター、時折カチン、と作動する電気コタツのサーモスタットと、身の回りに散らばる人工物の音だけが辺りを満たしている。生き物の気配がしない、当然人の気配などない、死と眠りの季節の只中だった。
美郷は完全に目が冴えたらしく、しっかりした顔つきで手元を睨んでいる。ちらりと横目で時計を確認した怜路は、このまま完徹かと腹を括った。美郷には、明日は午前だけでも休めと言っておいた方が良いだろう。
「――ともかく、加賀良山の鬼になってしまった人柱は、誰かを探して数え七歳未満の子供を山に引っ張ってるんだろうと思う。なんできちんと神を降ろせず鬼になってしまったのか……その辺が分かればまたスッキリするんだろうけど。怜路、明日……っていうか、今日、お前と若竹さんだけで山に入るのか?」
「そのつもりだがね。……つまりそうか、俺ァその鬼の懐に野郎と突っ込むことになんのかい。つーか、その鬼と克樹は……ああ、いや、行ってみりゃ分かるこったなウン」
言い差して、改めて事態の厄介さに頭を抱える。克樹の居場所が分かったのは喜ばしいことだ。しかし、その克樹は現在巴市を――というと大袈裟かもしれないが、美郷ら特自災害係を震撼させている「鬼」と同じ場所に迷い込んでいる可能性が高いのだ。
「朝イチでおれから係長に連絡して、こっちも同行できるか確認してみるよ。加賀良山に入るなら、ウチも傍観はできないだろうし。……っていうか、そうか、まず克樹のことを係長に報告するところからか」
「あー、その手間は無ぇと思うぜ。俺が昼に行ったときそれとなーく伝えといたから。それと、お前が同行すんならせめて昼からの方がいいかもな。どうせ場所はもう絞れたんだ、俺もお前も、とりあえず寝てからの方が安全だろうよ」
考えれば考えるだけ厄介なように思えるが、ひとまず目的地はひとつに定まり、ついでに美郷と同じ場所に揃った。精神攻撃を食らった美郷は興奮して眠れないかもしれないが、怜路はそろそろ限界である。思わずこぼれた大あくびに、はっと顔を上げた美郷が時計を確認した。
「げっ。こんな時間か! ゴメン怜路……付き合わせて。じゃあ、とりあえず一旦」
そう言って、美郷がそそくさとコタツを出る。おう、と返して怜路は散らかった衣類を跨いでく背中を見送った。
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